【映画】「shari」感想・レビュー・解説

なかなかに謎な映画だった。

だからダメだ、などと言うつもりはない。

僕がこの映画を観て一番疑問だったのは、「監督は、何故この映画を撮ろうと思ったのか、そして何故このように撮ろうと思ったのか」ということだ。

そして、もしそこに言葉での説明がつかない(つけにくい)とすれば、この作品は「映画」というよりは「アート」と呼ぶべきものだと思う。

そして「アート」だとするなら、この作品は成立していると感じる。「アート」のことはよく分からないが、「それがなんであるのか分からないが表現したい衝動みたいなものがあり、それを表現するにはこれしかない」みたいなものが「アート」だとするなら、まさにこの映画はそのようなものだろう。

映画は、北海道の斜里町に住む人々の生活と、斜里町の自然の変化(雪や流氷が少ないなど)を描きつつ、謎の「赤いやつ」が真っ白な雪の世界を動き回るというものだ。生活感のあるドキュメンタリータッチの映像と、「赤いやつ」が動き回る生活感の無いフィクショナルな映像が組み合わさっている。

「アート」的な部分は、僕にはなかなか上手く捉えにくい部分があるが、生活感という点では次の発言が一番興味深かった。

【自然は原資だ。原資には手を付けず、利息で食ってくべ】

斜里町は、漁業・農業・観光が入り混じる土地で、それぞれの立場の人がそれぞれの考えを持っていた。その食い違いを埋めようと話し合いを続け、3年ほど掛けて共通理解に達したようなのだが、それを象徴するのが上述の引用だ。この点については、誰もが即座に賛同し、揺るがない部分だということが確認でき、これをベースに斜里町の未来を考えられるようになった、という。

また、これに付随して、「自然との共生」に関する話も興味深かった。

斜里町では、熊が出る。そして、熊出没の案内が放送で流れると、町の人の間で、「うまく山に逃げてくれればいいねぇ」という会話がどこからともなく上がるという。要するに、「人間に駆除されずに、上手く生き延びてほしい」という意味だ。

しかししばらくして、予想できることではあるが銃声が聞こえ、熊は駆除されてしまう。その銃声が聞こえると、「ホントにこの選択で良かったのかねぇ」という話になるのだそうだ。

【「これが共生です」とスパッと線引できないところに住んでるんだよ】

「自然という原資に手をつけない」と決めた者たちだからこそ、自然との境界がはっきりしているようで曖昧になる。斜里という町で生きると決めた者たちだからこそ、「共生」に対する考えがぼやける。猛々しく言葉を並べることは簡単だが、現実はもっと曖昧模糊としたものになるのだ、ということが、この映画の中ではくっきりと描かれていく。

映画に映し出される斜里町の住民たちの話は、言ってしまえば「どうということのない話」だ。自宅の庭にモモンガが住み着いていることに気づいた、3日前に撃った鹿の肉を食べる、パン屋の名前は妄想癖のある子につけてもらった、酪農をやめて木彫像の収集を趣味にしている。

どれも「どうということのない話」である。

しかし一方で、彼らの生活は「『町』と呼ばれるものの境界線」で成り立っているからこそ、奇妙な統一感があるとも感じられる。

斜里町というのは地図で見ると、北海道の北の端と言っていいような場所にある。だから流氷も着岸するのだ。確かにそこには、家が建ち、店があり、「町」として機能している。しかし一方でそこは、日本という土地の限りなく限界地点に近い場所でもあるし、先ほど書いた通り「自然との共生」という意味でも人工的なものとの遠さを感じさせる。

そういう意味で、斜里町は「町」であり「町」ではないような場所に感じられる。

そして、この映画に登場する住民たちは、そんな斜里町に住むことを決断した者たちである。

斜里町で生まれ育って他の土地で暮らしたことがない者もいる。しかし斜里町から出るつもりはない。別の斜里町出身の人物は、病気で2年ほど札幌で療養した経験から地元・斜里町の良さに気づき、家を建てる決心をしたと語っていた。

日本中様々な土地を転々とし、1つところに定住することがほとんどなかった女性は、斜里町に既に15年住んでいる。東京からやってきた夫婦は、鹿猟の免許を取り、ライフライン的な苦労を感じながらも、生きている実感を得ていると話していた。

「『町』という存在の境界に住むことを選んだ者たち」がその生活を語るという意味で、奇妙な統一感を感じさせるのではないか、と見ていて思った。まったく同じエピソードを、例えば東京の下町の人が話しても、受け取り方はまったく変わってくるだろう。

そういう観点からも、この映画は、「境界/狭間」を描き出しているのだと感じる。

謎の「赤いやつ」は、公式HPには「ヒトとケモノのあいだ」と書かれている。まさに「境界/狭間」の存在と言えるだろう。だからなんなんだ、と言われると困るが、そこに制作側のなんらかの意図があったんだろう、と思う。

よく分からないと言えばよく分からない映画なのだが、それは僕に「アート」的な受け取り能力が無いからだろう。プロモーションという意味で言えば、「赤いやつ」を前面に押し出したビジュアルは凄くいいと思う。「なんだかよく分からんけど気になる」という気分を掻き立てる。

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