【映画】「永い言い訳」感想・レビュー・解説

『自分の遺伝子が怖いって、思ったことない?』

ある。
僕にはある。
自分の遺伝子が残っていく怖さ、みたいなものが。

『こんなサイテーな人間が受け継がれてくなんて』

そう。
そういう怖さが僕にもある。
自分みたいな人間が、この世界に増えることの怖さ、みたいなものが。

『そうしないと、僕みたいになるよ』

彼の後悔は、映画の中ではほぼ一点しか描かれない。
妻が死んだ時、愛人とセックスをしていた、ということだ。
しかしもちろん彼にも、それだけではない、人生の中で堆積された後悔が山ほどある。
あるはずだ。

『僕みたいに、愛していいはずの人が誰もいない人生になる』

彼の述懐は、後悔ではない。彼はきっと、後悔はしていない。恐らく、人生をやり直せるチャンスがあったとしても、彼はきっとまた同じ生き方をするだろう。
他人を受け入れず、世の中を斜めに見て、僻みを抱えてその場に留まるような、そんな人生を。

だから、遺伝子が怖いのだ。
自分で変えることが出来ないと分かっているから、怖いのだ。

『先生、私のこと抱いてるんじゃない。誰のことも抱いたことないんですよ』

彼は、妻の死の報を聞いた時、何を喪ったのか理解できていなかった。彼は、妻が死んでも、まるで哀しくなかった。妻の存在の喪失は、彼にとっての喪失ではなかった。少なくとも、妻の死の報を聞いた時には。

彼には、妻の死がもたらしたものを、うまく捉えることが出来なかった。もしかしたら、愛人に「私を抱いてるんじゃない」と言われた時、少しだけ喪失の形が見えたかもしれない。でも、たぶん少しだけだ。


彼は、喪ったものが何なのか分からないまま、日々を過ごしていく。妻を喪って哀しいわけでもなく、むしろ新たな家族との関わりを得て、以前より充実した生活を過ごすようになっていく。

しかし、その家族との関わりの中で、彼は気づく。自分が喪ったものを。

僕は、彼が喪ったのは「現実」なんだと思う。

妻が死んだ後の彼の日常は、「現実」ではなかった。葬式で、心にもない弔事を読み上げ、妻を亡くした作家を追うドキュメンタリー番組で意味のない手を合わせる。編集者からは落ちぶれた作家という扱いをされ、妻の死後まともに小説を書けているわけでもない。
そして最もファンタジックなのが、子守をすることになった兄妹との関わりだ。彼自身に子どもはいないし、恐らく子どもが好きなわけでもないが、彼は目の前に立ち現れた仕方のない事情に救いの手を差し伸べる、という体で、これまで自分の人生ではありえなかった「家族」との触れ合いを手にする。
しかしそれは、ファンタジーでしかない。

『子育てって免罪符ですよね、男にとって。自分がサイテーのバカだってこと全部忘れて、何もかも帳消しに出来る』

彼にとって、兄妹との関わりは、新たな「現実」だった。自分が生きるべき「現実」だと考えていた。しかし、その「現実」の脆さをある時彼は知る。知ってしまう。
その時彼は気づいたのではないだろうか。自分が何を喪ったのかを。妻がいたからこそ、自分の「現実」は成立していたのだ、と。

そのことに気づくまで、彼は永い永い言い訳を続ける。自分が「現実」から逃避していたこと、そして今では逃避すべき「現実」すら喪ってしまっていたこと。そういうことを彼は、言い訳をし続けることで見ないようにしていたのではないだろうか。

『自分の幸せの尺度だけでものを言わないでよ』

彼はもう、そう言うので精いっぱいだったのだ。それぐらいしか、自分を守る方法がなかったのだ。

喪ったものの大きさは、喪ってからでないと分からない。人によっては、喪ってからもしばらくは分からない。もしかしたら、一生分からないかもしれない。
それは、哀しいことだろうか?

内容に入ろうと思います。
作家の津村啓こと衣笠幸夫はその日、妻の夏子に髪を切ってもらっていた。冷え切った夫婦の会話をしながら。切り終わってすぐ夏子は高校時代の親友と旅行に出かけた。一方の幸夫は、妻の旅行にかこつけて愛人を自宅に呼びセックスをする。
翌日、警察からの電話で、夏子がバス事故で亡くなったことを知る。
悲しみの欠片もないが、カメラの前では「妻を亡くした傷心の作家」を演じる幸夫。そんな彼の元に、夏子の親友であり、夏子と一緒に死亡したゆきの夫である大宮陽一と出会う。陽一は幸夫とは対照的に、「妻を返せよ!」とバス会社の社員に怒鳴るような男で、そんな陽一のことを幸夫は、ちょっと違う人種だと思いながら見ている。
ある日、ゆきや夏子のことを話せる相手がいない、ということで陽一から連絡をもらい、陽一の二人の子供と一緒に食事に出かけることにした幸夫。その食事の席でちょっとしたトラブルがあり、長男の真平を家まで連れて帰らなければならなくなった幸夫は、真平の苦境を知る。父である陽一は長距離トラックの運転手で、母も亡くしたために、妹の灯の面倒を見なければならず、優秀でありながら勉強がまともに出来ないでいる真平は、塾も辞め受験もしない覚悟を決めていた。そんな真平を見た幸夫は、真平が塾に行く日だけ灯の面倒を見る、ということで大宮家にやってくることになったのだ。
自分ではついぞ得ることになかった暖かい家族。自分の遺伝子が関わっている子ではない、という意識もきっと後押ししたことだろう。幸夫は、妻の死によって何を喪ったのか理解しないまま、大宮家にどっぷりと馴染んでいく…
というような話です。

原作も良かったけど、映画も良かった。これはまさに、原作と監督が同じだからだろう、と思う。原作のことはあまりちゃんとは覚えていないけど、映画とは結構違う部分もあったように思う。西川美和が、小説に向くエピソードや描写、映画に向くエピソードや描写をきちんと理解しているからだろう。また、原作も映画も「物足りない」と感じさせることがなかった。これも、原作と監督が同じであるが故だろうという感じがした。乾ききった冷たい人間の生活が、家族との触れ合いで溶け出す…などと書くとありきたりの物語に聞こえるが、そういう要約ではうまく拾いきれない何かが詰まっている映画だと思う。

主人公の衣笠幸夫には共感できる部分がとても多い。僕は、外面的には衣笠幸夫ほど酷い人間ではないと思うが、内面は遠くはないはずだ。映画を見ながらそのことをひしひしと実感した。

僕が印象的だなと感じたのは、幸夫が兄妹(特に兄の真平の方)に語りかける言葉だ。幸夫は大宮家と関わっていく中で、真平が置かれている厳しい状況に対して、常に何らかの言葉を掛けていく。

しかし、僕はそれらの言葉は、自分自身に、あるいはかつての自分自身に発した言葉であるように感じられた。幸夫は、真平に様々な心情を伝えることで、ある意味で自分の人生をやり直そうとしているのではないか、と感じた。幸夫は、自分自身のことをサイテーの人間だと考えている。そしてそれは、遺伝子に刻まれた、逃れようのないものだ、とも感じている。しかしもしも、言葉によって、幸夫自身が発する言葉によって真平が変わることが出来たとすれば、人間は遺伝子ではない何かによって変わることが出来ると信じられる。幸夫の内側には、そんな衝動が見え隠れするように思える。

そしてその衝動は、別の意味でも真平に向けられることがぴったりだったのだ、と僕は感じた。

本書のもう一人の主人公は、僕は真平だと思う。これは原作小説では感じなかったことだ。

真平は様々な場面で父への不信感を露わにする。

『泣いたってお父さんに言わないで』
『僕はお葬式の時に泣かなかった。そしたら言われたんだ。お前平気なのかって』

そしてその不信感は、父親である陽一も僅かながら察している。

『今日初めて会ったくせに、幸夫くんにはそんなこと言うんすね』

この関係性は、映画の冒頭からしばらくの間は感じられないが、徐々に明らかになっていく。
そして、そういう不信感が漂う大宮家に、幸夫がやってくるのだ。
父親という遺伝子の存在を否定したい真平。それはまるで、自らの遺伝子の呪縛に囚われている幸夫のようだ。幸夫は、そんな真平に対して言葉を掛けることで、自分にも変わる可能性があったのだ、という幻想を持ちたいと願う。そしてさらに、真平に対して擬似的な父親として振る舞うことで、「妻を返してくれ」と絶叫できる、自分にはない感覚を持った陽一のことを否定したい、という気持ちも持っているのではないかと思う。

そういう思いを抱きながら大宮家に通っていたから、あの灯の誕生日の場面に結びつくのだ。擬似的な父親でいられる環境を手放さなければならない状況で、無様な姿をさらしてしまうのだ。

『(死ぬのが)お父さんの方がましだったって思ったの』

そう心情を吐露する真平。この映画は、衣笠幸夫という男の物語であると同時に、大宮真平という少年の物語でもある。父親という、自分の力ではいかんともしがたい存在に対するやりきれない気持ちに振り回されながらも、目の前の現実でどうにかふんばろうとする少年の物語だ。

家族に正解はない、といつも思う。結果的に、どんな家族も正解なんだと思うしかない。何故なら、どれだけ「不正解」な家族の中にいても、特に子供はそこから自力では抜け出せないからだ。そこから逃れられないのなら、そこが正解だと信じるしかない。恐らく真平は、その覚悟を持つことが出来たはずだ。
幸夫はどうだろう。その覚悟を持たずにこの年まで生きてきてしまった幸夫は、正解かどうかを判断する対象である「現実」そのものを既に喪ってしまった。彼の人生がこの先どんな風に続いていくのか、気になるところだ。

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