【映画】「うみべの女の子」感想・レビュー・解説

とても良い映画だった。

もちろんこの作品は原作がとても良いのだけど、それを非常に良い感じに映画にしている。

「中学生のセックス」が中心に存在する作品を映像化するのは大変だったと思うが、その挑戦に見合った映画に仕上がっていると思う。


僕は、恋愛とか夫婦とか親子とか先輩後輩のような、当たり前に名前がつく関係が昔からどうも苦手だった。

だからそういう意味で、彼らの関係はとても羨ましく感じる。セックスがあるとかないとか関係なしに、関係性の名前をするりと超越しているところが。
(まあもちろん、セックス的なところも羨ましいと言えば羨ましいのだけど)

僕は、人間関係が上手くいかなくなってしまう大きな要因の一つは、「関係性の名前の方が強くなってしまうこと」にあると思っている。

「付き合ってるのに浮気するなんてサイテー」「結婚したってのに俺が家事しなきゃいけないわけ?」「子どもなんだから我慢しなさい」「先輩の命令は絶対だろ」みたいな言葉はすべて、「その人自身」を無視した発言だ。その人がどうであるか、ということよりも先に、その人が収まるべき関係性からはみ出していないかどうかが問われる。

このような発言は、世の中に溢れている。

もちろん、それが仕事だったり、お金をもらうことでなくても何か社会的な責任が発生することであるなら、このような「関係性で相手を捉える」やり方も仕方ないだろう。しかしそうではなく、個と個の関係に終始するはずの人間同士であっても、何故か「関係性の名前」の方が強くなってしまう。

こういうことが続けば、その関係性の中で「その人自身」として存在することはできなくなる。そして、「自分自身」として存在できなくなった側がギブアップを宣言して、関係性は終わってしまうのだろう。

僕は30代になるかならないかぐらいだろうか、ようやくこのようなことを自分なりにきちんと言語化して捉え、それからは、「名前のつかない関係」を目指してきた。僕自身の感触としては、それなりに上手くいっていると思っている。

そして、そんな風に振る舞ってみることで、余計に、「どうして世間の人は、名前のつく関係になりたがるのだろう」と疑問を抱くようになった。

いろいろあるとは思うが、結局のところ「正しいか正しくないかで判断できるから」ではないかと僕は感じる。つまり、「自分は悪くなく、相手が悪いと主張できるかどうか」ということに関係してくるのではないかと思う。

殺人などを除けば、人間の言動を「絶対評価で間違いだと指摘する」ことはなかなか難しい。どんな言動も、ある状況では正しい(間違っていない)し、ある状況では間違っている(正しくない)ということになる。

そして、人間の関係性というのは、その「善悪の基準」を定めるものだと思うのだ。誰かとセックスをする行為は、お互いに恋愛も結婚もしていなければ何も間違っていないが、どちらかが恋愛や結婚をしていると間違っていることになる。名前のつく関係性がなければ判断できない善悪が、関係性に名前がつくことで判断できるというわけだ。

そしてみんな、こういう安心感を得たいのだろう、と考えるようになった。自分は間違っていない、悪いことをしていないと信じることができ、何かあっても相手を責めることができる、という状況にいることを、みんな望んでいるんだろうなぁ。

そういう観点から考えた時、僕は、彼らの関係は「勇敢」に見える。関係性に名前がつかないからこそ、「正しい/間違っている」の基準は存在しない。未成年なので、彼らの外側を取り巻く社会の側には、彼らを糾弾する基準は存在することになるが、そんなことは彼らの日常にはほとんど影響しない。彼らは、彼らの間だけで完結しているし、その中で「ひたすらセックスをする」という行為の積み重ねることで、「お互いの言動が『間違っている』と指摘できる権利」みたいなものを手放していく。

それはとても勇敢な行為であるように、僕には感じられる。

彼らの関係は、なかなか複雑に進行していく。恐らく、お互いにとって「理想的」と言える状態は、ごく短い期間しか成立しなかったことだろう。

磯辺は元々、小梅のことが好きだ。1年の時に、小梅に告白している。そして2年のある日小梅から、「セックスをしよう」と言われる。ここで磯辺は、「小梅と恋愛関係になれる」と期待する。彼は最初の時点では、「恋愛」という名前を望んでいたのだ。

しかし小梅は「磯辺のことは好きじゃない」と、キスを拒む。そして、「磯辺のチンチンの方がごちゃごちゃ言わないから好き」と、ひたすらセックスだけの関係に突入していく。

この時点での小梅の気持ちは、僕にははっきりとは捉えきれない。小梅は、幼馴染から「面食い」と言われ、意中の先輩に告白しては玉砕している。つまり小梅も、「誰かと恋愛関係になりたい」という気持ちを持っていることになる。

しかしそれは、磯辺には向かなかった。それが、小梅の言葉通り「磯辺のことは好きじゃない」からなのか、あるいは、磯辺とは恋愛とは違った形の関係が良いと思ったのか、その辺りは分からない。

そして、好きとか嫌いとかを超越し(あるいは超越したように見せかけて)、ただひたすら行為としてのセックスをすることで、彼らは期せずして(あるいは狙って)「名前のつかない関係」にたどり着く。

映画では、内面描写はあまりなされず、観客が勝手に想像する他ないが、僕の印象では、セックスをしに磯辺の部屋にやってきて、テンションを伴わないダラっとした時間を過ごしている時の彼らは、凄く心地よかったのではないかと思う。「関係性の枠」に囚われない自由さみたいなものを2人とも感じていただろうし、それは「理想的」と言っていい関係だったと思う。

そしてこの「自由さ」が、2人をまったく違う方向へと進ませ、結果的に2人はすれ違っていくことになる。

小梅にとって磯辺と過ごす時間は、ある意味で「吊り橋効果の逆」だったと言っていいのではないかと思う。吊り橋効果というのは、吊り橋を歩いている時のドキドキした感情が、一緒にいる相手のことを好きだという感情と勘違いされることだが、小梅は磯辺に対して、「セックスしちゃってるのにこんなにフラットにいられる相手って凄い」みたいな感覚を抱いていくようになったんだと思う。

それはなんとなく、小梅の幼馴染である鹿島との関係からも感じる部分がある。鹿島は恐らく小梅のことが好きだが、時折鹿島が小梅に向ける「熱量の高い感じ」を嫌がる素振りを見せる。あるいは映画の最後、高校生になった小梅の振る舞いからも、そう感じる。

あるいは磯辺が小梅に、「なんで学校にいる時と雰囲気違うの?」みたいに言う場面もある。磯辺といる時の小梅は、テンションを抑えた、どちらかと言えばつまらなそうな雰囲気を出しているが、学校では、「それなりに私楽しいですー」という雰囲気を出している。親友の桂子とは気が合うのだろうし、桂子と2人の時はまた違った雰囲気だが、小梅はたぶん、学校にいる時の自分を「ちょっとテンションを上げる感じ」に偽っているんだと思う。

そして磯辺とは、そんな風にしなくても楽にいられる。「セックスしてもしてもし足りないのは何でだと思う?」と磯辺に問いかける場面もあるが、裏を返せば、セックスをしているのにテンションを上げなくていい自分を素直に出せているのだ、とも言える。

一方、磯辺はまたちょっと違う。磯辺には、東京からこの田舎町に引っ越してきた家庭的な事情があり、その背景ゆえに、「自分はセックスなんてしていい人間じゃないんだ」と小梅にぼそっと吐露する。小梅は磯辺の背景を知らないし、深く追及もしないが、なんとなくそこまで深刻なものだと思っていない雰囲気がある。

「セックスする度、もうセックスしないって神様に誓うんだけど」という彼の言葉は、彼の絶望の深さを間接的に感じさせるものだ。男子だから単純に性欲に負けてるって部分もあるだろうし、元々自分から告白するほど好きな相手とセックスができるという悦びもあっただろうし、その中で小梅との”穏やかな”関係性に心地よさも感じていたのだと思うが、同時に彼は、自分が背負っている(たぶん「背負うと決めた」が正解だと思うが)ものの大きさを実感させることになったのだと思う。

というのは、自分が今していることはすべて、自分が大切だと思う人が出来なかったことだからだ。「セックスをしないって神様に誓う」理由の幾らかは、この点にあると思う。兄が一生経験できないことを、自分は経験してしまっている。それでいいんだろうか、と。

小梅との関係が、真っ当に恋愛としてスタートしていれば、また違ったかもしれない。中学生の恋愛なら、「一緒に下校する」とか「どこかに遊びに行く」とかで終わって、セックスまでたどり着かない可能性はある。セックスまで行かなければ、「兄には出来なかった」みたいな罪悪感はそう強く生まれなかったかもしれない。

しかし小梅との関係は、セックスから始まってしまう。「セックスから始まる」というか「セックスで行き止まる」という感じではあるのだが、いずれにしても「行為としてセックスをしている」ことには変わりない。

その自由さが、結果的に磯辺を追い詰めることになってしまったのではないか、と思う。

磯辺の最後の登場シーン、あの場面で彼が泣いているのは印象的だった。「勉強頑張れよ」と明るく去っていった磯辺があの場面で泣いているということは、彼がその直前で語った理由すべてが嘘である可能性を示唆する。つまり、「嘘をついて、自分から小梅を遠ざけた」ということだ。

天井からのアングルで、2人が布団の上に寝転びながらお互いの話をしている場面がある。小梅にとってこのシーンがどんな意味を持っていたか分からないが、磯辺にとっては非常に大きな時間だったのではないかと思う。恐らく、この田舎町にやってきてから、磯辺が初めて自分の内面を包み隠さずに話した場面だと思うからだ。

そして同時に、だからこそ磯辺は怖さも感じたのではないかと思う。小梅との関係が「特別なもの」になってしまう、と。復讐を果たした彼は、「自分が大切だと感じる人」を自分から遠ざけなければならないと感じた。だからこそ「嘘をついた」。

「うみべの女の子」と会った場面も、もしかしたら嘘なのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
中学2年生の佐藤小梅は、1年の時に告白してきた磯辺恵介に「私とセックスしたい?」と持ちかける。小梅が三崎先輩に強制フェラさせられたのにフラれた話は周知のことだったから、磯辺はそれが関係して自分のところに来たのか、と思う。最初は、小梅が自分のことを好きになってくれないならセックスなんて、と思っていたが、それから考え直し、小梅の「くだらない遊び」に付き合ってあげることにした。
親不在の磯辺の家で、2人はセックスばかりしている。浜辺で「磯辺のことは好きじゃない」とキスを拒まれたこともあり、2人はセックスはしてもキスはしない。
セックスをし、その後ダラっとした時間を過ごす2人の関係は、恋愛でも友人でもないまま絶妙に収まった感じがするが、小梅の何気ない(と彼女は考えた)行動をきっかけに、物語は一気に変転する。

【俺は、自分の欲望のために他人の内面に土足で踏み込んでくるやつが嫌いなんだよ。生きてるだけで苦しいって人間の気持ちなんて、わかんねーだろ】

自分がどうなりたいのかよく分からない小梅と、成すべき行動を起こすタイミングを伺いながら生きている磯辺。何もない浜辺に囚われて動けないような2人の関係は、磯辺のある決意と共に大きく変わっていく……。

というような話です。

良い映画だった。

映画の冒頭からしばらくは、「ひたすらセックスをしている」感じだ。2人は、

【都合の良いおもちゃでもいいか】

【上半身はどうでもいいけど、磯辺の下半身がなくなっちゃうのは寂しい】

【佐藤は穴がついてればそれでいいから】

と、お互いのことをひたすら「セックスという行為のためだけの存在」として見ていることを伝え合う。そうすることで、何かの歯止めを掛けていたのかもしれない、と思いつつ、それはどうか分からない。

磯辺が急変したきっかけは、些細と言えば些細なことだ。しかし、磯辺の感覚も分からないではない。人それぞれ、何に琴線が触れるのか違うものだろうが、磯辺には磯辺なりの理屈がちゃんとある。

そして彼は、小梅のその行為を自発的には責め立てない。それは、彼らが「名前のつかない関係」の中にいるからだ。善悪の基準が定まる関係ではないからこそ、磯辺は「小梅と距離を取る」という形で解決しようとする。

しかしこの時点で項目は、「吊り橋効果の逆」によって磯辺に対する親愛を抱くようになっているからこそ、「名前がつかない関係」は名前がつかないままややこしくなっていく。

その絶妙なやり取りが素晴らしいと思う。

磯辺役の青木柚は、『サクリファイス』という映画にも出ていたが、共に「狂気を内包する役」で、その演技がとても上手いと思う。『うみべの女の子』でも、磯辺という人間がとても複雑なものを内側にかかえているからこそ物語が展開する場面が多々ある。そしてそれらの場面を、青木柚は正しく「狂気」を発することで成り立たせていく。

磯辺の言動は、何故そんなことをしたのかという理由が上手く捉えきれなくても、「磯辺ならやるだろう」「磯辺なら仕方ない」と思わせる何かがある。その何かを、青木柚という役者はとても上手く打ち出しているような感じがする。

あと、これは石川瑠華・青木柚の主演2人に共通することだが、共に「無理せず『イケてない感』が出ている」と感じた。それが、この映画を絶妙に成立させている要因でもあると思う。

マンガや小説が原作の場合特にだが、「原作のイケてない役を、美男美女が演じる」ことがある。メガネを掛けるとか髪をボサボサにするなどして「無理やりイケてない感」を出す感じになるが、それがあまり上手くいっておらず、「この雰囲気で『イケてない役』をやると、物語的にブレるような気がするなぁ」と感じることもある。「イケてない」からこそ動く物語が、美男美女が演じることで、「ちょっと違くないか?」という印象を与えることがあると思うという意味だ。

しかしこの映画では、それがない。

石川瑠華も青木柚も、美男美女の枠に入る人だと思うが、この映画ではどちらも「そこはかとないイケてなさ」が滲み出ていると思う。何をどうやっているのかよく分からないが、「学校内のヒエラルキーが高い人」という風に見えないのだ。

この物語は、小梅も磯辺も「イケてない側」だからこそ成り立つと僕は思っている。だから、「美男美女感」「ヒエラルキー高い感」が伝わると、それだけで作品が上手く動かなくなってしまう、と思う。それを、美男美女が演じながらクリアできているところが凄い、と思った。

まだ触れていない、印象的だと感じた場面に触れよう。

2人が寝転んで自分の内面を話している場面で、小梅が磯辺に「好きな人はいないの?」と聞く場面がある。

どの時点から、小梅が磯辺のことを好きになったのか分からないが(最初からなのかもしれないが、僕はそうじゃないと思う)、この場面の時点では既に小梅は磯辺のことが好きだと自覚しているはずだ。

そう考えた時、これは僕の勝手な予想だが、小梅は「自分のことを好きって言わせようとして『好きな人はいないの?』と聞いた」のではないかと思う。そう捉えるのが自然かな、と。

しかし一方で、磯辺側からすればちょっとこれは辛い言葉として受け取られたんじゃないか、と思う。普通に解釈すればこの言葉は、「私はあなたのことが好きじゃないけど、誰か好きな人はいないの?」としか聞こえないからだ。

特に小梅は、最初からずっと「磯辺のことは好きじゃない」とはっきり言葉にしていたし、その後磯辺に対して、好きだとはっきり伝わるような言葉を発しない。だから磯辺からすれば、この言葉は、「やっぱり私はあなたのことが好きじゃないよ」という意味として受け取られただろうなぁ、という気がする。

そして、これは曲解も曲解かもしれないが、そのことが磯辺を、「復讐という行動」に駆り立てる最後のスイッチになっていたりしないだろうか、と考えもした。まあ穿ち過ぎか。

あと、ラスト付近で小梅が言う、「怖いよ。変わりすぎだよ。そんな楽しそうな磯辺、見たくなかった」というセリフも印象的だ。

最近ちょっと、これに似たような経験をした。20代の頃に知り合って、ごくたまに連絡するぐらいで長く会っていない女性と、「昔と違って今は生きてるのが楽しい!」というやり取りをした。その助成は本当に生きづらそうだったから、その変化は喜ばしいことである一方で、僕の中には昔のままのイメージがあって、その雰囲気が結構好きだったりしたから、ちょっと複雑な気分もある。

そして、小梅がそんな風に言うことで、小梅の奥の奥の奥の方に巣食うものも見えてくる。

高校生になった小梅は、彼氏といてもあまり楽しそうではない。それはやはり、磯辺と違うからだろう。お互いが醜い部分で繋がったからこそ、小梅はその関係性にとても大きなものを感じることができた。一生これが続いてほしい、と願う強さを、磯辺との関係に見出すのだ。

そして、自分の醜さをさらけ出すことができた磯辺はもういない、という絶望を、あの瞬間に小梅は感じ取ったのだろう。その感覚は、分かるような気がする。

「じゃあキスしてもらってもいいですか? そしたら全部忘れるから」と泣きながら言う相手に、「ホントに?」と返す磯辺にも強烈なインパクトを感じた。しかしこれは、その後の涙のシーンと合わせると、磯辺にとっても苦渋の決断だったのだろう、と推定はできる。しかしそれにしても、「ホントに?」の衝撃はなかなかのものだった。

これだけ長々文章を書いているのに、鹿島とか桂子についてほぼ何も書いていないが、この2人も良い。特に桂子のキャラはなかなかおもしろくて好きだな。

最後に。ある場面で磯辺が言うセリフ。

【やりたきゃやれよ。それがお前らの理屈なら。俺は俺の理屈でお前らの内蔵を並べて死に様を晒してやる】

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