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【本】朝比奈あすか「自画像」感想・レビュー・解説

「美しさ」について考える時、桜庭一樹「少女と七人の可愛そうな大人」という小説を思い出す。以下は、その本を読んで書いた僕の感想の一部だ。

『異性からちやほやされたくもなければ、恋に興味もなく、男社会をうまく渡り歩きたくもなければ、他人から注目されたくもないのに、しかし美しいという場合、その美しさは余る。過剰にして余分であるだけの、ただの贅肉である。しかも、その悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。過剰に持つものの羨ましい悩みであるとしか捉えられず、かえって非難を浴びることであろう。本人としては、真面目に思っているのだ。美しさに寄り添った人生など不要だ、と。しかし、周囲はそれを理解しない。美しさに付随するありとあらゆるものを羨ましがり、それを活かそうともしない人間を軽蔑することであろう。』

美しい人を見る度に、このことを考えてしまう。

もちろん、美しい容姿を持っていることが、そうでない人に比べて多くの「何か」を勝ち得る、ということは間違いないと思う。しかし、その「何か」が、欲しているものかどうか、という視点で語られることは、あまりないように思う。

知り合いがこんなことを言っていた。家族で高級なレストランに食事に行く機会があるのだけど、高いものを美味しいと感じることがあまりない。だから私は、安っぽいものの方が満足できる、と。

こういうことは、どんな場面でもあり得る、と僕は思うのだ。しかし、こと美しさに関して言えば、その視点はあまり顧みられることがない。「美しさ」によって得られたものすべてが、その当人にとって「プラス」と評価されるものであり、だから「美しさ」を有していない人間は妬む権利があるのだ、と言わんばかりの態度に、僕には感じられる。僕自身は、本心かどうかはともかく(僕は本心だと思っているが)、「容姿を褒めてもらっても嬉しくない」と言う女性に何人も会ったことがある。もちろん彼女たちにしたところで、自分のまったく意識していないところで、容姿による恩恵を受けているだろう。だから、その事実に無自覚であるとしたら、妬まれてしまう感じも分からなくはないが、しかし、幸福や有利不利というのは、あくまでも主観的なものであるはずなので、「容姿が自分の人生にプラスに働いていない」という自覚を持つ人がいれば、それはある種不幸だと言えるだろうと思う。

とはいえ、当然ではあるが、「美しさ」というものが、特に女性の社会において重要な要素であることも、また理解しているつもりだ。例えば本書「自画像」の中には、こんな文章がある。


『「こども」としてひと括りにされる時間が唐突に終わり、ある日、私達は市場に並べられた。きれい、可愛い、持ち物のセンスがいい、優しい、お洒落、しとやか、活発、スタイルがいい、同性の上位グループにいる、発言力がある…。さまざまな要素が絡み合い、異性への訴求力に差が出てくる。差は可視化された。そのことによろこびを見いだせる子がいる一方で、戸惑う子、反感を持つ子、開き直る子もいる。気づかない子は、たぶんいない。
私が女だから感じるのかもしれないけど、思春期のあの一時期、男の子よりも女の子のほうが、自分がどう判断されるかということに緊張しながら生きなければならないのではないかと思う。
男の子は、たとえ恋愛市場で価値が低い存在であっても、ほかに得意なことや夢中になれることがあれば、自己完結して満足できているようだった。たとえそういったことがなくても、モテないことに頓着せずに、自由でいられるように見えた。女の子は、異性からの評価が低かったら、もう終わり。同性からも、同情と優越の目で見られてしまう。そのためか、自分の価値を棚に上げて、一方的に女の子のことをあれこれ品定めする発言をする男子が多かった。その声を、聞いていないふりをしながら、女の子たちは聞いていた。私たちは一緒に、彼らの視線に囚われていた。』


ここでは、男女の違いが描かれている。男である僕は、男側のことしか分からないが、確かにここで指摘されているような感じだったような気がする。男の場合は、恋愛市場、異性からの評価、と言ったものとはまた違った評価軸があり得て、その方向で生き延びることが出来る。

しかし、この物語の登場人物の自覚によれば、女子というのは異性からの評価が低かったら終わりだそうだ。つまり、僕は先程、「美しさ」によって手に入る「何か」が、欲しているものであるかどうか分からない、ということを書いたが、しかし女性の認識からすれば、「美しさ」によって手に入る何より一番のものは、女子の世界での安定や優越だ、ということになるのだろう。であれば、当然それは無視出来るはずもない。恋愛がどうのこうのという以前に、異性からの評価が、同性のヒエラルキーを如実に決定する、ということであれば、やはり「美しさ」に優るものはない、と言うしかない。

『わたしは少し違うことを感じています。
ミスコンを批判する人は、人間をよく知っているのです。
彼らは、美貌こそがあまりにも容易に、そして絶対的な力で、わたしたちを平伏させるということを、知っています。
警鐘を、鳴らし続けなければなりません。努力して勝ち得たものや、心のきれいさのほうが、ずっと重要なのだという価値観を、必死で植えつけていかなければ。それほどに美貌が圧倒的な権利であることを、彼らは知っていて、恐れているのではないでしょうか。』

「美しさ」については、どんな立場の人間も公平に話題にするのは難しい。女性なら、美しい人が「美しさ」について語れば、「謙遜」や「傲慢」などという捉えられ方をする。美しくない人であれば、「卑屈」や「負け惜しみ」という感じだろうか。男の立場でいかに、「女性は容姿じゃない」と言ったところで、それを信じる女性はほぼ皆無だろうし、かと言って容姿ばかり褒め上げるような男は軽蔑の対象となる。正面切って取り上げても、誰も得しない。しかしそれでも、「美しさ」の話題はそこかしこで現れるし、興味が尽きることはない。


そういう意味で、本書が描き出す、女性にとっては当たり前の、男にとってはある意味では未知の“現実”は、どんな立場の人をも飲み込む力を持っているように感じる。女性であれば、誰もが避けようがなかった思春期特有のあの殺伐とした時代を思い返して苦しくなるかもしれないし、男であれば、呑気に「キレイ」「可愛い」とか言っているその裏側でどんな戦いが繰り広げられているのかを知らされて慄くだろう。

そういう、怖い小説である。

内容に入ろうと思います。
これから結婚しようとしている一組の男女がいる。男は、結婚前に大事な話がある、と女に言われたが、話はというと、女のこれまでの来歴だった。
わたし(田畠清子)は、面皰の目立つ女の子だった。そのことをわたしは恥じていたが、どうにもしようがない。同じ中学に入学することになった松崎琴美を入学式の際に見かけて声を掛けたが、彼女たちはどこかよそよそしかった。その理由を、わたしはよく理解していた。小学校の頃と、顔が変わっていたのだ。キレイになっていた。
クラスでの力関係が少しずつ決まり始めていた。わたしは、なんとか悪くない位置を確保しようと必死だった。そしてもう一つ必死だったことがある。わたしの真後ろに座っている蓼沼陽子と絶対に仲良くしてはいけない、ということだった。
何故なら彼女は、わたしいじょうに面皰の酷い女の子だったからだ。もし彼女と一緒くたにされてしまったら、わたしの中学生活は終わってしまう。
わたしの人生には様々なことがあった。仲の良い四人組が出来た。後から一人加わった。その子との関係で、わたしはひとりぼっちになってしまった。蓼沼さんとの関係。琴美の秘密を握っているという昏い感覚。そして、面皰が治らないまま大学生になり、わたしは壮絶な痛みを伴う面皰治療を始めることになる。
…というようなことを、女は男に滔々と語って聞かせる。聞かせる理由が女にはあるのだが、男には何故女がそんな話をしているのか理解できない。君が面皰で苦労したことはわかったけど、今じゃ全然気にならないじゃないか。そんな昔の話をして、どうするんだ?
男は結局、女の意図がまったく分からないままだった…。
というような話です。

なかなか衝撃的な作品でした。この衝撃には二種類あって、一つは本書のメインテーマそのものである、「美醜が人の人生をどう左右するか」という部分。そしてもう一つは、「何故女は男にそんな話をしているのか」に関わる部分。もちろん物語上、この両者は最後の方で融合されていくわけなのだけど、どう融合されるのかは読み始めの段階では分からない。凄い作品でした。

しかし同時に、非常に勧めにくい作品だとも感じました。それは、冒頭でもちらっと書きましたけど、「美しさ」というのはどんな立場の人間が取り上げても公平には受け取られないからです。それはつまり、誰が本書を勧めてもバイアスが掛かる、という意味でもあります。本書に関して言えば、「面白かった」と言う時、「どんな立場にいる誰がそう感じたのか」ということが非常に重要になってくる。誰が読むかによって面白さが変わってくる、というのはどんな物語でも同じなのだけど、問題は、本書の場合、「どんな読み方を選んだのか」ということが、「美しさ」というものに対する個人的な立場を表明する結果に繋がってしまいかねず、だからこそ勧めるのに躊躇してしまうな、という感覚が僕の中にあります。

しかし、あらゆる点で設定が秀逸だと感じます。例えばこの物語は、大人の世界ではうまく成立しないでしょう(物語の大半は、中学時代が舞台になっている)。大人であれば、心の内側でどう感じているかはともかく、「美醜によって何かを判断することをセーブする機構」みたいなものがある程度働くようになるものです。この物語は、中学生という、無邪気さと残酷さを矛盾なく同居させられる存在だからこそ成立するだろう、と思います。

また、面皰に悩む清子、整形した琴美、面皰が酷い陽子という三人をメインに据えながら、ある種逆説的に「美しさ」を描き出していくところも上手いと思いました。というのも、何を美しいと感じるかは人によって変わるものだし、また「美しさ」に直面した時何を思うかというのも様々でしょう。しかし、美しくないものに対しては、人は似たような判断基準を持つものだし、同じような受け取り方をするでしょう。少なくともそこに、「美しさ」に対する以上の個性が発揮されることはありません。そういう意味で、美しくないものを中心軸に据えることで、読者の感覚をきゅっと絞り込んで、それによって「美しさ」に対する感覚も同一化させよう、とする意図があるような気がしました。


本書には、ここまで敢えて一切触れていない要素もあって、そちらも相当にしんどいです。あまり触れない方がいいだろうと思って具体的には書きませんが、こういう現状を結果的に放置せざるを得ない状況(法律などが追いついていない現状)は、社会全体で何とかしなければならないだろう、と感じます。

色んな意味でざわざわとさせられる作品です。既に書いた通り、どんな立場にいる誰が読むかによって読み方が変わるだろうし、だからこそ非常に勧めにくい作品でもあります。僕は男なので、本書で描かれている話の大部分は外側から見ていられますが、女性が読めば自分の内側が抉られるように感じる人もいるかもしれません。


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