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【本】 額賀澪「君はレフティ」感想・レビュー・解説

僕は、人が死んで悲しいと思ったことが一度もない。
僕は、子どもを見て可愛いと思ったことが一度もない。
僕は、基本的に人間に対して興味を持つことが出来ない。
僕は、…。

そういう自分に気づく度、僕は人知れず動揺してきた。
一番怖い、と感じたのは、人が死んでも悲しいと思えない自分を発見した時だ。始めてそのことに気づいた時は、自分は頭がおかしいんじゃないか、と思った。人間として、大事な何かが欠けているんじゃないか、と思った。怖かった。
小説を読んでもドラマを見ても、知っている人間が死ねば、悲しいというのに近い何らかの感情が生まれるのだ、ということは知識として知っていた。身近な人間が死ぬまでは、きっと自分にもそういう感情がやってくるんだろう、と思っていた。いや、思っていた、なんていう能動的なものではない。「人が死んでも、自分には悲しいという感情が浮かんでこないかもしれない」なんて想像する余地もないほど、それは当たり前のことだと思っていた。

その後も、周りで人が死ぬ話をちらほら耳にする。日常的に会っていた人が死んだ、ということは今までないから、ただ距離感の問題である可能性もまだゼロではないだろうけど、僕は、人が死んでも悲しいと思えない自分を、少しずつ受け入れていった。

昔から僕は、周りの人間と感覚を合わせるのが難しかった。
周りにいる人が「面白い」と感じることを、どうも面白いと思えなかった。そして、僕が「面白い」と感じることを面白がる人は、周りにはいなかった。別に意識して周りから外れようとしていたわけではない。子どもの頃は今と違って、輪の中からはみ出すことを極端に恐れる人間だったので、出来れば周りの人と感覚が合えばいいのに、と思っていた。

自分の内側にあるものと、周囲の人の内側にあるだろうものの乖離は、時間とともにどんどん激しくなっていくような気がした。僕は少しずつ怖くなっていった。このまま、周りにいる人間と同じようなフリをして大人になっていったら、いずれ息苦しくて死んじゃうんじゃないか、と。周りにいる人が海を目指していて、僕も一緒になって海を目指しているとする。周りにいる人はウミガメだから、陸地も海も大丈夫。でも僕だけ実はリクガメで、そのことに気づいていないから、このままみんなと一緒に海に突っ込んだら、僕だけ溺れるんじゃないか…。

みたいなことを言葉で考えていたわけではないけど、感覚的にはそういうのに近いことを僕は思っていたのだと思う。だから、ウミガメの集団から脱落することにした。みんなが海を目指している中、海を目指さない生き方をすることに決めた。自分がリクガメなのか、ウミガメなのか、はっきりと分かっていない状態でその決断をするのは、ちょっとは怖かったと思う。でも、結果的には正解だったと、今の自分は思う。

そんな風にして僕は、「普通」から離脱した。
基本的に僕は「普通」という言葉は好きではない。ただ、「普通」という言葉でしかニュアンスの掬い取ることが出来ない感覚というのが僕の中であって、そういう時だけ意識して「普通」という言葉を使う。

「普通」の中にいる方が楽なこともある。「普通」というのは大抵、多数派だ。「普通」の価値観を持っていればいるほど、同じ価値観の人が多い。それは、希望するモノや環境が整いやすかったり、何かやる時の協力者が見つかりやすかったりと、生きていく上で都合がいい状況を得やすい、ということでもある。それは、生きていく上での負担を軽減させる。その一点のみにおいて、「普通」を羨ましく感じることはある。

ただ、「普通」であることの怖さというのを僕はよく感じる。「普通」であるということは、同じ価値観を持つ人間が多いが故に、自分がその価値観を何故持っているのか?という部分に思考が向かなくなる。みんながそうなんだから、それでいいじゃん、という感覚で自分の価値観を捉えてしまいがちになる。
思考を経ない価値観が、自分の人生のベースとなる、という状況が、僕には恐ろしい。

僕は、自分で考えて、自分なりにきちんと構築した価値観をベースにして、自分の人生を組み上げたい。自分で構築した価値観であれば、どこが脆弱で、どこが強固で、どういう場合にどういう修繕をすればいいのか理解しやすい。自分で設計した家なら修繕がしやすい、というようなことを同じイメージだ。

しかし、思考を経ない価値観をベースに自分の人生を組み上げてしまうと、何かあった時に脆い。自分の人生のベースとなる価値観の脆弱な部分も強固な部分も知らないまま、どこかに大穴が空いた時の修繕方法も知らないままで生きていく怖さを、僕は感じてしまう。

意識的にせよ無意識的にせよ、「普通」から外れた人間というのは、このベースとなる価値観の構造を把握している人が多い印象がある。だから個性が生まれるし、(僕から見て)人間的な魅力が生まれるのだと思う。そういう意味で僕は、「普通」から外れた人間が好きだ。価値観が合うかどうかは、問題ではない。価値観そのものは、合わなくてもいい。意識して自分の人生のベースとなる価値観を構築しているかどうか。それが、僕が人間を見る時の一つの指標となっている。

「普通」から外れた自分に気づく瞬間というのは恐ろしい。今となってはどうということはないが、以前はいちいち不安を感じていた。しかしそれは、自分を支える価値観の構造を把握する第一歩なのだ。「普通」に馴染めないでいる人には、そのことをチャンスだと捉える見方もあるのだと言いたい。

そういう意味で僕は、記憶をなくした人間とも、それなりに上手いことやっていけるんじゃないかと、本書を読みながら思っていた。

内容に入ろうと思います。
夏休み中の八月十一日。沖浦という大きな湖に掛かる橋を自転車で渡っている時、古谷野真樹は湖に転落した。その事故のせいで彼は、全生活史健忘という、経験は忘れているが知識は覚えているという記憶障害を負うことになった。
夏休み明け、クラスメイトのほとんどを記憶していない古谷野は、しかし、学校が始まる前に会った二人だけは認識できた。生駒桂佑と春日まどか。部員三人だけの写真部のメンバーであり、この三人は古谷野が記憶を失う以前、よく一緒にいたのだという。彼らとどんな関係だったのか、どんな会話を交わしたのかなど、とにかく何も覚えていない真樹だったが、記憶を失った古谷野に、恐らく記憶を失う前と変わらないような接し方をしてくれているだろう二人に支えられながら、二学期の高校生活をスタートさせることになった。
学校は、十月上旬に行われる雄翔祭という学園祭の準備に突入する頃だった。古谷野がいる二年五組は教室内で縁日を再現することになっていて、さらに写真部は写真部で展示の準備があり、皆大忙しだ。
そんな中、不可思議な事件が起こる。事件とも呼べないようなものだが、校内で「7.6」(あるいは「7・6」)という数字が頻繁に現れるようになったのだ。体育館の壁にチョークで書かれたものやクラスの黒板に書かれたものなど、様々な形で「7.6」は現れた。
誰が何の目的でやっていることなのかまるで分からなかったが、次第に古谷野はこの「7.6」を自分に向けられたメッセージなのではないか、と考えるようになっていく。
過去をまったく覚えていない古谷野は、様々な人間と関わる中で「忘れてしまったこと」を取り戻していく。そうした中で古谷野は、「記憶を失う以前の古谷野」に様々な形で出会い、そして今の自分と比較してしまう。自分は本当はどんな人間だったのだろうか?生駒も春日も、自分のことをどんな風に見ているのだろう?「7.6」の落書き事件を考える過程で、記憶を失った自分自身について思いを馳せる機会が多くなった古谷野は、やがて「7.6」の落書き事件の犯人を指摘するに至るが…。
というような話です。

非常によく出来た物語だな、と感じました。
全体の設定の話で言えば、主人公が記憶を失っているという点が、物語の中で非常に重要な要素として再度立ち現れる、という構成が非常に巧い。記憶を失った、という事実は、古谷野にとっては一つの「結果」でしかなかった。古谷野にとっての問題は、記憶を失ったという「結果」をどう受け入れていくか、ということであり、もちろんこれは作中で繰り返し問われることになる。

しかし、記憶を失ったという事実は、ただそれだけのものではない。それは、「きっかけ」でもあった。誰にとってのどんな「きっかけ」なのかは書かないが、古谷野が記憶を失った、という事実が、これほど波紋を広げることになるとは、古谷野は想像も出来なかっただろう。

ここで示唆しているのは、本書の最も核心的な部分なので、あまり多くを語ることが出来ない。しかし、古谷野が記憶を失ったという事実は、古谷野にとっては「結果」であり、誰かにとっては「きっかけ」であり、さらにその事実が、結果的に(という表現はおかしいが)この作品をミステリという枠組みに収まるような働きをしているという点が、僕は非常に面白いと思った。古谷野が記憶を失った、というのは、単なる設定ではない。本書の物語を支える屋台骨とも、物語を推し進める原動力とも密接に結びついた要素なのだ。それがこの物語を魅力的にしている。

この物語は最後、『でもこれは、俺の誇りなんだと思うことにする』というセリフに収束していく。これに連なる古谷野のセリフは、とても良い。絡まり合って解けないように見える混沌を脱することが出来るような希望が籠もったセリフで、物語の終盤をパッと明るくさせるような力を持っていると僕は感じた。

誰かが誰かを思う気持ちが様々なグラデーションを伴って重なり合い、絶妙なすれ違いを繰り返しながら元いた場所に戻っていく。足踏みと遠回りによって、失ったものもある。しかし同時に、得たものもある。全体としては、ほんの少し前進した、と言っていいかもしれない。

彼らは、どちらが良かったと感じているだろうか。古谷野が記憶を失う前と、記憶を失ってからあらゆる決着がついた後とでは。どちらにも苦しさがあり、温かさがある。個人的には、決着がついた後を好ましく感じていて欲しい。みんなで苦いものを飲み込んだからこそ生まれる関係性あるとすれば、それは、決着がついた後の方がより強固だろう。彼らなら、そこに希望を見出してくれるのではないか、と思う。

個人的な好みで不満を言うとすれば、物語の中にほとんど「悪意」がなかった、という点がある。「悪意」を必要とする物語ではないことは理解できる。しかし、個人的な趣味でいえば、「悪意」が少しでも発露されている物語が好きだし、記憶を失って復帰した同級生に対して何らかの悪意が発露される箇所がある方がよりリアルに感じられたかもしれない、とも思う。繰り返すが、もちろん、「悪意」を必要とする物語ではない、ということは理解している。

この文章を読んでも、どんな物語なのかうまく想像出来ないだろう。出来ないように書いているからいいのだが、本書の魅力もうまく伝わっていないとしたら残念だ。核心の部分に触れないとすればこういう書き方をするしかないのだが、書いていて自分でももどかしい。
自分の内側から溢れ出そうになっている気持ちを抑え込まなければならない。そういう経験を持っている人なら、この物語はきっと響くに違いない。


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