【本】ウンベルト・エーコ+ジャン=クロード・カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」感想・レビュー・解説
本書は、まったく別の分野で活躍しながら、共に書物愛好者でもある二人が、『世界規模で進められている文書のデジタル化と新しい読書ツールの導入という試練に直面している今』の世の中において、『書物がフィルタリングという災難にもめげず、結局は張られた網をすべてかいくぐり、幸運にも、また時には不運にも、生きのびてきた、その奮闘ぶりを愉しげに語ってい』る本です。電子化という、抗いきれない時代の流れの中にあって、「本が好き」「紙の本は素晴らしい」という単純な偏愛ではなく、長年、本を始め様々なメディアや文化や価値観と関わってきた二人が、それでも紙の本に一体何があるのかということを深く深く掘り下げていきます。
彼らは本当に様々な事柄について話していくのだけど、僕が本書で一番興味深かったことは「忘却」に関わる部分です。電子データは、「忘却しない」という点においてデメリットを有している―非常に大雑把に要約すればそういうことになるだろうと思います。
たとえば、ちょっと長いがこんな文章がある。
エーコ『カエサルの最後の妻カルプルニアのことは、カエサルが暗殺された三月十五日までは、何でもわかっています。三月十五日、カルプルニアは不吉な夢を見て、夫カエサルに元老院に行かないでくれと頼みました。
カエサルの死後のカルプルニアについては、いっさい情報がありません。彼女は我々の記憶から姿を消したのです。なぜでしょう。これはなにも、彼女が女性だったからというわけではありません。(中略)文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです。現代の文化は逆に、インターネット経由で、世界じゅうのあらゆるカルプルニアたちについて、毎日毎秒、詳細な情報をまき散らしているので、子供が学校の宿題で調べ物をしたら、カルプルニアのことを、カエサルと同じくらい重要な人物だと思うかもしれないほどです』
この記述は、非常に面白いと僕は感じました。
それがどんな記録媒体であれ、「記録する」ということには通常、何らかの選別が入るはずです。紙の本にする、というのは、ある意味でその最たるものかもしれません。この本の中に何を書いて何を書かないか、残すべきものは何で残す必要のないものは何か―紙の本に書くということは、そういう無限の選別の行為の果てにあるものです。
もちろんそれは、電子情報でも同じ部分はあります。自分が何らかの文字なり文章なりを書く、ということであれば、紙の本だろうとブログだろうとなんだろうと、そこに何らかの選別は入り込みます。
しかし、電子情報には、ひとりでに記録するという側面もあります。分かりやすいのは、ボイスレコーダーのようなものでしょうか。スイッチを入れておけば、マイクが拾える範囲の音声はすべて拾う、という行為には、選別の入る余地はありません。
同じように、GPSで移動経路を記録するとか、ネットショッピングの注文履歴を記録すると言ったようなものは、選別なしに何もかもを記録してしまうものです。そういうものにはやはり、選別という思考が入り込む余裕はありません。
そして先ほど引用した文章は、選別なきものは文化ではない、と主張しています。『文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです。』という一文は、そう言い換えることが出来るでしょう。となれば、ひとりでに記録される電子情報は、文化の基盤には成りえない、と言えると思います。
この視点は、僕の頭の中にはあまりなかったものなので、非常に新鮮でした。
同じようなことが、別の場面でこんな風に書かれています。こちらも長いですが引用してみます。
エーコ『諸文化は、保存すべきものと忘れるべきものを示すことで、フィルタリングを行います。その意味で、文化は我々に、暗黙裡の共通基盤を提供しています。間違いに関してもそうです。ガリレイが導いた革命を理解するには、どうしてもプトレマイオスの学説を出発点にしなければなりません。ガリレイの段階までたどり着くには、プトレマイオスの段階を共有しなければいけないし、プトレマイオスが間違っているということをわかっていなければいけない。何の議論をするにしても、共通の百科事典を基盤にしていなければいけません。ナポレオンなどという人物はじつは存在しなかった、ということを立証することだってできなくはない―でもそれは、我々が三人とも、ナポレオンという人物がいたということを知識として学んで知っているからです。対話の継続を保証するのはまさにそれなんです。こういった群居性によってこそ、対話や創造や自由が可能になってくるんです。
インターネットはすべてを与えてくれますが、それによって我々は、すでにご指摘なさったとおり、もはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされ、結果的にいまや、世の中に六〇億冊の百科事典があるのと同じようなことになりかねないのです。これはあらゆる相互理解の妨げになるでしょう』
こちらも、なるほど、と思いました。「文化」というのは要するに、ライブ会場の入場ゲートのようなものなのでしょう。会場に入っていい人とダメな人(チケットを持っているかどうか)を入場ゲートで選別する。そしてその入場ゲートを通り抜けることが出来た人が、ライブという共通の経験を得ることが出来るわけです。
「文化」についても同様で、文化というフィルタリング機能があるからこそ、僕らは、他者と何らかの議論や意見交換をするための共通基盤を得ることが出来る。そしてそのフィルタリング機能は、「保存すべきもの」と「忘れるべきもの」を示すことによって発揮されるのだし、つまりは「忘れられること」というのが絶対的に大事になってくる、というわけです。
しかしインターネットは忘れません。一度インターネット上に載ったものは、相当な苦労をしなければ完全に削除することは出来ないし、削除できない以上いずれ誰かが見つけるかもしれないし、つまり完全に忘却されることは出来ないということになります。
一方で本というのは、様々な形で忘却され得る。禁書にされたり、家事で燃えたり、あまり広く読まれることなく時間が経過してしまったりすることで、本の存在や本に書かれた内容はすぐに忘れられてしまう。
本書で指摘されているこんな事例もまた、本が忘却という機能を内包していることを示すかもしれない。
ジャン=フィリップ・ド・トナック『我々は今日なお、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスを読みますし、彼らをギリシャ三大悲劇詩人と見なしています。しかしアリストテレスは、悲劇について論じた「詩学」のなかで、当時の代表的な悲劇詩人たちの名前を列挙しながら、我らが三大悲劇詩人の誰についてもまったく触れていません。我々がうしなったものは、今日まで残ったものに比べて、より優れた、ギリシャ演劇を代表するものとしてよりふさわしいものだったのでしょうか。この先誰がこの疑念を晴らしてくれるのでしょう』
僕らは、残ったものからしか過去を判断できない。しかし、当然ながら、残ったものがすべてなわけではない。であればどうして、残ったものの中が最高のもの(あるいはその一つ)であると信じることが出来るのだろうか?
あるいはこんな話もある。
エーコ『ストア派の哲学というのは、我々がその重要性を十分評価しきれていない知的達成の一つと言えそうですが、そのストア派について我々が知っていることの大部分は、ストア派の思想に反駁したセクストゥス・エンピリクスの文章がなければ、知りえなかったことです』
この記述から分かることは、ストア派の人間がストア派について書いた本というのは、現代にほとんど残っていない、ということです。ある意味ではそれも、文化のフィルタリング機能によるものなのでしょう。しかし一方で、ストア派の思想に反対した人の文章は残っていて、それによってストア派の思想が現代でも知られている、というわけです。
これらの話から分かることは、必ずしも残ったものが素晴らしいとは言い切れない、ということです。本当であれば三大悲劇詩人よりも素晴らしい詩人はいたかもしれないけど残っていないし、本当であれば残っていてもおかしくはないストア派の人間がストア派について書いた本というのは失われてしまっているわけです。だから、「保存すべきもの」と「忘れるべきもの」という判断は決して、その中身に依るのではない、ということだ。
ならば、そんな程度の低いフィルタリングを要請する「文化」というものも大したものではないと言えるかもしれない。だからインターネットが、選別やフィルタリングが存在しない世界を作り出すことが、プラスに働く可能性もないではない。それは、もっと時代が経たなければ分からないことだろう。とはいえ、あくまでも僕の個人的な感覚で言えば、「文化」というフィルタリング機能があるというのは重要に思えるし、だからこそ、忘却という機能を有する本というメディアは存在価値があると感じられる。
中身に依るのではない、という話で言えば、こんな話も出てくる。
エーコ『「もしかしたら私の能力が少し足りないのかもしれないが、誰かが眠れなくて輾転反側する様子を語るのに、どうして三〇ページも費やす必要があるのか私には理解できない」。これはプルーストの「失われた時を求めて」について最初に書かれた書評です』
このあと、「白鯨」「ボヴァリー夫人」「動物農場」「アンネの日記」など、世界的名作と呼ばれている作品が、出版された当初いかに評価されていなかったか、ということが書かれています。
こんな風にも書かれている。
エーコ『傑作が傑作であるためには、知られるということが大事です。つまり、作品がみずから喚起した解釈を吸収することで、その個性をより強く発揮していれば、傑作は傑作として認知されます。知られざる傑作には読者が足りなかったんです。充分に読まれなかったし、充分に解釈されなかった。』
「解釈を吸収する」という話では、シェイクスピアのこんな捉え方も面白い。
カリエール『おっしゃいましたね、今日我々が読んでいるシェイクスピアの戯曲は、書かれた当初よりきっと豊かになっている、なぜなら、それらの戯曲は、シェイクスピアが紙にペンを走らせて以来、積み重ねられた偉大な読みと解釈をすべて吸収してきたからだ、と。私もそう思います。シェイクスピアはたえず豊かになり、丈夫になりつづけているんです』
このように、「保存すべきもの」「忘れられるべきもの」という観点から、電子化と紙の本を捉えるという視点が、本書を読んで僕が一番面白いと感じた点です。
また、本とは関係ないですが、「忘却」という点で一つ、非常に興味深い話があったので引用してみます。
エーコ『二十年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合いました。核廃棄物の放射能は一万年―とにかく天文学的な数字です―持続することが知られています。問題になったのは、土地がどこに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばいいのか、わからないということでした。
二、三千年たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるのではないでしょうか。五千年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればよいでしょう』
これも、今まで考えたことのない問いだったので、なるほどなぁ、と感心してしまいました。確かに、半減期が異様に長い核廃棄物を埋めたとして、現在我々が使っている言語が滅びる、あるいは解読出来ないような状況になってしまう可能性については考えておかなければなりませんね。そういう観点からも、核廃棄物という存在に否を突きつけることが出来るかもしれません。
本書は対談であり、共に書物愛好者の二人なわけですが、とはいえ、紙の本を絶対的に信奉しているわけでもないし、本を読むという行為にもかなり柔軟な捉え方をしています。
いくつか抜き出してみます。
カリエール『我々は、書物というものを非常に高く評価しており、えてして神聖視しがちです。しかしよく見れば、我々の蔵書の圧倒的多数が、無能ないしは間抜けな人間、あるいは偏執狂によって書かれた本なんです』
エーコ『世界には書物があふれていて、我々にはその一冊一冊を知悉する時間がありません。出版されたすべての書物を読むことはおろか、ある特定の文化を代表するような最重要書だけでも、全部読むことは不可能です。ですから我々は、読んでいない書物、時間がなくて読めなかった書物から、深い影響を受けています』
エーコ『くどいようですが、べつに本を買わなくたっていいし、読まなくたっていいんですよ。ただぱらぱらめくってみて、背表紙に何が書いてあるか見てみるだけでいいんです』
エーコ『ところで、楽観的になれる理由の一つは、最近は、大量の本を目にすることのできるチャンスが増えてきているからです。私がまだ子供だったころ、書店というのはひどく暗い所で、敷居が高かったんです。中に入ると、黒っぽい服を着た店員が、何かお探しですかと訊いてきます。それがあんまり恐ろしいので、長居しようという気にはとてもなれませんでした。時に、文明の歴史のなかで、今日ほど書店がたくさんあって、綺麗で、明るかったことはありません』
ある意味では、無類の本好きとは思えないような発言もあるでしょう。本との接し方に肩の力を抜いてもいいと思えるような捉え方ではないかと思います。
ここでは書ききれないほど、様々な方向に話の矛先を伸ばしていきながら、博覧強記の知識で縦横無尽に対談を続ける二人の知の巨人のやり取りは、本の電子化、などといった矮小的な問題に囚われない、非常に自由で奥行きのある内容になっています。色んな形で知的好奇心を刺激される一冊です