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【本】松居大悟「またね家族」感想・レビュー・解説

「家族だから」とか「家族なのに」とか言う時の「だから/なのに」が、僕は嫌いだ。

嫌い、というか、何を言っているのかよく分からない。

例えば、僕は、親に感謝しているかと聞かれれば、まあしてるっちゃあしてる。色んな気持ちはあるけど、ただ、「自分を育ててくれた」という行為に対しては、やはり感謝の気持ちを持っている。

でもこれは、「家族だから感謝している」のではない。「自分を育ててくれたから感謝している」のだ。たまたま、「自分を育ててくれた人」が「家族」と呼ばれる人だった、というだけだ。「オオカミに育てられた少女」という、ホントか嘘か分からないエピソードを読んだことがあるが、もし自分がそういう立場なら、血の繋がった家族ではなく、オオカミに感謝するだろう。

関係性ではなく、僕は、行為を見ている。そして、その行為に対して、何らかの感情は働く。だから、「家族」という関係性に、「だから/なのに」とかつけられても、よく分からない。

そもそも、「家族」ってなんだよ、って話もある。血の繋がりなのか、そうじゃなくても家族と呼べるのか。前者は完全に、法律の世界だ。ある意味で、殺伐としている。じゃあ後者の方がいいかというと、血が繋がってなくても家族と呼べるなら、「家族であることの要件」ってじゃあなんだよ、とも思う。そうなってくるともはや、「友達」という関係性に近いというか、「お互いそう思ってたら友達な」みたいな感覚にどんどん近づいていくことになるだろう。

そもそも明確に定義されていない「家族」という言葉があり、それが行為者ではなく関係性を示す単語である時点で、僕にはほぼ意味を持たない。定義がはっきりしない言葉は嫌いだし、先輩後輩など「家族」ではない形の関係性も嫌いだからだ。

だから、これぐらいでいい。

これぐらいの「これ」は、本書を指している。本書ぐらいの感じでいい、「家族」の描写は。

僕は正直、本書を「家族小説」だと思って読まなかった。始めは、タイトルとか内容紹介から家族の物語なんだろうと思ったけど、僕にとってはそうではなかった。この物語において、「家族」というのは、完全に背景だった。

で、そんなもんだろうよ、と僕は思ってしまうのだ。

僕は、一年間で血の繋がった家族について考える時間は、かき集めても3分ぐらいしかないと思う。それはまあ極端な例だとしても、子供の頃ならともかく、大人になってしまえば、生活や人生に「家族」というものが深く関わってくることはあんまりないんじゃないかと思う。自分が結婚して新しく家族を作ればまた別だが、親や祖父母人生において、どんどんと背景化していくものじゃないかと思う。僕がそう思っているだけかもしれないが。

主人公の父が、肺がんで、もって半年、と言われるところから物語は始まる。だから、主人公の人生にも僅かながら「家族」が関わってくる。しかし、もしもだ、もしもこの主人公の父が「もって半年」と宣告されなかったら、この主人公が「家族」のことを考えるのは、多くても24時間ぐらいじゃないかと思う。だから、家族なんて、背景でしかない。

で、だからいいんだと、僕は思う。

内容に入ろうと思います。
マチノヒという名の小劇団を、大学時代の友人と立ち上げ、5年続けているタケシ(竹田武志)は、ある日父から、余命3ヶ月、もって半年と聞かされる。両親は離婚しており、2歳上の兄とタケシは、母親と共に暮らしてきた。得体の知れない存在だった父のことは、理解したいとも思えないような存在だった。
しかし、その告白を機に、兄は仕事を辞めて福岡に戻った。子どもの頃、自分をいじめ倒していた兄が。タケシは、演劇を続ける。震災の時、演劇なんかやってる場合かよと仲間割れしそうになった時も、マチノヒにゲスト女優として度々出演してもらっていた緑が遠くに行ってしまいそうでも、ずっと演劇をやっていた。
時々、福岡に帰って、母親や、再婚した父親の家族と会った。父親は、半年を過ぎても、全然死なない。死にゃーしない。
というような話です。

先程も少し書いた通り、個人的には、この物語は「家族小説」ではないと思って読みました。家族が背景であること、主人公の演劇との関わり方がメインで描かれていることなど色々ありますが、一番は、演劇や緑との恋愛の描写の方にこそ、ビビッとくるものが多かった、ということがあります。

たとえば、西さん。西さんは役者で、タケシの脚本の演劇に出てもらった、むしろ父と年齢が近い人だ。西さんは、作中ほとんど出てこないのだけど、出てくる度にメチャクチャ良いことを言う。

【俺たち役者が、作品を信じなくてどうすんだよ!】

【でも、過去の作品は、後悔でも後輩でもない。先輩なんだ】

【戦う気がないなら、やるな】

こういうセリフも実に良かったのだけど、僕が一番好きなのがこのセリフだ。

【(芸術では世界なんて変えられない、でも人を変えられるのは芸術しかない、という話の後で)世の中を支える人と変えてくれる人がいる。僕たちは少なからず、変えるほうの入り口に立ってるんだよ。支える人がいるおかげでな。人間が人間らしく見える時って、エンターテインメントがそばにいないか?そう、僕は信じてるよ】

良いこと言うなぁ、西さん!この小説の中で、一番好きなキャラだなぁ。もちろん、ちょっとしか出てこなくて、ボロが出にくい良い立ち位置っていうだけの話で、西さんも、もっと出番が多いと、やっぱダメだ、って感じになっちゃうかもだけど。

主人公が、演劇と葛藤するところも良い。やりたいことがあるから劇団を作ったのに、その劇団を維持するのに汲々としてやりたいことが出来ない、という嘆き。あるいは、自分の想いさえかき消してしまえば、誰も不満を持っていないし、みんなハッピーだ、という状況にある時、自分には存在意義があるのだろうか、という葛藤。本書の著者は、実際に劇団の主宰者であり、映画監督でもある。ステレオタイプ的な描写と言えば言えるのだけど、しかしステレオタイプであるということは同時に、古今東西表現者と呼ばれる人たちが通ってきた普遍的な道でもあるということだ。その道を、過去に通ってきただろう、そして今も通っているかもしれない著者が描写するのは、やはりリアルを感じさせる。

そしてそういう悩みの果てに、爆発してしまう場面も凄く良い。

【自分の所でいくら戦っても、無視されたり馬鹿にされたりでさ、こうやって戦いもせずにうまく立ち回るとお金もらえるしみんなに感謝されるし。】

【実際さ、みんなの方が偉いとは思うけど自分が頑張ってることは否定できんやん。否定したくないやん。】

【もがいてももがいても結局声のデカいやつと言い方がうまい奴が得してさ、クソだろ、こんな世の中さ。】

これを聞いたとある人物の返答は、最高だ。

緑との関係性も、凄く魅力的だと思う。幸せ期の描写も上手いと感じたんだけど、壊れていく感じも上手いと思った。さらに、タケシに対して言った「◯◯乞食」という話。◯◯の部分は伏せるが、その時に「なるほど」と感じた。この物語はタケシ視点で描かれるから、読みながら、明確にその点を理解できていたわけではない。でも、その直前のあの描写と、この「◯◯乞食」の描写で、色んなことが繋がったような感じがした。

なんというのか、僕はこの物語は、「生きることが不器用」というのを描いているんだと思う。家族に限らず、仲間や恋愛相手とも器用にやっていけない。そしてタケシにとって、家族も仲間も恋愛も同列に不器用だからこそ、どれもちゃんとしたい、と思ってしまうのだろう。そう、本書を読み終えた人は分かると思うけど、この部分は、作中のある人物のセリフを受けて書いている。タケシは、全部上手くやろうとするからどれも上手くいかなくて、でもどれかに絞ることも出来ない、という男なのだ。

なんて不器用なのだろうか。

ただ、そんな不器用な男に、きっと誰もが、自分を見るのだと思う。全部そっくりなわけじゃない。でも、ここは似ちゃってるよなぁ、と感じる。だから、なんか気になってしまうのだ。

生きるのに向いていない男は、舞台上の演出は出来るが、現実の演出は不得意だ。現実の演出に四苦八苦する彼の姿は、全体としては凄くダサいが、一瞬一瞬は僕らそのものだ。

【人間なめんな】

僕も、そう言われてしまうかもしれない


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