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【本】阿部曉子「室町繚乱 義満と世阿弥と吉野の姫君」感想・レビュー・解説

正直驚いた。
超絶面白かった!!!


立場の違いをイメージすることは、とても難しい。人は、自分が生きてきた人生しか経験出来ない。もちろん、物語を通じて擬似的に体験することは出来るのだけど、少なくともまだ「実体験」と呼べるようなものは一つしかない(VRのような技術がさらに進歩すれば、複数の「実体験」を持てる時代が来るかもしれないが)。

自分が辿ってきた道沿いにあるもの、そこから見えるもの、そこで出会う人々――そういうものが、僕らの人生を形作っていくことになる。

どれだけ、人はみな違う、と思っている人であっても、相手の価値観や考えなどを、自分の経験と照らして判断しようとしてしまうところがある。相手は、その人なりの人生の中で獲得してきた様々なものがあり、それはこちらのものとは絶対に違うはずなのに、同じものさしで両者を比べようとしてしまう。

貧富の差はまだまだ大きいとはいえ、インターネットやスマートフォンの登場によって、情報格差や経験値に大きな差が開かなくなった現代でさえ、そういう状況はまだまだ充分に起こる。貧富どころか、身分の差が絶対的なルールとして横たわっていた時代であればなおさらだ。

『今まで、正しいのは自分たちであり、足利とそれに従う者たちこそが悪なのだと信じて疑わなかった。まわりにいた誰もがそう言っていたからだ。――けれど、本当にそうなのだろうか?
この世に苦しみ、泣いている人たちがいて、その原因の半分を自分たちが担っているとしたら、自分たちは一点の曇りもなく正しいと言えるのか』

まったく異なる価値観を持つ者同士が邂逅するケースは、現代でも多々ある。例えば、日本ではあまりイメージしにくいが、宗教の違いによって戦争が起こったことは歴史上何度もある。また、インターネットが登場したことで、価値観が細分化しても同志を見つけやすくなった。それ故、同じ価値観を持つ者同士による小さな集団がたくさん生まれる時代となったが、それ故に、ちょっとしたことで対立が起こることもしばしばだ。インターネット上では「炎上」と呼ばれ、僕はあまり詳しく知らないが、日々色んなところで「炎上」しているのだろうと思う。

自分が正しいと思い続けてきた価値観を手放さざるを得ない瞬間に出くわすことは、そうそうない。現代であれば、セクハラなどはその筆頭と言えるだろうか。特に年配者が持っている「これぐらいなら大丈夫」という感覚が、どんどんと時代にそぐわなくなっている。頑なに自分の考えを変えない人もいるだろうが、時代に合わせようと頑張っている人もいるだろう。

あるいは、少し前であれば、終身雇用は絶対と思っていた世代は、それが崩れた時、価値観の転換を余儀なくされたかもしれない。

生きていく上で何を大切にしていくのか、という根本的な部分で食い違うと、対立は容易には収まらない。本書にも、こんなことを言う人物が登場する。

『そなたは先ほど、分かち合うのだと言った。美しい、尊い言葉だ。誰もがそうできればよいと、私も思う。しかし、これだけは分かち合うことはできぬのだ。真珠を砕き、かけらを分け持つなどということはできぬのだ。砕いた瞬間にすべては失われる。だが足利が我らに求める和平とは、そうしたことなのだ』

どちらも、「正しさ」のために戦っている。一方は正当性を主張し、一方は現実解を主張する。どちらの主張も理解できるし、どちらの主張も正しいと思う。正しさでやり合っている以上、どちらかが滅ぼされるまで争いが終わることはない。

幼い少女は知った。「正しさ」だけでは戦えないのだ、と。いくら自分たちにとってそれが正しいことであっても、別の誰かにとっては正しくないのだ、ということを、少女は初めて知ったのだ。

『だから何度も目にしましたよ。戦のたびに踏み荒らされる田畑。焼かれる家。手籠めにされる女に売られる子供。残り少ない麦まで兵糧に奪われて飢え死ぬ人。あなたは知っているんですか?そういう人たちのことをわかっていて、それでもなお戦のほうが大事だと言うんですか?』

見えないものは存在しない。これは現代でも同じだ。情報がいくら増えても、いやだからこそ、目に入らない情報が格段に増えた。見ようとしなければ見えないものにこそ価値がある、と僕は感じる。

『知らぬものは知ればいい。恥ずべきことは知らぬことではなく、知ろうとせぬことだ』

知ろうとする意思は、こんな場面でもよく現れている。

『まぶたを閉じてしまいそうになり、けれど、それだけは唇を噛みしめて耐えた。これは目の前の者たちが好き勝手に争っているのではない。そうさせているのは自分であり、吉野の兄帝と廷臣たちであり、透子が愛した父の兄なる人なのだ』

この物語は、単純に小説として面白いのだけど、読むと、自分が知っている知識・経験だけで物事を判断する怖さを実感できる。自分が今知らない世界にこそ、今の自分を揺り動かす何かが潜んでいる――できるだけ僕は、普段からそう意識して、狭い世界に留まらないように努めている。

内容に入ろうと思います。
時は室町、南北朝の時代。北の京と南の吉野、両方に帝が存在していた時代だ。武士が力をつけ国を治めるようになった乱れた世を、後醍醐帝が建て直さんとし、鎌倉幕府を打倒した。その際、北条が支配する幕府から離反し後醍醐帝についたのが足利尊氏だった。しかし尊氏は後醍醐帝に反旗を翻して打倒し、京に新たな帝を擁立した。しかし、隙をついて三種の神器と共に京を脱出した後醍醐帝が、吉野で朝廷を開いたために、二つの帝が存在することになったのだ。
いま、京の町を歩く一人の少年と母親らしき人物がいる。少年と見えるのは実は少女であり、名を透子と呼ぶ。母親らしき人物は彼女の乳母であり、唐乃である。彼女たちは、色々あって吉野山の麓からほぼ歩いて京までやってきた。
ある人物を探すためである。
透子は、かつて南朝の心臓であり、現在は北朝についているその人物を、もう一度南朝に引き戻したいと考えている。しかし、楠木正儀というその人物の居所については知らないのだった。
京の町をうろうろしていると、彼女たちは案内を頼んだ者に囚われてしまう。どうやら人買いだったようだ。どうにも身動きが取れなかった二人だが、そこに新たに超絶美少女が囚われてやってきた。その美少女は、簡単に縄抜けをしてみせ、透子らを解放し、そして美少女の仲間と思しき者たちが一斉に人買いたちを捕えてしまったのだ。
美少女だと思っていたのは実は青年で、名を鬼夜叉と言う。透子たちは、楠木正儀を探し出すためにまず観阿弥を探していた。観阿弥が楠木正儀の居場所を知っているはずと考える理由があったのだ。それを鬼夜叉に伝えると、なんと鬼夜叉が、当代一と名高い猿楽の名手である観阿弥を連れてきた。
喜んだのもつかの間、思いもかけない出来事が起こり、透子は自らの身分を明かさざるを得なくなった。後醍醐帝の孫であり、亡き父院から内親王宣下を賜った、まさに南朝における正当な血統持ち主なのである。
後醍醐帝は死の間際、朝敵をことごとく滅ぼせ、と命じた。朝敵とは言うまでもなく、足利一族だ。そして、透子に名を名乗らせた青年こそ、透子を人買いから救い出してくれた男であり、なんと征夷大将軍である足利義満だった…。
というような話です。

いやー、ビックリしました。超面白かった!歴史が苦手で、歴史を題材にした小説もそんなに得意ではないんだけど、本書はまったくつっかかるようなこともなく、するすると読めてしまいました。

本書の登場人物の内、誰が実在の人物で、誰が物語上の人物なのか僕には分からないのだけど、主要登場人物の内僕が名前を知っていたのは観阿弥ぐらいです。もちろん、足利尊氏や後醍醐帝や楠木正成なんかは名前ぐらいは知ってるけど、昔そういう人がいたという形で名前が出てくるだけで、本書の登場人物として出てくるわけではないんです。本書に登場する、という意味では、観阿弥ぐらいしか聞いたことがなかったです。

歴史のことなんか全然知らないから、南北に二つの帝がいたこともちゃんとは知らなかったし、もちろんどういう経緯でそうなったのかも知りませんでした。どういう対立が起こっていて、誰がどんな動きをしていてみたいなことも当然知らなかったわけなんですけど、本書を読んだらスイスイ頭に入ってきました。教科書の該当箇所を30回ぐらい読んでもきっと何も覚えられなかったと思うんだけど、本書を一回読めば、南北朝の時代の基本的な背景と、その背景の元で誰がどんな思惑を持って動いていたのかが凄くよく理解できました。

とにかく驚いたのは、読みやすかったこと、そして面白かったこと。ただ歴史の知識がわかりやすく書かれている、みたいな本ではなくて、とにかく物語が面白い!本書で描かれていることがどこまで史実をベースにしているのか分からないけど、仮に本書で描かれていることが史実として存在していたとしても、足利側(為政者側)が記録として残したくない、と考えるような事柄だろう、と思うので、恐らく本書で描かれていること(透子が京にやってきて足利義満に捕まって云々みたいな物語)は、恐らく著者の創作なんだろうと思っています(もちろん、史実として残されている事柄については歪めるようなことはしていないだろうけど)。

冒頭からしばらくは、難しい話はあまり登場しない。僕のような歴史の知識が皆無の人間でも読めるように、まずは、歴史上の人物としての「透子」「義満」「観阿弥」ではなく、小説の登場人物としての彼らを存分に描き出していく。それぞれが非常に魅力的なキャラクターであり、さらにその合間合間にちゃんと、僕のような歴史がさっぱり分からない人間向けに、最低限の時代背景の知識を入れ込んでくれる。それらが「歴史的な事実」ではなく、「彼らの個人的な事情」として描かれていくので、それもあってさらに読みやすくなっていく。透子と義満の因縁、義満と鬼夜叉の関係、観阿弥と鬼夜叉の関係、唐乃の不安、細川頼之の立ち位置と幕府内の対立などなど、様々な事柄が、物語の流れを断ち切ることなく、個人的な話題として描かれ、読者の頭にもすんなりと入っていく。

そんな風にしてしばらくキャラクター小説として読ませた後で、徐々に物語は真剣味を増していくことになる。物語は透子を中心に描かれ、透子が何をおいてでも京へと飛び出してきたその最たる理由をなんとか実行に移すべく、無邪気さと聡明さを発揮しながら行動していくのだけど、描かれるのは透子の物語だけではない。足利義満、楠木正儀、鬼夜叉、観阿弥など、それぞれに皆物語を抱えていて、それらが同時並行的に描かれていく。

特に印象的だったのは足利義満だ。

彼は当時18歳であり、征夷大将軍ではあるが、管領という政務を実際に執り行う立場の細川頼之に頼り切りで、家臣たちからも青二才と見られていることを理解している。本人は本人で、女装させた鬼夜叉と一緒に町へと出ては、勝手に自警団のようなことをやっている。とても征夷大将軍の振る舞いとは思えない。透子の素性が分かった後も、真剣さがまるで見られないようなふざけた振る舞いばかりしている男で、当初の印象は、イイトコのぼんぼんが優雅に生活してるな、ぐらいのものだった。

しかしそんな彼の印象はどんどんと変わっていく。

『俺の責なのだ。将軍として奉られるということは、そういうことだ。この国に起こることのすべてに俺は責を持ち、一刻も早くよりよい道へと導かねばならない』

当時と現代では年齢によって求められていたことが違っていたとは言え(以前はもっと若い頃から大人扱いされていただろうと思う)、それにしても義満はまだ18歳だ。その年齢で既にこんな考えを持っている。

また義満は、あらゆる機会を見て、力づくで南朝との和平を合意に持ち込もうとする。それに反発する透子は、『力のないことが間違っているの?弱い者は刃向かわず、強い者にただ黙って従えと、そなたは言うの』と詰め寄る。その時の義満の返答が非常に印象的だった。

『力があることが正であり、力なきことが否である――そのようなことはない。力がすべてを決し、強者のいかなる横暴もまかりとおる世は、あってはならない。為政者とは、そのような世を招かぬためにいるはずだ』

初めこそ、力に任せて南朝を説き伏せようとしているだけの男としてしか見ていなかったが、そんな印象は最後にはまったくなくなってしまう。義満には義満なりの正義がある。それは、正当性を主張できるものではないかもしれない。現に義満は、南朝の側に理がある、と透子に対して発言している。しかしそれでも、彼の正義は、無理やりにでも南朝と和平交渉を結ぶことなのだ。義満は、こうも言っている。

『世俗を離れた清い場所で白い真珠を守るのがあなた方なら、世塵にまみれ、手を血に染めて国を守るのがこの私だ。』

義満の印象は良くなっていく一方である。

それは透子も同感であり、だからこそ彼女は悩む。ずっと敵だと思っていた相手と対峙し、敵だと思って接してきたのに、自分が信じてきた「正しさ」とはまた違った「正しさ」があることを透子は徐々に理解していくことになる。義満の主張が、理解できるようになっていってしまう。

そんな価値観が総入れ替えされるような衝撃を味わいながら、透子はやはり父院のことを思う。

『それならばせめて、父が守ろうとしたものを自分も守りたい』

そう強い意思を持って、透子は京へとやってきたのだ。しかし透子には分からないこともあった。

『わたしは周りにいた者たちから、北朝とは偽帝を戴く偽朝であり、朝廷を割った足利は滅ぼさねばならない仇敵だと聞いて育った。けれど、ずっとわからなかったの。足利が敵だというなら、なぜお父様はその敵と手を結ぼうとされていたのか』

幼い透子は、短い期間の間に理解する。守るべきものを守るための戦いが、多くの人を傷つけ、さらに守るべきものを遠ざけているのか、ということを。戦い方は一つではない。そう思えるようになった透子は、自分に何が出来るのか考えはじめるようになっていく。

『確かにきみは非力かもしれない、だけど無力じゃないよ。人は、何かを願って努力する限り、無力ではないんだ』

透子は、多くの人に支えられ、励まされながら、今まで信じてきたものとは違う「正しさ」を受け入れる勇気を持てるようになっていく。その成長著しい少女の姿が、やはり一番光り輝く作品だと言えるだろう。


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