【本】清水潔「殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」感想・レビュー・解説
何なんだこれは。
読みながら僕は、ずっとそう思っていた。
日本でこんなことが起こっていたのか。
信じられないような思いで、本書を読んだ。
事件そのものは、大分以前のものだ。しかし、著者が巻き起こした一連の騒動は、ここ10年の間に起こった出来事だ。
法治国家、近代国家である日本で、こんなことが起こっていたのか。
読みながら、ずっとずっと、そう思っていた。
なんなんだこれは。
読みながら、ずっとずっと、そう感じていた。
この本を読まずに人生を終えたのだとしたら、その人は人間として失格だろう。そう思えて仕方ない作品だった。
ページを捲る手が止まらない、という表現がある。あくまでもこれは、誇張だと思っていた。作品の面白さを誇張して伝えるための表現なのだ、と。僕は本書で、実際に、ページを捲る手が止まらない、という経験をした。本当にそんなことが起こりうるのだと、驚かされた。
『ここまで読めばおわかりいただけただろうか。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」が葬られたということを。
五人の少女が姿を消したというのに、この国の司法は無実の男性を十七年半も獄中に投じ、真犯人を野放しにしたのだ。報道で疑念を呈した。獄中に投じられた菅家さん自身が、被害者家族が、解決を訴えた。何人もの国会議員が問題を糺した。国家公安委員長が捜査すると言った。総理大臣が指示した。犯人のDNA型は何度でも鑑定すればよい。時効の壁など打ち破れる。そのことはすでに示した。にもかかわらず、事件は闇に消えようとしている』
この文章に、本書の結論が短くまとまっている。補足すれば、警察は、真犯人を知りながら(それを特定したのは、記者である本書の著者であるが)、その真犯人を逮捕しない、という判断をしているのだ。
何故か。
本書は、何故そんな状況に陥ってしまったのかを、著者の、地を這いずりまわるような取材の過程を余すところなく描き出すことで明らかにしていく作品である。
こんな無茶苦茶な話があるだろうか。無謀な(と後に判明することになる)捜査と鑑定によって、無実の人間を犯人と断定し人権を奪いながら、警察機構の保身のためだけに、真犯人を野放しにしている。
『あのとき(※「桶川事件」の取材のとき)私は、警察が自己防衛のためにどれほどの嘘をつくのかということを知った、警察から流れる危うげな情報にマスコミがいかに操作されるか、その現実を思い知った。そうやって司法とマスコミが作り上げた壁は、ものすごく厚く、堅い。一介の記者など本当に無力だ。その片鱗を伝えるためだけに、私はあの時、本を一冊書く羽目になったのだ』
著者は、後にストーカー規制法が制定される契機となった「桶川事件」の取材で、警察よりも早く犯人に行き着いた。しかしそこで、警察のなりふり構わない保身のためのウルトラCを見せつけられる。事件自体の構図を変えてまで、彼らは、自分たちのミスを隠蔽しようとしたのである。
そして、本書で著者が「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と名付けた事件(後に警察も、五つの事件の関連性を認める発言をしたが、五つの事件を同一犯の犯行であると断定した捜査は行われていない)においても、同様の保身のために真実が捻じ曲げられていく。
『恐ろしいことだと私は改めて思った。公権力と大きなメディアがくっつけば、こうも言いたい放題のことが世の中に蔓延していくのかと。』
本書は、刑事事件を追うノンフィクションであるが、その一方で、報道のあり方について報道の最前線に立つものから放たれる警告でもある。
『そもそも報道とは何のために存在するのか―。
この事件の取材にあたりながら、私はずっと自分に問うてきた。
職業記者にとって、取材し報じることは当然、仕事だ。ならば給料に見合ったことをやればよい、という考え方もあるだろう。だが、私の考えはちょっと違う。(中略)
権力や肩書き付きの怒声など、放っておいても響き渡る。だが、小さな声は違う。国家や世間へは届かない。その架け橋になることこそが報道の使命なのかもしれない、と。』
著者の取材の基本はこの、「小さな声」に耳を傾けることだ。
『そして何より、「一番小さな声を聞け」―。それは私の第一の取材ルールであり、言い方を換えれば「縛り」とすら言えるものだ。この事件ならそれは四歳で殺害された真実ちゃんの声であり、その代弁ができるのは親しかいない』
著者は、罵倒されることを承知で、被害者家族にアプローチする。今よりも遥かに、被害者に配慮のなされない取材合戦が繰り広げられていた時代のことだ。被害者家族が、マスコミに対する恐ろしいまでの不信感を抱いていることは想像に難くない。しかしそれでも著者は逃げない。「小さな声」に耳を傾けなければならないと考えている。
『人様に指摘されるまでもなく、被害者の家族は自分の犯したミスを悔み続けている。娘を、誰よりもかわいい娘を、パチンコ店に連れていってしまったことを悩み、涙を流し、生きてきた。日々の生活の中で”パチンコ“という言葉に触れるだけで、どれほど傷ついてきたことか。そんな人達をさらに追い込み、「私達とは関係ない」などと人々を安心させるために報道はあるのだろうか』
ワイドショーやニュースなどを見ていて、マスコミの取材の仕方に疑問を抱くことは結構ある。加害者側を責め立てるなら、まだ分かる(加害者側の責め方も、厳しすぎると感じることはあるが)。しかし、被害者側を丸裸にしていくだけの報道にどんな意味があるのか、見ていて理解できないと感じることは多い。被害者に関するその情報が、どうしてニュースで流されているのか分からない、と感じるようなものはある。
著者はそういう、被害者を一層傷つけるような報道など意味がないと語る。
『私は思う。
事件、事故報道の存在意義など一つしかない。
被害者を実名で取り上げ、遺族の悲しみを招いてまで報道を行う意義は、これぐらいしかないのではないか。
再発防止だ。
少女たちが消えるようなことが二度とあってはならない。
だからこそ真相を究明する必要があるのではないか。』
しかし、マスコミの多くは、真相の究明など目指さない。彼らにとっては、「お上」である警察からの発表を垂れ流すことが仕事なのだ。「お上」が担保した情報でなければ報じられない、という空気が、マスコミの世界を覆っている。
だから、「お上」を敵に回すような、「お上」が担保してくれない報道をするところは少ない。
『そもそも、刑事事件の冤罪の可能性を報じる記者や大手メディアは少ない。特に確定した判決に噛みつく記者となればなおのこと。「国」と真正面からぶつかる報道となるからだろう。容疑者を逮捕する警察。起訴する検察。判決が出ていれば裁判所。そのいずれかと、あるいはそのすべてと対峙することとなってしまう』
つまりそれは、「お上」が発しない、あるいは担保しない情報は、僕ら一般国民の目に触れる機会がないということである。
『本書が事件ノンフィクションでありながら、事件の「本記」に加えて、事件の「側面」や「その後」、「記者自身の行動」にもページを割いたのは、日々流れているニュースの裏側には、実は多くの情報が埋没していることを知ってもらいたかったからだった。』
本書で著者は、すべてを疑いながら取材を進めていく。
『どんな資料も鵜呑みにしない。警察や検察の調書や冒頭陳述は被告人を殺人犯として破綻がないように書かれている。報道は報道で、司法からの情報を元にしている。弁護人は弁護人で被告人を弁護するために資料を作成している。
私は記者だ。誰かの利害のために取材したり書いたりはしない。事実を基準にしなければならない。青臭い言い方をすれば、「真実」だけが私に必要なものだ。対立する見解があるときは双方の言い分を聞け、とはこれまたこの稼業を始めた時に叩き込まれた教えだ。』
可能な限り証言した本人を探し当てて話を聞く、証言そのものを実地で検分して矛盾を見つけ、DNA鑑定さえも自ら依頼する。
『菅家さんを“犯人”としたプロの「捜査」に疑問を呈するならば、彼らを上回る「取材」をしなければダメだ』
そうやって著者は、執念の取材により様々な事実を明らかにし、分かったことをテレビや雑誌などで報じることで新たな扉が開き、そんな風にして、不可能だと思われた「確定事件のDNA型再鑑定」や「最新前の釈放」など、前代未聞の展開を次々と引き寄せることになった。
著者の奮闘によって、通称「足利事件」と呼ばれている事件が冤罪であると証明され、犯人として逮捕され無期懲役が言い渡された菅家利和氏が釈放されることになった。実に十七年半も無実のまま刑務所に入れられていたのである。
しかしそれは、著者にとってはスタートラインでしかなかった。著者の目的は、菅家さんの冤罪を証明することではない。栃木県と群馬県の県境で起こった五つの事件が、同一犯による連続誘拐事件であることを示すことだったのだ。
そのためには、菅家さんが「足利事件」の犯人とされている状況は、非常に問題なのである。
『それでも私が本書で描こうとしたのは、冤罪が証明された「足利事件」は終着駅などではなく、本来はスタートラインだったということだ。司法が葬ろうとする「北関東連続幼女誘拐殺人事件」という知られざる事件と、その陰で封じ込められようとしている「真犯人」、そしてある「爆弾」について暴くことだ』
『しかし…だ。
私が立てた仮説は、実を言えば致命的な欠陥を抱えていた。
私は最初からそれに気がつきつつ、あえて無視を決め込んで調査を続けていたのだ。私のようなバッタ記者でも気づく五件もの連続重大事件を、警察や他のマスコミが知らぬはずもなかろうし、気づけば黙ってもいないだろう。なぜこれまで騒がれなかったのかといえば、そこには決定的な理由が存在していたからだ。
すなわち、事件のうち一件はすでに「犯人」が逮捕され、「解決済み」なのである。』
通称「足利事件」は、「自供」と「DNA型鑑定」が揃った、疑いの余地のない事件だった。著者も、自分の考えが妄想なのではないかと頭を過ぎることもある。
『仮にだ。あくまで仮にだが、万が一、いや100万が一でも、菅家さんが冤罪だったら…。
それが記者にとって危険な「妄想」であることは百も承知だった。私だってこの道は長い。冤罪など滅多やたらに無いことは知っている。刑事事件における日本の有罪率はなんと、九九・八パーセントである。しかも今回、証拠は「自供」と「DNA型鑑定」という豪華セットだ。まともな記者なら目も向けたくない大地雷原であろう。』
著者は、この最難関とも思える調査報道に身を投じてみることに決める。
『それには必要なことがある―菅家さんをこの事件からまず「排除」することだ。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」にとって獄中にいる菅家さんの存在は「邪魔」なのだ。事態がややこしくなるだけだ。彼が有罪になったばかりに、他の四件までもが放置される事態に立ち至った。彼の冤罪が証明されない限り、捜査機関は真犯人捜しに動かないだろう。
これを修正する方法は、菅家さんの冤罪を証明することしかない。あるいは、少女たちが夢で迫ったように、捜査機関を出し抜いて先に真犯人に辿り着くか。
まあいい。両方やればいい』
そうやってスタートした取材は、信じられない展開を見せる。読み進めながら、何度「嘘だろ…」と思ったことか。菅家さんが冤罪であることを示し、その後「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の解決のために取材を続けていた著者は、著者自身もそうと知らない内に、パンドラの箱に手を掛けていた。
それは、DNA型鑑定がもたらした「爆弾」だった。
実は菅家さんが逮捕された「足利事件」は、DNA型鑑定が重要な証拠として採用された最初の事件だった。そしてそのことが、著者も予想だにしなかった展開を巻き起こすことになる。
『警察も検察も、いったんは事件の連続性を認めながら、その後捜査を開始しもしなければ、あたかも事件そのものが存在しないかのように振る舞う理由―。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」はこのまま消え去る運命なのだろうか』
冤罪の証明から始まった取材が、どんな着地を見せるのか。その驚愕の展開は、是非本書を読んで体感して欲しい。
本書を読んで思い知らされることはとても多い。
まず、権力を信用してはならない、ということだ。権力に反発しろ、というのではない。ただ、権力というものはどうであれ、都合の悪いことを隠し、嘘をつき、保身に走る傾向があるのだ、ということを知っておくことはとても大事だ、ということなのだ。
本書で描かれていく、権力側にいる人間の言葉はあまりにも酷い。酷い発言は様々にあるが、最も何も言っていないという意味で一番酷いと感じたセリフが、裁判の中で、証人として出廷したとある検事が繰り返し言った「申したとおりです」というものだ。これは本当に酷い。
『本書は、様々な形で命に関わる人達に対し、そんな私の一方的な想いを記したものだ。批判や個人の責任追及が本書の目的などではないことは、ここできっぱりと断っておく。
人は誰でもミスをする。私だってもちろんすだ。誤りは正せばよい。原因を突き止め、再発を防止することに全力を尽くせばいい。だが、隠蔽しては是正できない。過ちが繰り返されるだけだ』
本書で描かれる、権力側の様々な反応に触れると、彼らが真剣に「再発防止」を考えているようには思えない。誤りを正し、原因を突き止めるつもりなど、さらさらないのではないかと思えてしまう。あらゆる都合の悪いことに対して、時には嘘をついてまで事実関係が明確にならないように様々な手を打つ。パンドラの箱を開けて膿を出し切るのではなく、パンドラの箱が開かないように必死になって押さえ込んでいる。その姿は、醜悪と言ってもいいほどだ。結局、警察組織の保身のため(というのが著者の推論である)、連続殺人犯を野放しにするという驚くべき決断をすることになる。
権力は、その気になれば何でも出来る。権力に歯止めを掛けるのは、僕たち一人一人であるべきだろう。一人で出来ることは多くはない。しかし、清水潔という記者が独力で大きな風穴を空けてくれた。僕らはその事実を知り、多くの人に広め、関心を持ち続けることで、権力に対する抑止力の一端に関われるのではないだろうか。
マスコミ、というものに対しても考えることは多い。
マスコミに対する不信感、みたいなものは、特にインターネットから情報を得ている世代には広く共有されているように感じる。しかし、マスコミという存在に対して不信感を抱いていても、マスコミが作り出す「空気」みたいなものに抗うことは難しい。そして、本書では、場合によっては、そのマスコミが作り出す「空気」を、権力が操っているのだ、という話になる。
これは、権力側が強権を発動して無理やり報道に介入する、というようなものではない。嘘ではない、紛れも無い事実を、どのように、どのタイミングで情報として流すかをコントロールすることで、権力側の望んだ通りの報道に誘導しているのだ。さらにそこに、これだけは譲れないというラインを守るための嘘も混ぜ込んでくる。僕らは、誰かが作り上げ、マスコミが拡散する「空気」に抗えないまま生きていくことになるのだ。
本書では、マスコミというものに対する不信感を、同じマスコミである著者自身が露わにしている。著者は、多くのマスコミが踏襲しているやり方に迎合せず、「何が真実であるのかを追究する」「一番小さな声を聞く」というスタンスで取材を続けていく。多くのマスコミがやっているやり方では、まずこの展開は起こせなかった。他のマスコミとは一線を画す、著者のマスコミ人としての矜持が、幾重にも折り重なった重い扉をこじ開けた。心を閉ざした被害者家族の心の扉も、法治国家の権力の上層とも言える司法の扉も。
取材の中で、弁護団にこんなことを言っていたマスコミがいたという。
『「なぜ日本テレビ(※これだけの取材を続けた著者が所属しているのが日本テレビだ)にだけ便宜を図るのか」などと真顔で弁護団に講義した民放記者もいたそうだ。』
恥ずかしくないのだろうか?著者が地を這い、泥水を啜るようにして続けた取材の最後の部分だけかっさらおうなんていう気持ちでいることに、マスコミ人として恥はないのだろうか?
著者は、「足利事件」を冤罪だと認めさせ、完全な解決こそなされていないが「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の存在と真犯人の存在を示唆した。それは確かに、著者の粘り強い取材のお陰ではあるが、粘り強い取材をすれば必ず辿りつけたかと言われると分からない。多分に運の要素もあっただろう。しかし、と僕は思う。もし著者が、結果的に「足利事件」の冤罪を認めさせることが出来ず、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の真犯人を指摘できなかったとしても、著者のその取材の姿勢は賞賛に値すると思う。仕事であるから成果は出さなければならないということは分かっているし、誰もが著者のような仕事が出来ない環境にいるということだって分かっているつもりだ。それでも、著者が自らの信念を持ってその取材スタイルを貫いていること、その事実は、多くの人に知られるべきだと思うし、賞賛されるべきだと思う。
また、本書からは、無関心の罪、みたいなものも感じる。これはもちろん、僕自身にも跳ね返ってくる。
無関心、とは少し違うが、非常に印象的な描写があったので引用する。
『八三年に免田さん(※死刑判決を受けながら、後に再審によって無罪が確定した、いわゆる「免田事件」で犯人として捕まった人)を取材した時のことが、忘れられない。
脳裏に、今も焼きついているその表情。
熊本市内で夕食を一緒に取り、帰路タクシーを拾った。後部座席で車窓に目をやっていた免田さんが、ふと思い出したように前方に顔を向けるとこう言った。
「あんた、免田って人、どう思うね?」
尋ねた相手は運転手だった。当時熊本で「免田事件」を知らない人はいない。免田さんは続けた。
「あの人は、本当は殺ってるかね、それとも無実かね?」
ハンドルを握る運転手は、暗い後部座席の顔が見えない。まさか本人が自分の車に載っているとは微塵も思わなかったのだろう。
「あぁ、免田さんね。あん人は、本当は犯人でしょう。なんもない人が、逮捕なんかされんとですよ。まさか、死刑判決なんか出んとでしょう。今回は一応、無罪になったけど…知り合いのお巡りさんも言ってたと」笑ってハンドルを廻した。
「そうね…」免田さんは、視線を膝に落とした。
人は、ここまで寂しい表情をするものなのか。』
著者は、マスコミとしての矜持も、取材能力も、圧倒的だ。だからこそ、「桶川事件」と「足利事件」と、二つの別々の事件で、世の中を大きく変えるような成果を上げた。しかし、いくら著者が有能だと言っても、最終的には、多くの国民が関心を持たなければ、事態は動かない。
関心を持つ、というのは、先ほどの運転手のような野次馬的な興味とは違う。主体的に情報を集め、主体的に関わり、主体的に声を上げることだ。
もちろん、世の中には様々な事件が存在するし、事件だけではなく様々な問題・課題が常に転がっている。そのすべてに主体的に関わるなど無理だ。それでも、何らかの形で、今よりもほんの僅か、ほんのちょっとの関心を皆が持ち合わせなければ、結局のところ何も変わらない。
真実とは、「そこにあるもの」ではない。動物園にいるゾウのように、そこに行けば誰でも見られるようになっているものではない。真実とは、「自ら見つけに行くもの」だ。ジャングルの中から野生のゾウを見つけ出すようなものだ。しかし、それは誰にでも出来ることではない。だから、ジャングルからゾウを見つけ出し、動物園のような場所に連れて来て誰もが見られるようにする。その役割を果たすのが、マスコミだ。
しかし結局、動物園にいるゾウは、野生のゾウとは違う。しかし僕らは、気軽には野生のゾウを見に行けないが故に、動物園のゾウを見て、これが本物だと思うしかない。多くの人は、動物園のゾウと野生のゾウの違いなど気にすることもなく、動物園のゾウの姿を受け入れていく。
物事に主体的に関わることはとても難しい。だからこそせめて、動物園にいるゾウは野生のゾウとは違う、ということぐらいは、日々意識しておきたいものだと思う。マスコミを経由した情報は、どれだけ真実らしくても、真実そのものではない。多くの人がそういう意識を持つようになれば、少しずつ変わっていくものもあるのではないかと思う。
『偉そうなことを言うつもりなど毛頭ない。山ほど失敗してきた私だ。ただ愚直にやるしか私には方法がないのだ。権力もない、金もない、ただマスコミの端っこに食らいついているだけのおっさんができることなど、そう多くはない』
日本テレビの社員だ、という見方をすると、この著者の言葉は自らを卑下しすぎているようにも思えるが、著者は元々週刊誌出身の記者だ。名を馳せた「桶川事件」の際も週刊誌の記者であり、記者クラブに入っていなかったために警察からの情報を入手出来ない、そんな立場だった。それでも著者は、社会をひっくり返す調査報道をやってのけた。日本テレビに移ってからも、週刊誌時代の意識は変わらない。足をすり減らし、何度も現場に足を運び、そうやって真実を探ってきた。
そんな著者の、打てる手を全て打ち尽くし、最後の最後、打てる手はもう本書の出版しかない、という覚悟が詰まった一冊だ。本書が単行本で発売されてからも、結局、この国の警察は動かなかった。国というのはここまで腐敗するものなのか。そんな諦めと怒りを抱かせる、全国民必読の一冊だ。
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