見出し画像

【本】藤吉雅春「福井モデル 未来は地方から始まる」感想・レビュー・解説

非常に面白い一冊だった。
これは、都会・地方を問わず、さらに行政に関わる者であるかどうかに関わらず、みんなが読んだ方がいい本だろう。
何故なら、本書を大雑把にまとめると、「改革をするためには、危機意識を共有しなければならない」となるからだ。
本書は、ある意味で「解法」が載っている本かもしれない。でも、地域ごとに問題や状況は異なるわけで、本書で描かれていることをそのままやろうとしても、やはりうまくはいかないだろうと思う。だから、「解法」を学ぼう、という意識だけで本書を読むのは良くないと思う。大事なことは、「今何が起こっているのか」そして「それが未来をどう変えるのか」をみんなが共有し、「ヤバイ」と思うことだ。
そのきっかけを作るものとして、本書は実に有用ではないかと思う。

日本は今、様々な問題を抱えている。超少子高齢化もそうだし、災害大国であることもそうだし、国の借金も膨大だ。しかし、色んな問題があるとはいえ、とりあえず「国から国民がいなくなってしまう」ということが、最も大きな問題だろう。それなりの数の国民が、それなりの安定性で暮らしているからこそ、色んな問題が起こるのだ。そもそも国民がいなくなれば、他の問題など起こりようはない。極論だが、間違ってはいないと思っている。

であるならば、どうやって国民を増やすか(あるいは減らさないか)が、とにかく最重要課題だ、というのは、誰だって分かるだろうと思う。しかし、日本という国はどうも、その課題に向き合おうとしていないように感じられる。育児休暇や保育園入園の問題など、制度的に女性が子どもを育てるのに満足行く環境にないのは明白だが、政治も企業もご近所レベルでも、なかなかその問題を共有出来ず、放置されているように思う。同級生で、結婚し子どもを産んだ女性から話を聞くことが時々あるが、やはり大変だそうだ。まあそうだろう。

本書の31Pに、2010年に国土交通省が作成した、未来の人口変動を予測したグラフが載っている。それによれば、2000年から2050年の50年間で、人口が3000万人も減る、と予測されている。また、2100年の最も悪い想定の人口は3770万人で、これは、明治維新の頃と同程度の人口である。

しかも、ただ人口が減るだけではない。年々、高齢化率は上昇するのだ。2050年の時点で高齢化率は約40%、これは国民の5人に2人は高齢者、ということになる。明治維新の頃と平均寿命が全然違うとはいえ、人口の数が同じでも、構成比はまったく違うと考えなければならないだろう。

都道府県幸福度ランキングでは、毎回北陸3県が上位に来る。福井はその3県の中でも、合計特殊出生率が高いという。共働きが当たり前で、かつ、子どもを産み育てやすい環境にある、という。福井県は、その他のデータでも抜きん出た数字を叩き出すのだが、子どもという観点だけで見ても、福井という土地の豊かさが伝わるだろう。

『危機に早く気づいた地域には、一歩先を進んだ社会のヒントがあるのではないか。つまり、地方は「先に終わった」のではなく、「先に始まった」のだ。地方にこそ2025年の未来を知る機会があふれている。東京よりも先にどん底を見た人たちは、どういう手段で今までとは異なる社会をつくろうとしているのだろうか』

著者は、そう冒頭で問いかける。その問いに答えるかのように、文科省のキャリア官僚はこう語る。

『日本がより良い未来をつくれるかどうかは、福井にかかっています』

一体、福井に何があるというのだろうか?本書では、それを明らかにしていく。

本書は、大まかに4つに分けて構成されている。「過去」「現在」「未来」「教育」である。

「過去」では、何故今、出生率が低下し、さらに地方が苦境にあえいでいるのか、その原因を、過去の政治状況などを掘り起こしながら描き出してく。政治の場で「出生」を扱うことの難しさや、地方が企業誘致によって活性化したかつての成功体験を追い求めようとする悪循環の存在など、現在の状況がどのような歴史的背景によって生み出されてきたのかを描き出します。

「現在」では、富山市の成功例が描かれます。僕は知りませんでしたが、富山市というのは、コンパクトシティの成功例として、世界的に注目されているんだそうです。コンパクトシティの先進都市として、メルボルン・バンクーバー・パリ・ポートランドと並んで富山市が選ばれたのだ。

本書では、そのコンパクトシティ化を推し進めた市長が、どんな発想でコンパクトシティにたどり着き、どういう手法でそれを成し遂げて行ったのか、ということが描かれます。

面白いと思ったのは、「お得感」を抱かせることで自然と人の行動を意識付けようとするやり方です。たとえば、市内にある市の施設(動物園など)は、祖父母が孫やひ孫と一緒に来れば入園料無料という一年限定のサービスだ。これを別の地域でやろうとしたところ、「孫がいない人には不公平だ」と反対にあい断念したらしいのだけど、富山市市長は「小さい子を連れてきて「孫だ」と言い張ればいいんだ」と堂々と主張します。この施策で大事なことは、「孫と一緒にくること」ではなく、「お年寄りを外出させること」なのだから、本当の孫であるかなどどうでもいい、というのです。

他にも、お得感を感じさせる手法をいくつも組み合わせ、また、データと論理を駆使して住民の支持を得ながら、あるまとまった地域に人を集約し、その地域ごとを公共の交通網で結ぶ、というコンパクトシティ化を成功に導いたのです。現在富山市市長は、世界中の講演に引っ張りだこなんだそうです。

また、富山県の成功例がもう一つ描かれます。港町である岩渕という地区の物語です。ここは、いっときは猫とロシア人しかいなかった、と言われたほど寂れた地域ですが、今では観光客がバンバンやってくる場所になりました。伝統的な竹細工が施された、古さを感じさせる建築物で埋め尽くされたような町は、時代劇に迷い込んだような世界だそう。そんな町を生み出したのは、地元の造り酒屋の店主だ。彼がこの地を、伝統的な建築に溢れる景観に仕立て上げる仕組みを作り上げ、多くの人が自然と協力する関係性が生み出された。

また、中小企業の技術力を、外務省が仲介することで海外へと広めていく、というプロジェクトを外務省が立ち上げ、その成功例として、富山県の精米会社とタンク製造会社の例が取り上げられている。どちらの会社も、法律という大きな壁にぶつかったことで方向転換を余儀なくされ、しかし結果的にそのことが長期的な反映をもたらすことになった、という実例だ。

そんな風に、富山県の事例を取り上げながら、積極的な手法で改革を成し遂げた者たちの物語を取り上げていく。

そして「未来」と「教育」が福井県の物語だ。

「未来」は、福井県の中でも、眼鏡のフレームの生産で有名な鯖江市が舞台だ。人口7万人のこの市は、一般的に「斜陽」と呼ばれている産業を多数抱えながらも、福井県で唯一、人口が増加し続けている土地でもある。クラスで「お父さんの職業は?」と聞くと、ほぼ全員が「社長」と答えるのも、鯖江あるあるらしい。

鯖江市は、「日本でもっとも早く中国にやられた町」でもあるという。眼鏡のフレームの生産で、安価な中国性に押されてしまったのだ。そんな苦境を経ながら、何故鯖江市は生き残り、他に類を見ない強みを維持しているのか。

その根本の仕組みを作り上げたのが、鯖江に眼鏡のフレームの産業を持ち込んだ増永五右衛門である。彼は、高度な技術を要するフレーム制作の技術者を囲い込むのではなく独立させ、グループ毎に競わせるという「帳場制」という仕組みを作り上げた。これによって品質が向上するし、また、新たな起業家を生み出す土壌も作り上げることになったのです。

本書では、結婚して鯖江に移り住んだある看護師の女性のエピソードが取り上げられている。一介の看護師でしかなかった彼女は、今では日本政府から注目され、外務省の管轄団体が彼女の成果を海外に紹介しているという。

彼女は看護師の仕事をする中で、些細ではあるが無視できない問題を発見し、それを解決しようとした。すると、彼女のアイデアを形にしようとする人間がどんどん現れたのだ。夫は彼女のアイデアを聞きすぐに設計を始める。職場の医師は資金がいるだろうと言って大金をポンと出す。地元の製造業の人たちも手伝ってくれる。そうして彼女は、起業の経験がなかったにも関わらず、周囲の協力の元に製品を完成させ、それがグッドデザイン賞を受賞するまでに至るのだ。

鯖江にはこういう「インキュベータ(孵化器)」としての地域性があり、それが起業家をたくさん生む土壌になっているのだという。鯖江に限らないが、福井には国内シェアや世界シェアで優位に立つ企業が多いという。著者は本書のまとめとして、

『では、「なぜ福井なのか」と問われれば、こう答えている。常に何かが欠けているからだ。欠けているから、自助努力をして必死に埋めようとしている』

と書いている。まさにそれが、「福井モデル」と呼ばれるような強さの根幹なのだと思う。

そしてその強さは、教育によって生み出されるのだ。本書の最終章は「教育」であり、福井で行われている教育改革が取り上げられている。前述の文科省のキャリア官僚は、

『日本の教育を変えることができるのは、福井大学の教職大学院しかありません』

と発言している。それほどまでに、福井の教育というのは注目されているようなのだ。

福井県は、小中学校の全国学力テストで十年連続全国トップクラスを維持しているが、学力テスト対策はしていないのだと言う。全国の教育関係者が、「福井の子どもは何故あんなに勉強が出来るのか」と不思議がるそうだが、本書の「教育」の章を読めば納得という感じがする。

『グループで討論して、その場で書いたものを記録として残す手法は、昔から福井では行われているという。「ポートフォリオ」と呼ばれていて、残すだけでは価値がなく、記録を見て必ず振り返ることが重要だ。
そして、何を学んだかを、自分たちでレポートにする。思考のプロセスを見ていると、当初の見立てと違い、自分の考えがどう変容したかがわかる。つまり、先生に教えられたから答えを導き出したのではなく、自分の考えがどう変わり、どんな結論になったかを自分の言葉で書く。これが「子どもが主体となった授業」である』

『何度も何度も思ったことを書く。書いて書いて書きまくる。そして思考を整理する。
自分で課題を見つけて、協働で解決していく。それにはコミュニケーションできる能力を高めていくことが必要になる。これがあらゆる授業の基本だ。
社会に出た時には、学校で習ったことはすでに古びてしまい、グローバル化と超高齢化によって社会の仕組み自体が変わっている。より良い結果を導き出すには、思考を整理できるこうした能力を養っておいた方がいいというわけだ』

『中学の「技術・家庭」という授業が、福井県と他県の違いを見る上でわかりやすいだろう。(中略)
福井県では、ここでも「思考」から取りかかる。
「学校に必要なものは何か、こんなものがあったら便利だなと思うものを探しなさい」』

こういった記述だけからでは、具体的にどんな授業をしているのか想像出来ない部分もあるだろうが、「先生の授業を聞いて、テストで確認する」というのとはまったく違う、ということは理解できるだろう。大人になってようやく僕も、「勉強」にとって不可欠なことが分かるようになってきた。それは「学んでいることそのものに関心を持つこと」であり、それが出来なければ、どれだけ時間を注ぎ込んでも、自分の身になる可能性は低い。福井県での教育は、まさに「どう関心を持たせるか」という観点から作り上げられているように感じられる。

また、先述した教職大学院では、教師を教育するという仕組みを作り出し、実践している。また、学校の校舎の建築に手を加えることで、自然とコミュニケーションや勉強への関心が芽生えるようにも工夫されている。テスト対策のためではなく、「大人になって社会に出た時に、どういう能力を持っているべきか」という観点から教育が行われているという点が非常に有意義だと感じられた。

鯖江市は人口7万人程度だし、福井県全体にしたところで、これという特別な何かを持っている県なわけではない。そんな市や県に出来ていることであれば、他の地域でも同じようなことは出来るのではないか。本書を読んで、そう感じる人が増えれば、変化のための一歩となりうるだろう。改革は常に難しいものだが、本書は、何か出来るかもしれない、という希望を与えてくれる一冊である。


サポートいただけると励みになります!