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【本】花田菜々子「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」感想・レビュー・解説

東京に、泊めてくれる女性がいる。

僕は今地方に住んでいるが、東京に行く機会がある時に、泊まっていいよ、と言ってくれる。まだ1度しか行ったことはないし、東京にいる間毎日泊まっているわけでもないのだけど、タイミングが合えば泊めてもらう。

その女性とは特に何もなく、ただ泊めてもらうだけだ。僕は元々神奈川に住んでいたが、その時から知り合いだったというわけでもなく、僕が地方に引っ越してから数回しか会ったことがない人なのだけど、何故か家に泊めてもらえるようになった。

というような話を男にすると、大体こんな反応が返ってくる。

「女性の部屋に泊まって何もないはずがない」
「意味が分からない」
「セックスしてあげないのは可哀想」

最後の反応など、僕からすれば意味不明な理屈なのだけど、とにかくそんな反応になることが多い。

著者も、出会い系サイトで知らない人と会っているという話を男性にすると、特に中年以上の男性から「危ないよ!」というような忠告をいただくのだという。

『まさかこちらが気分を害するとは思わず、何も考えずに、なんなら私が気づいていなかった危険点を教えてあげた、くらいの気持ちでいるのだろう。自分の方が世の中を知っていると思っているのだ』

僕は、こういう反応をする人は、自分で人間関係の可能性を狭めているよなぁ、といつも感じてしまう。

『出会いに慣れていないその人にとっては「まったく知らない女と会う」が「セックスできる可能性」に直結していて、それ以外の発想が持てないのだろう。Xで私が見てきた世界を見せてあげたい、と思う。知らない男女が1対1で出会っても、セックスのことじゃない普通の喜びがごろごろ転がっているし、人は人にやさしくできるんだよ。私はこの数ヶ月、自分の身をもって体験してきたのだ。いいことも悪いことも』

セックス、あるいはそこまでいかなくても性的な何かでしか異性と関われないというのは、それだけで莫大な可能性を捨てているのと同じだ、と思う。

例えば僕は、女子の集団の中に男は僕が一人だけ(これを僕は「女子会に呼ばれる」と表現している)という状況がよくあるし、そういう場で違和感なく話が出来る。そういうことを男性に言うと、

「女の話はオチがないからつまらない」
「女は話を終わらせないでどんどん脱線させる」
「よくそんな場にいられるね」

みたいな反応になることが多いのだけど、僕は女子会に混じるのが得意だし、そういう場で「自分が男扱いされない術」(と自分では思っているのだけど)を割と習得しているので、女子が一般的には男には見せないだろう部分を結構見ることが出来た(女子は男がいない場所で、表向き仲良さそうにしている男の悪口をバンバン言ってて、自分も気をつけようと思った)。セックスや性的な何かでしか異性と関わらない場合、こういう側面はまず見られない。僕は、そういうのを捨てた方が異性とは面白い関係を築けると思っているし、っていうか何で恋愛とかにしなきゃいけないのかよく分からない、という域に達しているので、女子の家に泊まったり、女子会に混じったりするのだけど、そういう関係性はどうも理解されないようだ。

先ほど「自分が男扱いされない術」と書いたけど、これは、話している異性により深く潜り込んでいくためには絶対的に必要な要素だと僕は思っている。

『限られた時間の中でどこまで深く潜れるかにチャレンジするのは楽しかった』

この感覚、分かるなぁ、と思う。

梅田望夫「羽生善治と現代」の中に、こんな文章がある。

『どうやら羽生は、一局の将棋の勝ち負けや、ある局面での真理とかそういう個別のことではなく、現代将棋の進化のプロセスをすべて正確に記録しないともったいない、それが「いちばんの問題」だ、と言っているのである。どうも彼は、一人だけ別のことを考えているようなのだ。』

『羽生は、きっと若き日に七冠を制覇する過程で、一人で勝ち続けるだけではその先にあるのは「砂漠の世界」に過ぎず、二人で作る芸術、二人で真理を追究する将棋において、「もっとすごいもの」は一人では絶対に作れないと悟ったのだ。そして「もっとすごいもの」を作るには、現代将棋を究める同志(むろんライバルでもある)が何よりも重要だと確信した。「周りに誰もいなければ(進むべき)方向性を定めるのがとても難し」いからである。そして、同志を増やすという目標を達成するための「知のオープン化」思想が、そのとき羽生の中で芽生えたのだと考えられる』

本書を読んで、この話のことを思い出した。羽生善治は、勝敗などというレベルで物事を見ているのではなくて、将棋というものを「二人で作る芸術」と捉えている。そして、自分だけがどうにかなればいいのではなく、相手との関わりの中で目の前の局面や、あるいは将棋界全体が進化・発展していくのだ、と考えている。

著者が「X」という出会い系サイトを通じてやっていたことも、まさにそれに近いものがある。著者は後々合コンに行くようになるが、こんな描写がある。

『正直「4対4で話すなんて、どんだけぬるいんだ」と思うくらい、人と会うことになったときの戦闘力が仕上がってしまっていた。「『学生時代の部活当てクイズ~』とかほんとどうでもいい!もっと斬り込みたい!」という気持ちでいっぱいになり、「これが1対1だったらこうやってこうやって斬り込めるのに…でも、この平和的空間を乱してはいけないんだろうな」と我慢し、ニコニコと話を聞いたり、ほどほどの平和なツッコミをして、合コンでの振る舞いを勉強して帰ることになった』

あぁ、分かるなぁ、と思う。僕は、声を掛けてもらえればどんな場にでも行くのだけど、(あまりないけど)自分が誰かを誘うような場合は、大体1対1になってしまう。著者と同じような感覚があるからだ。僕も、どうやって相手に斬り込んでいくのか、その真剣勝負を楽しんでいる。

「自分が男扱いされない術」とは違うが、印象深い経験を思い出す。ある作家さん一家(夫婦と子ども3人)と一緒に食事をする機会があった。僕はその子どもたちと絶対に話すぞ、と決意していたのだけど、その作家さんから、子どもたちはみんな人見知りだ、と聞いていた。だから、2時間の食事時間の内、最初の1時間は子どもたちには一切話しかけなかった。彼らの正面に座っていたにも関わらず、である。きっと、最初からべらべら話しかけるようなやつは信用されないだろう、と判断して、相手に斬り込んでいく戦略として、最初の1時間はじっと待った。結果、人見知りだという初対面の子どもたちと、数学や物理や法律の話なんかをして、非常に満足できる時間を過ごせた。

ただ、こんな風に相手に斬り込んでいく術を身につけると弊害もあって、それは著者も実感している。

『短い時間の中で、自分が聞きたい話が引き出せるように切り込むことがとにかく大事だった。ただ、これを身につけてしまうと、会話の刃が鋭くなりすぎて、今度は仕事などで会う人との他愛のない世間話がつまらなく感じてしまうことがデメリットでもあった』

わかるわー、という感じである。

『今の会社は変わった人たちばかりだから、その中では生き生きとすることができたけど、会社の外に出たら、いわゆる『普通』の人たちの間ではやっていけないんです。昔からずっとそうなんです。普通の人たちに合わせることが嫌なんじゃなくて、本当にできないんです』

僕も「普通」に合わせられないことはずっと昔から気づいていて、でもどうしたらいいか分からなかった。昔は、「普通」に合わせて、「普通」の中で生きていかなきゃいけないんだ、と思っていて苦しかった。僕にもきっかけがあって、そういう思い込みから抜け出すことが出来た。『そして前にいた場所のことは思い出せない』というのは本当にその通りで、僕はたぶん25歳ぐらいを境にして、昔の僕とは別人になったと思う。恐らく、著者もそうだろう。「X」で人と会いまくる前は、『なんて狭い人生だろう。自分には何もないんだ』というような毎日だった。著者は「X」を、『みんなが不安定さを礼儀正しく交換し、少しだけ無防備になって寄り添ってるみたいな集まりだった』と表現している。無防備になることは、良いことだ。結局のところ、鎧を取り外していくところからしか、何も始まっていかない。『だけどそういうリスクを負ったからこそ面白い体験が手に入ったのだ』という実感はまさに、無防備さがワクワクする何かと交換可能だという証だろう。『逃げ道がなかったらどうやって生きていけるというのだろう』と言うように、「X」は著者にとって「逃げ道」だった。でも時には、鎧も闘う意思も脱ぎ捨てて、敗走するのも手だ。『他人を自分の幸福の根拠にするのは間違っている。自分の幸福の根拠は自分にあるべきで、自立的なものでなくては』という思い込みは、出会い系サイトを通じて本をすすめまくる『無謀に未知に立ち向かっていく』ことを通して、『人の人生に一瞬でも関わって、その人の中に存在させてほしいとめちゃくちゃな強さで思うのかもしれない』という感覚に至るのだ。

『私が突き付けられているような気がしていた普遍的な議題―例えば「独身と結婚しているのとどちらがいいのか?」「仕事と過程のどちらを優先すべきか?」「子どもを持つべきか持たないべきか?」―そもそもの問いが私の人生の重要な議題とずれていたのだ。こんな問いに立ち向かわされているとき、いつも自分の輪郭は消えそうで、きちんと答えられなくて不甲斐ない気分になることは、自分がいけないのだと思っていた。でも今夜、この今、自分の輪郭は電気が流れそうなほどにくっきりとしてぴかぴかと発光していた』

他人事ではあるのだけど、他人事とは思えないようなインパクトで、こう思う。

あぁ、良かった、と。

内容に入ろうと思います。
花田菜々子は、深夜のファミレスにいた。ファミレスだけではない。簡易宿泊所やスーパー銭湯やカプセルホテルにもいた。住む家がなかったからだ。夫との生活に限界を感じて、家を飛び出してきた。当てがあったわけではない。小売店の店長をしていて休みは合わないし、趣味は読書か書店巡りぐらいしかなかったから、よく会う友達もいなかった。
その生活は決して長くは続かなかったが、彼女の中の何かを変えた。夫と話し合い、別々に住むことに決め、引っ越しをした直後、彼女は「X」という出会い系サイトの存在を知る。「知らない人と30分だけ会って、話してみる」というサービスのようで、なんとなく(と言いつつかなり悪戦苦闘しながら)登録を済ませた。
そこには、これまで知らなかった、想像もしていなかった世界が広がっていた。色んな人が、手軽に、後ろ暗いところなく、むしろファッショナブルな雰囲気さえ醸し出しながら、それまで知らなかったはずの人と華麗に出会いを重ねている様が見て取れた。
そこで花田菜々子は、ふとひらめく。そうか、この「X」を使って、アレをやってみるというのはどうだろうか―。
彼女は、プロフィール欄にこう書いた。

「変わった本屋の店長をしています。1万冊を超える膨大な記憶データの中から、今のあなたにぴったりな本を1冊選んでおすすめさせていただきます」

そうやって彼女は、見知らぬ人と会い、その人に合った本を進めるという謎の武者修行をすることになった…。
というような話です。

本書は「実録私小説」という謳い文句が打ち出されています。要するに、実際に起こったことを元にしているけど、会った人のエピソードには書けないこともあるだろうし、忘れてることだってあるだろうから、そういうのはホントの話じゃないことで埋めたよ、だから「小説」って言ってるけど、大体ホントのことだよ、というような意味だろうと僕は受け取った。

凄く面白かった。

読む前は正直、あまり期待はしていなかった。いや正確に言えば、期待しないようにしていた、という方が正しいかもしれない。タイトルやあらすじなんかからは、凄く面白そうな雰囲気が漂ってくるんだけど、メチャクチャ面白そうな予告編の映画の本編がそうでもなかったりすることというのはよくある。本書は、あまりにも外見からの面白さのし見出しぶりが堂に入っていたので、期待しすぎてがっかりしないように防御していたような気がする。

読んでみて、想像以上に面白くて驚いた。正直、まさにタイトル通りのこと、つまり「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」だけが書かれていたとしたら、たぶんそこまで面白くはなかっただろう。もちろん、「X」を通じて出会う人たちとの関わりや、そこで起こったエピソードなどはとても面白い。でもそれだけだったらきっと、面白い経験したんだねー、で終わってしまうだろうと思う。

本書は、「X」という出会い系サイトでの自身の経験を中核にしながら、「花田菜々子」という人間を徹底的に掘り下げていく、その過程こそが絶妙な面白さを放っていると感じた。

そもそも「X」をやり始めたのも、夫との別居がきっかけみたいなところがある。夫との話は度々短く挟み込まれるのだけど、そういう描写から、彼女がいかに「普通さ」に馴染めないかが少し浮き彫りになる。

さらに彼女は、職場であるヴィレッジヴァンガードのことを書く。親とも学校ともうまく折り合えなかった彼女は、少ない友達と、本とサブカルだけが心の拠り所だった。そんな時、下北沢のヴィレッジヴァンガードの存在を知り、入り浸るようになる。好きが高じて働くようになり、ヴィレッジヴァンガードが自分のアイデンティティの核であると感じるようにまでなる。

『人生のほとんどをヴィレッジヴァンガードに捧げていて、もはや引き返し方もわからなくなっていた』

ここまで書ける人というのは、(もしかしたらヴィレッジヴァンガードの中にはたくさんいるのかもしれないけど)、普通はそういないだろう。

こういう「花田菜々子」が、「X」と出会う前の彼女なのだ。

で、「X」でたくさんの人と会うようになって、彼女はどう変化していくのか。その過程が実に興味深い。

そもそもが、非常に客観的なのだ。本書がどうやって書かれたのか分からないが(元々日記などをつけていて、それを見ながら書いたのか。あるいは書く段になって思い出しながら書いたのか)、いずれにせよ、なかなか鋭い客観視が随所に光っていて、興味深い。「X」で出会った人に大してどう感じたのか、それによって自分にどんな変化があったのか、というようなことを、彼女は、細かく積み上げていく。もちろん本書は小説だから、事実ではないエピソードだって混じっているだろう。とはいえ、恐らくだけどそれらは、実際にあった出来事をより分かりやすく伝えるための改変なのではないか、と思う。何にしても、鋭い客観視が、変化の過程を際立たせている。

時にかわいらしい女子と話して癒やされたり、時に何故会おうとしたのか分からないほど会話に積極性のない人との苦行のような会話をしたり、時に趣味でコーチングをしているという女性と話していて涙を流したりと、それまでの日常にはなかったような異世界の体験を繰り返していくことで、彼女は、それまで自分がいた世界がいかに狭かったのか、そして自分の前にある世界がどれほど広かったのかを実感していく。

『だって無機質で居心地が悪いとしか思ってなかった街は、少し扉を開けたらこんなにも面白マッドシティだったのだ。なんて自由なんだろう。やりたいようにやればいいんだ。』

やりたいようにやればいいと達観した彼女は、どんどんとレベルアップし、そして本書の中で「ラスボス戦」と表現されている地平とへたどり着く。それは、少し前の自分だったらまず間違いなく出来なかったことであり、というかそんなこと想像すら出来なかったようなことであり、しかし彼女は、「X」でメキメキと力をつけたことで、その「ラスボス戦」を難なく越えてしまう。また、「X」で人と会いまくった経験が、なんと仕事にも繋がっていくことになる。

僕にも、たった一つのある出来事から、縮こまっていた手足を伸ばしていいんだ!と思え、やりたいようにやればいいんだと感じられた経験がある。それは本当に爽快な気分なのだ。彼女もきっとそうだろう。

「X」で彼女がどんな人と会い、どんな変化を遂げたのか。それは是非本書を読んで欲しい。どこまでが事実かなんてことに関係なしに、一人の女性の成長(という表現は陳腐で好きではないけど)の過程は、実に読み応えがある。さらに、それぞれの人に紹介していく本が実際に本書でも紹介されていて、それがまた見事だ。もちろん、人によってはもっと絶妙なセレクトが出来るのかもしれないけど、僕にはその人に合うオススメの本をスパッと脳内から取り出して見せることなんて絶対に出来ないから、さすがだなと感じた。

『ということは、いや、まさかだけど、もしかして。いつか私のこの本も誰かから誰かにおすすめされたりする日が来るのだろうか。それって、無限ループ…じゃないけど、なんかすごいじゃん、循環してるじゃん』

僕も読みながら、この本を薦めたい人のことが頭に浮かんだ。ちょっと今あまり良い状態ではない彼女に、この本は凄く合うような気がする。すぐに読んでもらうことが難しそうだけど、いずれ読んでもらおうと思う。

最後に。これは本当にどうでもいい話なんだけど、ちょっと気になったので書いておく。
本書の中で、著者ととても仲良くなる男性がいる。その男性とは、「X」関係なしによく会って話をする関係で、でも別に付き合っているとか体の関係があるとかそういう感じではない。

その男性が、こんなことを言う場面がある。

『なんていうかさ、目の前で飲んでる女が性欲ゼロっていう話がいちばんがっかりするんだよな!やれなくてもいいんだけど、男は「やれるかも」っていう希望だけで生きていけるんだよ~!』

『いやいや、だってさ、やらせてくれそうでやれない女っていうのがいちばんいいじゃん』

この発言に、著者は「よく分からん」という反応なのだけど、僕は凄く分かるなぁ、と思った。僕も同じで、やれなくていいし、っていうかむしろやれない方がいいんだけど、でも「やれる可能性」っていうのはあって欲しい。感じさせて欲しい。それがどんなに低い可能性でもいいから、仄かに感じさせてくれるだけでいいから、という気持ちは僕の中にもある。ホントに、「やらせてくれそうでやれない女っていうのがいちばんいいじゃん」ってのは、超共感できる!

という、クソほどにどうでもいい話で、感想を終わりにしようと思います。


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