見出し画像

【本】笹原留似子「おもかげ復元師」感想・レビュー・解説

世の中には、凄い人がいるもんだな。

僕には、人の「死」というのがよくわからない。
なんだか、どんな風に捉えたらいいのか、よくわからないままだ。


今まで、葬儀には二度出たことがある。
どちらも、まったく悲しくなかった。
死んでしまった人間に対して、何を思えばいいのか、よくわからない。
何を感じたらいいのか、よくわからない。


たぶん僕は、悲しくはなかった。その時は、自分はなんて非情な人間なんだろうと思ったのだけど、最近はあまりそういうことは考えない。
「死」というものに触れることが、凄く少なくなったように思う。


昔は、出産も今以上に危険なものだったし、生まれてきた子供も大人になる前に死んでしまうことも多かっただろうと思う。寿命も今よりは短かっただろうし、克服できない病気も多々あったはずだ。
今は、どうだろう。「死」は、あまり身近なものではないような気がする。
接する機会がなさすぎて、それがどんなものなのか、よくわからなくなっている。僕は、僕自身についてそう思う。


「死」というものが普遍的に持つ感情が、僕には届かないのかもしれない。
「人が死んだら悲しい」というのは、後天的かつ社会的な価値観だと思う。「死」と「悲しみ」が地続きではない社会というのは、きっとどこかにあるはずだと思う。


僕はその、後天的に獲得するはずの価値観を、獲得し損ねたのかもしれない。


だから僕には、「死」というものがよくわからない。
どう感じればいいのか、よくわからない。
だから正直に言えば、葬式などの儀式に意味を感じられないし、「遺体」そのものに対する思い入れというのも、全然ない。

世の中には、凄い人がいるものだなと思う。
本書の著者である笹原さんは、「おもかげ復元師」だ。様々な事情により生前の面影を喪ってしまった遺体の顔や体を修復することで、生前と同じような面影を取り戻すことが出来るようにする。そういう仕事をしている。

僕には、生前の面影を失った遺体を目の前のした時の自分というものが、あまり想像が出来ない。それが親しい人だとして、僕はどう感じるだろう?あまりにも違う見た目に、その死を受け入れることが出来ないだろうか?変わり果てた姿の先に生前の面影を幻視して、その死を受け入れることが出来るだろうか?


わからない。その時になってみないと、きっとわからない。

本書では、笹原さんがこれまで関わってきた人・状況の中から様々なエピソードを取り上げた作品だ。


世の中には、凄い人がいるものだなと思う。


「おもかげ復元師」というのは、当然のことながら、キレイな仕事ではない。笹原さんは、『ウジ虫がわいても復元するのは、日本でもわたしくらいかもしれません』と書いている。遺体によっては、相当な臭いがすることもある。とても普通の人間には耐えられないようなものだという。子供の遺体の修復が続くと、自身もシングルマザーで二人の子供を持つ親として、いたたまれない思いになる。あまりにも根を詰めて仕事をしすぎて、体が動かなくなってしまうこともあった。
それでも、笹原さんは復元を続ける。その凄さ。

道具や人体の様々な知識を駆使するその技術力の高さも凄い。どうしても復元してあげたいという想いの強さも凄い。自分の体が悲鳴を上げてもやり続ける執念も凄いし、会社の経営者として事業を回さなければならないのに、東日本大震災の被災地を回って復元ボランティアを続けるという決断も凄い。


でも、なんというか、それだけではないのだ。それだけが凄いのではない。
僕が一番凄いと感じるのは、惹きつけ惹きつけられる力の強さではないかと思う。本書ではそれを、『縁』と表現している。


笹原さんは、人との繋がりをとても大事にしている。土地柄もあるのかもしれない。でも、笹原さんの繋がりを尊重するあり方には、凄く打たれる。
その好例が、NHKのカメラマンとの話だろうか。


取材依頼が殺到した笹原さんだが、復元に専念したくほとんど断っていた。しかし、NHKのとあるドキュメンタリーに出たことがある。なぜか。
NHK大阪放送局のとあるカメラマンの熱意に打たれたからだ。


彼は、三週間にわたってカメラを置き、笹原さんの復元の手伝いをした。撮影できるかどうかわからないのに、被災地に入ったカメラマンとして他に撮らなくてはならないものがあったかもしれないのに、である。笹原さんは、そうやって人を惹きつけ、さらにそうした縁が繋がって惹きつけられる。その繰り返しをとても大事にしている、という感じがした。そのかけがえのなさを強く強く理解しているからこそ、頑張れるのかもしれない。

本当に、様々なエピソードが描かれる。その中でもやはり、復元をしたことで現実に大きな影響を及ぼすことが出来た話に、強く惹かれる。


高齢の女性が亡くなられた現場。故人と息子夫婦が同居しており、そこに家を出ていた息子の妹が戻ってきていた。不穏な空気。


息子のお嫁さんが妹に、母親をぞんざいに扱ったのだろうと誤解されているとのこと。


笹原さんは復元を始めてすぐに、薄い笑いジワがあったことを見せて、これは最近大笑いしていた証拠なのだと告げます。


結果的にそれで、お嫁さんと妹の誤解が解けたのでした。


死んでしまえば、何も言えなくなってしまう。長年の経験から、些細なことからでも生前の面影を捉えることができる笹原さんの力が大きく役立った。


祖父を亡くして憔悴している4歳の男の子。家族もどう接していいか分からないので、今日は、あの世からじいちゃんの友達としてやってきた、ということにしてもらえないか、という珍しい要望もあった。祖父の遺体は、確かに生前の面影を失い、男の子もその死を受け入れることが出来ないのだろうと思えた。復元を施したとたん、男の子は祖父をきちんと認識し、感情を出すことが出来るようになりました。これも、復元師という存在がいなければ、恐らくモヤモヤしたまま終わらせるしかなかっただろうと想います。


生き残った人たちのために、具体的な『何か』を与えることが出来るのは、本当に凄いと思う。僕にとって葬式は、「一定の速度で流れる時間」という印象がある。手順があり、流れがあり、とりあえずみな「そうすることになっていること」をする場。そんな印象だ。しかし、笹原さんの「死者のおくり方」は、その人達に合ったものを提供しようとするものだ。普通納棺師は、遺体の全身を綺麗にする。しかしある時、遺体の爪の中の土は残しておくことに決まった。農作業をしていた面影を残したい、という要望だ。そういう、それぞれの形にあったおくり方を提案できる経験と技術と機転を兼ね備えているというのは、本当に凄いなと想います。

本書を読んで僕は、京極夏彦の「巷説百物語」シリーズを連想した。


「巷説百物語」シリーズは、江戸を舞台に、又市という無頼者が、普通ではちょっと対処しきれないような様々な難問を、奇策と仕掛けで解決するという物語だ。


又市らは、困り果てた状況を感知する。それらは、にっちもさっちもいかないような感じになっていて、正攻法で何か対処しようとしても絶対にどうにもならない案件ばかりだ。しかし又市らは、様々な嘘偽りで、対象の人物にだけ意味のある「事実」を様々に積み重ね、その積み重ねによって一つの「真実」を幻視させる、という構成になっている。


面影の復元というのも、近くはないだろうか?


面影を失ってしまった遺体は、普通であればそのまま火葬するしかない。生前の面影を取り戻せず、その死を意識出来ないうちに、別れを迎えなくてはならない。しかしそこに、様々ま技術によって生前の面影を取り戻す「魔法のような仕掛け」を持つ人間が現れ、家族のとっての「真実」を提供する。
「巷説百物語」を連想したからどうだ、という話は特にないんだけど、なんとなく連想。

東日本大震災の凄惨さは、恐らくどれだけ文字で読んでも、どれだけ映像で見ても、体験した人間以外には理解できないだろう。そこには多くの悲しみがあり、多くの絶望があり、多くのやりきれなさがある。そしてそれは、人の「死」を起点として、永遠に残り続けてしまう可能性がある。ああしておけばよかった。こうしなければよかった。あんなことになるならもっと…。
そうした悲しみや絶望ややりきれなさの連鎖を、笹原さんは断ち切ることが出来る。


忘れろ、ということではない。


亡くなった方のことを、忘れることはないと笹原さんはいう。笹原さんは、生きている者に何を残すか。それを真剣に考えている。あまり良いものが残らなければ、それは後悔に繋がってしまう。良いものを残すことが出来れば、その別れは前向きなものになる。


様々な思いが交錯する被災地にあって、笹原さんの活動は、人々に笑顔を、そして前を向いて歩こうと思える力を与えてくれるのかもしれません。

世の中には凄い人がいるものです。軽々しいことは何も言えないけど、自分の体が限界を迎えない程度に頑張って欲しい。そう願うほかありません。


サポートいただけると励みになります!