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【本】辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ」感想・レビュー・解説

中学二年生の小林アン。クラスの中心人物である芹香と同じグループで、倖と三人でいることが多い。一応クラスの中では中心的な存在だ。クラスの女子の人間関係を牛耳る芹香の機嫌次第で色々面倒なことになることも多いけど、どうにかなっている。


母親は美人で、お菓子づくりがうまい。赤毛のアンに憧れ、それに沿って生活を彩っているけど、アンとは決定的に価値観が合わない。それでも、自分の部屋に篭ればなんとでもなる。


どうにかやっていけている、はずだった。


アンは、周りの人間のセンスのなさにイライラしながら生きていた。学校では、誰もかれもが、誰が好きだの、誰が嫌いだの、そんなことばかりでしか会話をしない。母親の、フィクションの世界に憧れて、でも完璧さを追求することが出来ない中途半端さにもイライラしてしまう。


それでも、どうにかやっていけている、はずだった。


芹香の気まぐれで、アンが無視される空気になっている。その内終わることは分かっているけど、それでも、無視されている間の心の痛さが薄れるわけじゃない。


隣の席に座っているのは、アンが「昆虫系」と名付けた男子の一人、徳川勝利だ。何を考えているんだかわからない男子の一人。喋ったことなんて、ほとんどないし、昆虫系の男子と喋っているのを見られたらマイナスでしかないから喋るわけがない。


ある日。その徳川のふとした呟きに助けられて、アンは芹香からの無視状態を終わらせることが出来た。ホッとした。と同時に、徳川のことが気になりだしてもいた。


ある日徳川を見かけた時、徳川は何かを蹴っていた。徳川が去った後見てみると、それは、血に塗れたビニール袋だった。
徳川には分かってもらえるかもしれない。アンは、意を決して徳川に頼んだ。


「私を、殺してくれない?」

やっぱり、辻村深月は凄いですね。最新作である本書も、やっぱり凄い作品でした。


アンのイタさは、僕には懐かしいし、まばゆいし、なんだか嬉しくなってくる。


中二病という言葉を、普通に耳にするようになった。中学二年生が発想しそうなことを考えてしまう大人を揶揄するような場面で使われる言葉。まさに中学二年生であるアンは、まさに中二病と表現するのに相応しい思考・発想をしている。


だから、周りの人間と話が合わないし、言葉が通じることもない。


アンは、少年少女たちが起こした事件の記事をスクラップしている。そういう記事を眺めながら、彼ら彼女らを羨ましく想う。平凡に生きていくことよりも、たった一つしかない命を有効に使って注目されることに惹かれてしまうアン。その感覚は、やっぱりイタい。そして、自分の価値観を理解出来ない周囲の人間を「センスがない」と言い切ってしまう辺りも、実にイタい。
でも、そのアンの感覚が、凄くよく分かる。僕は中学生の頃、少年少女が起こした事件のスクラップなんかを作らなかったし、自分の命を有効に利用して、なんていう発想もしなかったと思うけど、でも、死に惹かれる感覚はあったし、周りの人間と話が通じないというモヤモヤした感覚もずっとあった。

そういう人間が、「普通の社会」の中で生きていくのは、なかなか大変だ。僕は、今でも多少そういう傾向はあるけど、学生時代なんかたぶんずっと、こんな風に思っていたはずだ。


「どうしてそんなことで笑えるんだろう?」
「どうしてそんなことで喜べるんだろう?」
「どうしてそんなことで泣けるんだろう?」


僕には本当に分からなかった。こういう書き方がイタいということが分かってて書くけど、「普通の人たち」の感覚がよく理解できなかった。みんなが面白がってやってることについていけなかったり、みんなが笑ってる場面のどこが笑えるポイントなのか分からなかったり。


本書に、こんな文章が出てくる。

『この教室の中で、無難な借り物ではない言葉を話せるのは、私の他には、多分あいつだけだ。』

これは多分、言葉の話だけじゃないと思う。感覚すべてに言えるんじゃないか。僕には周りの人が、無難な借り物でしかない感覚の中で生きてるんじゃないか、って思ってたようなところがあると思う。こんなことはあんまり書きたくないけど、自分は周りの人間とは違うって思ってた。でも、別に表向き違う部分なんて全然なくて、何か抜きん出ているようなものもあるわけじゃなくて、「普通の」社会の中で埋没するしかない。


そういう生き方は、なんだか凄く苦しくなるんだ。


先日とある件で、実際の中学二年生三人と会って話をする機会があった。その内の一人は、学校にも行っていないひきこもりだって自分で言ってたんだけど、その子の言葉には凄く頷いてしまった。

『みんなと同じことをしようとすると、息が苦しくなってくるんです』

僕には、実際に身体反応が出ることはなかったけど、感覚としては凄く理解できる。そう、みんなと同じ方向に泳いでくことが、はっきりと苦痛だった。嫌で嫌で仕方がなかった。自分の世界をがっちりと閉ざしてしまわないと、周りと同じ色になってしまいそうで怖かった。こういう感覚は、今の僕の人格形成に多大な影響を与えたことだろう。


アンの世界との向き合い方は、滑稽だ。彼女の内面を、「何アホなこと考えてるの?」って一笑に付す人間は世の中にはいるんだろうし、もしかしたらそういう人間の方が大多数だったりするのかもしれない。少年Aに惹かれたり、クラスメートに自分を殺すように依頼したり、一つ一つが滑稽でイタい。

でも僕は、アンのことを笑えないし、アンのその滑稽な向き合い方に真剣さを感じ取ってしまう。アンは必死だ。自分には、美しい世界が見える。アンにとってそれは、生きていくのにどうしても必要なものだ。その美しさを知ってしまったら、もう後戻りは出来ない。自分の審美眼に従って、その美しい世界を追い続けるしかない。


でも、アンは気づく。その美しい世界を見ることが出来るのは、ごく僅かな人間なのだ、と。もちろん、それは勘違いであることは多いだろうけど、少なくとも今のアンにとっては、それは紛れもない真実だ。アンが美しいと感じる世界を、他の人間はそう見ない。


また引用をしよう。

『私の周りのセンスのない人たちは、私がいいと思うものをそろって同じ言葉で「怖い」と形容する。』

そしてやがてアンは気づくことになる。その美しさに気付けない人たちは、アンが美しいと感じる世界を積極的に打ち壊しにくるのだ、と。それが美しいと感じられないのなら、放っておいてくれればいい。でも、そうはならない。特に学校という閉鎖的な空間、あるいは家族という閉鎖的な空間の中では、「わからない」ものは排除されていく。「普通」から外れた人間が何を見てどう感じているのか、「普通」の人は不安で仕方がない。だから、壊す。アンの世界も、そうやってズタズタにされていくことになる。


アンは、なんとか周りと体裁を取り繕いつつも、自分が美しいと感じる世界を必死でまもろうと努力する。その美しい世界を守り続けることが出来るのなら、多少のことは我慢するだけの気持ちはある。それでも、アンのその世界は、少しずつ壊されていく。それが、アンには我慢ならないし、赦せない。


そんな世界でなら生きている必要はないよな、って思ってしまうアンの気持ちは、恐ろしく理解できてしまう。


アンにとって切実に必要なものは、僕にとっても同じくらい切実な存在だ。別に僕が、アンが見ているような美しい世界が見えるのだ、というつもりはない。でも僕にも、他の人には見えていないんじゃないかと思いたい何かがある。その何かを手放したら、生きている意味が丸ごと失われてしまうんじゃないか、というような何かがある。うまく言葉では表現できないその何かは、きっと、アンが抱えているものと似た形をしているはずだ、と思う。


アンの生き方は、僕が経験したこととは違う。僕はそもそも男だから女子同士の複雑な人間関係は経験したことがないし、クラスの中で中心だったことも底辺だったこともない。自分を殺して欲しいと誰かに頼んだことももちろんない。それでも、アンの経験の細部が細部まで想像できてしまう感じがする。その時の呼吸の仕方だとか、その時の足の踏み出し方だとか、あるいは、その時流した涙の色とか。アンの歩いたその後を、まったく同じように歩くことさえ出来そうな気がする。アンの中身を、そっくりそのまま今の僕と入れ替えても、この作品はまったく問題なく成立するのではないか、と思わされてしまう。


アンが徳川に殺人を依頼する件は、自分の家出のことを連想させた。


たぶん小学校の頃だったと思う。その頃から既に、家族に対して「理解出来ない感」「分かり合えない感」を抱いていた僕は、ある日学校の友達に(確か家庭科の授業の時間だったはずなんだけど)、「明日俺は家出する」って言ったはずなんだ。ちゃんとは覚えてないんだけど、たぶん。


アンのように、誰かを巻き込んだりはしなかったし、殺人なんていう重い話でもないんだけど、なんかそれを思い出した。結局、家出はしなかった。次の日学校に行くのが嫌で嫌で仕方がなかったことを覚えている。


本書は、中二病であるアンの内面を中心に進んでいく物語だけど、アンが仲の良い(というか、学校ではそういう風に振舞っている)芹香と倖との関係は切っても切り離せない。


僕は、芹香と倖の描き方が凄いと感じた。この凄さは、どう説明したらいいだろう。芹香や倖のような人間が実際に世の中に存在していて、自分たちのあり方に疑問を持つことなく、それが正しいと信じて普通に生きていられることに対する驚き、という感じなんだけど、伝わるかなぁ。


芹香と倖とアンは、基本的にいつも三人一緒にいる関係なんだけど、その関係性は微妙だ。男である僕には、女子同士の人間関係って本当に理解に苦しむことが多いんだけど、芹香と倖は本当に、僕には理解不能としか言いようがない。そんな風にして生活していけることが信じられないくらいのレベルで、僕は芹香と倖のことが理解出来ない。


芹香は、自分が中心でなくては気が済まない人間で、気まぐれで誰かを無視したり、それを周囲に強いたりする。皆が芹香の動向を窺わざるを得ないような、そんな存在。こういう存在は、女子の世界では常にどこにでもいるんだろうと思う。ウチのバイト先にも、一人いる。正直言ってそういう人とは、ひと欠片も関わり合いになりたくないと思う。


倖は反対に、八方美人。誰からも嫌われたくない。そういう部分は僕の中にもあるから、倖のことは一概に悪くは言えないのだけど、でも本書で描かれる倖はちょっと僕は理解したくない。どうしてそんな風なことが出来てしまうんだろう、って思う。一貫性がなくてブレまくっているところは、凄く嫌いだなぁ。


タイプは違うけど、芹香も倖も、女子の特殊な人間関係の中でうまく渡っていくのに適した性質を持っている。その部分を特化してきた、といえるかもしれない。女子の人間関係はなかなか大変だろうから、芹香と倖を単純に責めることは酷かもしれない。その二人にしたって、そうしなければやっていけなかったのかもしれないから。


それでも僕は、女子の世界の中でちゃんと泳ぐことが出来ないアンに惹かれる。どうしたってアンのような女子は、女子の世界の中では浮く。それまで、それでもうまくやってきたアンだったけど、やっぱりベースの部分では女子的な人間関係の中で泳ぎきるだけの力がない。それは、能力とか努力の問題ではなくて、美意識の問題に近い、と僕は思う。自分の中の美意識と照らし合わせて、そうすることが出来ないでいるアンの姿は、僕には好ましく映る。


本書でも辻村深月は、人と人との関係の脆さを、少しずつ皮を剥ぐようにして少しずつ見せつけていく。それはやはり、圧巻だと思う。バタフライ効果みたいに、ほんのちょっとした些細なことがきっかけで、人間関係がどんどんと複雑に変化していく。辻村深月はその流れを、熟練の航海士のようにして読み、物語に落としていく。さすがだと思う。こんな風に僕の肌を粟立たせる人間関係を描く辻村深月は、やっぱり凄いと思う。


最後に一つ書く。この物語は、終わらせ方が本当に難しかっただろうと思う。正直に言えば、これが正解だったのか、僕には分からない。ちょっとモヤモヤするのは事実だ。この終わらせ方で、果たしてこの世界はうまく落ち着くことが出来るのだろうか、と。辻村深月への期待が大きすぎるからだと思うんだけど、辻村深月なら、もっと美しい世界を描ききることが出来たのではないか、とそんな風に思った。いや、もちろん、終わらせ方が悪い、なんて言いたいわけでは全然ありません。


あの頃の自分が、ここにいました。自分は人とは違っている、周りはセンスがない人間ばかりだというイタい価値観の中で、自分にとって美しいものを大切にする生き方を望みながら、周りにいるそのセンスのない人間たちが自分の美しい世界を易々と壊して行ってしまう、そんな理不尽な世界の中で、ギリギリまで真剣に世界を向きあって戦って走り抜けた一人の少女の物語です。是非読んでみてください。


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