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【本】戸田真琴「あなたの孤独は美しい」感想・レビュー・解説

文章を読んで、「この人に会って話をしてみたい」と思う人を久々に見つけた。パッと思いつく限り、小説家の森博嗣、乃木坂46の齋藤飛鳥、SEKAI NO OWARIの藤崎彩織、そして本書の著者である、AV女優の戸田真琴だ。

正直、凄いと思った。

誤解されそうだからあらかじめ書いておくと、これは、「AV女優”なんていう”仕事の割には文章が上手い」とかいう話ではない(”なんていう”というのは、僕の考えではなく、世間一般の捉え方を表現したつもり)。こんなに言語化能力の高い人を久々に見つけた、という感動がそこにある。

僕も割と、言語化能力が高い方だと思う。周囲の人からも、「よく自分の考えていることを、そこまで明確に言葉で表現できるね」という反応をされることもあるし、全般的には自己評価の高くない僕だけど、自分の言語化能力は高い方だよなぁ、と自分で思ったりもする。

でも、著者には負けるなぁ、と思ってしまった。

以前、藤崎彩織「ふたご」の感想の中で、こんなことを書いたことがある。

「僕には持論がある。
辛い境遇にいる者ほど、言葉が豊かなのだ、と。
言葉に惹かれる僕は、だからそういう人に惹かれる。」

著者も、本書の中で、こんな風に書いている。

【私は家族に対する「どうやってもわかり合うことができないんだ」という失望が、自分の孤独を知るきっかけになりました。当たり前にわかり合えて愛し合える家族の下に生まれていたら、きっともっと満ち足りていて、こんなに必死に自分の心の本当の姿を知ろうと頭をひねらせることもなかったかもしれません】

本書を読めば理解できるが、まさに彼女は、「言葉」で自分自身を、自らの人生を必死で支え続けてきた人だ。

僕も、そういう子ども時代を過ごした。自分の思考と言葉で、自分の周りの現実を再解釈したり再構築したりして、なんとか自分なりに、折り合いの付きにくい世界に馴染もうとした。その奮闘の記録が、本書には詰まっていて、時々「この箇所は僕が書いたみたいだな」というようなレベルの共感さえしながら、本書を読み進めていった。

印象的だった話がある。

著者は、母親から男女交際を禁じられていた。そこには母なりの様々な思いがあったのだろうと著者も理解は示しているが、しかしやはりそれは彼女にとって「呪い」だった。あとで触れたいと思うが、彼女が「AV女優」という職業を選んだ理由も、この「呪い」と関係がある。その思考の「正しさ」と「切なさ」みたいなものに、なんというか心を掴まれる。

話を戻そう。男女交際を禁じられていた彼女は、好意を抱いていた男の子から告白される。「好意を抱いていた」と言っても、それは、告白された後で考えて「そうなのかも」と思っただけで、彼女の方から積極的にそういう感情を持っていたのではない。

さて、彼女は確かに母親から男女交際を禁じられていて、それも悩む理由の一つではありましたが、他にも、

【私は自分のことを、一人の男の子の大事な10代の時の中で大きな配分を占めていいほど価値のある人間に思えませんでした】

【当時も今も、好きになったら付き合いたいと思う、という思考回路が普通とされていますが、なぜ付き合うのかが私にはわかりませんでした。(中略)好き、というだけで本当は完成なのではないか?なぜその先で「付き合うかどうか」という白黒つけるような選択が迫られてしまうのだろう】

と考えていた。

さて、結局彼女は、その男の子の告白を断ることになるのですが、彼女は、「母親から禁じられているから」とか「世間で正しいとされている考えに沿いたくない」というような理由ではなく、もっと自らの意志で「付き合わない」という選択をしたい、という思考に至ります。その結果、

【私の導き出した極論-好きな相手でも告白を断ることができる正当な理由-は「この人といつか結婚するのかな?赤ちゃんをつくりたいって思うかな?」という問いを自分の中で投げかけてみるということでした】

この思考回路を、あなたはどう思うだろう?無茶苦茶だな、と思う人が多いだろうが、僕は、なるほどなぁ、分かるなぁ、と感じてしまった。

僕もこの種の極論で、しんどいなと思う状況を乗り切った記憶があるからだ。

僕は子どもの頃、「誰かから嫌われているかもしれない状態」を酷く恐れていた。この「かもしれない」というのがミソだ。僕は別に、いじめられていたり、無視されたりしていたわけではない。ただ、普段仲良くしてくれている人が、もしかしたら陰で自分のことを嫌っているのではないか、というのが、中学生の頃僕の中で恐怖として大きく膨らんでいたのだ。

これに対処するために僕は、「僕は世界中の人から嫌われているのだ」と思い込むことにした。目の前の人が、僕のことを嫌い「かもしれない」、というのが恐ろしいわけで、嫌いの側に針を倒してしまえば、その悩みは消えることになる。当時から、この考えが「極論」だということは十分理解していたけど、その時の僕の心を守るのには役に立ってくれた。

この極論の話を読んで、そうだよな、そんな風に無茶苦茶な理屈で自分を正当化しないとやってられないことってあったよな、と大いに共感してしまった。

最近僕は、大学時代の友人と話をしていて、「あぁ、なるほど、確かに言われてみればその通りだな」と感じることがあった。

僕は、小学生の頃から「家族」が苦手で、家にいることが酷く苦痛だった。ただ、何故そう感じていたのか、まったく覚えていない。両親はよく喧嘩をしていて、確かにそれは嫌だった。でも、僕自身が怒られたり虐待されたりされたということはまったくない。そういう話をしたら、「小学生の頃って、他の家族と比較することで、自分の家族の変さとかに気付くはずだけど、そういうわけでもなかったんだろ?だったらなんで、家族のことが嫌だったんだろうね?」と聞かれたのだ。確かになぁ、と思った。本書で著者が書いているような、「新興宗教」「姉がいじめの被害に遭う」「父親と価値観が絶望的に合わない」みたいなエピソードは、僕にはない。

結局僕は、今、「家族というものが苦手だったのではなく、誰かと一緒に過ごしているという状況そのものがしんどかったのだろう」という形で自分のことを理解している。

なんでこんな話をしたのかと言えば、著者が、子どもの頃から非常に高い言語化能力を持って、自らの状況を理解していることが、本書を通じて強烈に理解できるからだ。

引っ越しを機に、自分の家族が他の家族と違う、と気づいてしまった小学生だった著者は、その時のことをこう書く。

【そんな感じで、普通とはちょっと違った家に育ったのだと気がついてしまった私でしたが、異様に心の強い子供だったので、そこまで落ち込みもしませんでした。幸い、自分にとって何が正しくて何が間違っているのかは自分で判断ができる子供だったし、心というものはそれ自体、いつも自由でいる術を必ずどこかに隠し持っているもので、その頃の私は「お母さんの宗教は私にとっては信じるべきものではないのかもしれない」と理解し、自分はそれを無理に信じる必要もない、と割り切りながらもそれをお母さんに対しては隠し通す、というやり方でなんとか切り抜けていた気がします】

小学生時代のことを、大人になってから振り返って、きっとそうだったのだろう、と書いている文章だが、僕からすれば、小学生の頃に、ここまでの思考は出来なかったなぁ、と凄さを感じた。僕の場合、昔のことをそもそも覚えていないという記憶力の問題もあるが、しかし、親との関係や、自分の特性、自分の振る舞いをどう調整すべきか、などについて、ここまで高度な思考は出来ていなかったはずだ、という確信がある。彼女のような思考力、そして言語化能力が子供の頃からあれば、僕ももう少し色んなことをうまくやれたかもしれない、と思う。純粋に、凄いなぁ、と思った。

僕は最近、何かにつけて頭に浮かぶ言葉がある。それが、

「誰かの害悪になりたくない」

というものだ。昔から、そういう感覚は持っていたが、最近は、なんとなくふとした時に、「誰かの害悪になりたくない」という言葉が、頭の中にポンと浮かぶ。

僕が頭に思い浮かべる「害悪」を説明するために、棋士の羽生善治の話をしたい。

正確な表現は忘れてしまったが、羽生善治は何かの本の中で、「もはや勝ち負けを重視しているわけではない。それより、盤上で、対戦相手と共に力を振り絞り、これまで誰も到達したことがないようなところにたどり着きたい」というようなことを言っていた。つまり、「つまらない勝ち」より、「誰も見たことがない局面からの負け」の方にこそ価値があるのではないか、ということだ(当然、プロである以上、「勝ち」をないがしろにしているわけではないのだが)。

この話を読んだ時、僕は、「仮に僕がプロ棋士だったとして、羽生さんと対戦するのは嫌だな」と思った。勝ち負けなら分かりやすい。ただ、羽生善治は、僕(対戦相手)と共に、まだ見ぬ地平へと行き着きたいのだ。ということは、僕(対戦相手)がヘボい将棋を指したら、羽生善治の期待に沿えないことになる。それは「怖いな」と思ったのだ。

そして、こういう状況すら、僕は「誰かの害悪になってしまっている」と捉える傾向がある。

こういう考え方は、正直めんどくさいし、しんどいことも多い。相手にとっての「害悪」を先回りに、しかも過剰に考え、あらかじめそれに対処するか、対処できないと感じたら土俵にすら乗らない、というようなやり方は、特に仕事面においてマイナスに働くことが多い。「相手にとっての害悪」というものを過剰に考えすぎることが、結果として、相手に何の利益ももたらさない、ということになるからだ。ただそれでも、「相手にマイナスを与える可能性を生じさせる」くらいなら、「相手になんのプラスもない」方がマシなのではないか、と考えてしまう。

この本を読んで、非常に似た考えを見つけた。しかもそれが、彼女を「AV女優」という仕事に駆り立てるきっかけの一つになっている、というのだから、なお驚いた。

中学生の頃。一緒に家まで帰っていた友達が、下校中ずっと、誰かの悪口を言うようになった。その状況は、彼女にとって、非常に苦痛だったが、しかし彼女はそれに耐えることに決めた。その理由はこうだ。

【もしも私がこのハルちゃんの聞き役を降りたら、他の子がこの立場にならなきゃいけないかもしれない。この言葉のナイフたちが、私以外になるべく刺さりませんように-と願いながら、耐え抜く他ない日々が続きました】

また彼女は、ガリ勉というわけでもないのに勉強が出来たり、絵を描くことが心から大好きな姉よりも絵を上手く描けてしまったのだそうです。結局彼女は、勉強も、絵を描くことも、本気でやらないことに決めてしまいます。その理由がこうだ。

【ここでも、自分が得意なことに対して、誰かに劣等感を抱かれるとき、まるで自分がその人を悲しませてしまったような気持ちになるという悪い癖が出て、私はだんだんと、勉強なんかできない方がいいと自分に対して思うようになりました】

この結論に対して著者は、【今となれば、優しさを完全に履き違えている行為だったと分かります】と書いている。しかし、その当時は、勉強や絵を辞めることが「優しさ」だと思っていた。その気持ちは、分かるような気がするなぁ、と感じた。彼女も結局、「誰かの害悪になりたくない」という思いが、とても強かったということだ。

この考え方が、何故「AV女優」という仕事に繋がるのか。

【私がAV女優になることを選んだ理由のひとつにも、「なるべく誰にも羨ましがられない存在にならないといけない」という気持ちがありました。もしも私のことを誰かが羨ましがろうとしても、「でもこの子はAV女優だし」と見下すことで劣等感を抱かないで済めばいい、と思うが故のことでした。これもやっぱり正しいことなのか今でも悩むところではあるのですが、誰かが誰かに劣等感を抱いて、そのせいで自分自身を嫌いになる、という現象が、私にとって本当になるべく起こって欲しくない、悲しい現象に思えていたのでした】

大分前に読んだ、末井昭「自殺」という本の中に、こういう文章があった。

【自殺する人は真面目で優しい人です。真面目だから考え込んでしまって、深い悩みにはまり込んでしまうのです。感性が鋭くて、それゆえに生きづらい人です。生きづらいから世の中から身を引くという謙虚な人です。そういう人が少なくなっていくと、厚かましい人ばかりが残ってしまいます。】

彼女がAV女優になった理由の一つ(決してこれだけが理由ではない)を読んで、この一節を思い出した。そして、「切ないなぁ」と感じた。

これも誤解されそうだから先に書いておくと、別に「ねじれた考え方によって、AV女優”なんていう”仕事に就くことになってしまった、可哀相」という意味ではない。そうではなくて、それがどんな仕事であれ、「誰かに劣等感を与えない、という理由で職業を選択していること」が「切ないなぁ」と感じるのだ。

気持ちは凄く分かるけど、本当だったら別に、そんなこと考える必要はない。しかし、「自殺」の一節のように、「真面目だから考え込んでしまって、深い悩みにはまり込んでしまう」。僕は彼女の、類まれな思考力と言語化能力が、彼女自身の生き方を支えてきたと思うし、なんなら、彼女をここまで生かしてきたと言ってもいいだろうと思う。しかし一方で、そういう思考力・言語化能力があったが故に、袋小路に入り込んでしまった、とも言える。なんとなく、同じ匂いを感じる人だから、「そういう生き方しか出来なかった」と言われたら、まあそうだよね、と返すしかないのだけど、それでもやっぱり、もっと穏やかな人生を歩めたら良かったんじゃないかな、とも思う。

ただ。

【(略)あなたの見てきたすべてのことがその配合で混じり合っている存在は、きれいごとではなくあなたしかいないのです。
私はそこに、人が生きていく意味があるということを証明します】

と高らかに宣言されてしまっているから、余計なお世話だよな、とも思うのだけど。

さて、こんな風に書いていると、いつまでも終わらないので、あと2つ、気になった話について触れようと思う。

1つ目は、「見られ方」について。

【AVというコンテンツ自体も、童顔で地味な顔立ちの子はエッチに対して奥手でウブであってほしい、とか、ギャルの子は自分からがつがつ来るタイプであってほしい、とかいうまさに”容姿から推測されるままの性格”を求められることが当たり前なのですが、これはAVというコンテンツが男性の理想を叶える、そしてそれがなるべく端的にわかりやすく示されているということが重要視されるものだからであって、これと同じようなことが日常的に起こりうるのはよく考えるとすこし変なことかもしれない、と思います】

これは僕自身よく考えることだし、様々な人と関わる際に最も重視していることだ。つまり、「『記号』として相手を見ない」ということだ。

世の中には、本当に、相手を『記号』として見ていながら、その自覚がまったくない、という人で溢れているな、と思う。『記号化する』ということが、「キャラ付け」という言葉でポップに正当化されるというのは当たり前のように行われているし、『記号』に沿った振る舞いをしないと、怒りを露わにしたり、そこまでいかなくても「サムい」「しらける」などと言った言葉で相手を貶めたりする。そして、なんとなくそれが、全体の空気として「当たり前だよね」となっているように思えるのが怖い。

また、昔からだけど、パワハラ・セクハラなども、結局のところ、相手を『記号』としてしか見ていないから起こることなのだ、と思っています。

本書で著者は、【男の人も「男らしさ」を押し付けられることから自由になれたらいいな、と思うのです】と書いている。彼女は、非常に公平に、公正に世の中を見ようとしている。そのスタンスは、非常に好ましく感じられる。

2つ目は、彼女の「願い」についてだ。

こんな記述がある。

【たまに、他人のことを眩しいと感じることがあります。それは、ごく当たり前のように「みんな」と仲良くできて、「みんな」が笑うようなことで一緒に笑って、「みんな」が見ているテレビを見ていて、「みんな」に引かれないちょうどいい話題で会話ができる-そんないわゆる「普通」の人に対してのことです。】

このあと彼女は、「そういう人たちだって、凄く努力してそういう感覚を手に入れたかもしれない」とエクスキューズを入れつつ、でも憧れてしまう、と続けます。

こういう「普通」を羨む感覚は、僕も子供の頃ずっと持ってました。なんとか「みんな」の中に混じれているフリは出来ていたと思うけど、内心、「この中で自分は生きられないな」と思っていました。しんどかった。でもやっぱり、どうしても「多数派」が「正解」になってしまうことが多い子供時代には、こういう環境はなかなか回避できないものでした。

その後、大学時代のとあるエピソードが紹介した後で、こんな風に続けます。

【それからの私の自分のための願い事は、いつか私が「普通」になる世界がやってきたらいいのにな、というものになりました。】

そして彼女は、自分以外にも、自分のように感じてしまう人がいることを知っていて、だから本書を書くことにしたのだ。

僕は、本書の「はじめに」の時点で心を掴まれていた。冒頭に書かれていた以下の文章は、彼女の誠実さ、そして切実さを、非常によく表している文章だと思う。

【あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。

現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。

そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。】

凄い宣言だ。
そしてその「本気さ」は、本書を読めば、伝わるはずだと思う。



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