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【本】根本聡一郎「人財島」感想・レビュー・解説

時々、ふと思い出す言葉がある。


お笑い芸人の山田ルイ53世の「ヒキコモリ漂流記」に書かれているものだ。

『殆どの人間は、ナンバーワンでもオンリーワンでもない。
本当は、何も取柄が無い人間だっている。
無駄や失敗に塗れた日々を過ごす人間も少なくない。
そんな人間が、ただ生きていても、責められることがない社会…それこそが正常だと置くは思うのだ』

いじめや自殺や過労死や、その他、社会に生きる誰かが追い詰められている報道を見聞きする度に、この言葉を思い出しては、そうだよなぁ、といつも思っている。

どうも僕たちは、「社会において価値のある存在でなければならない」という価値観を植え付けられすぎている。子供の頃から将来の夢を聞かれるが、それは暗黙の内に「社会で何を成し遂げたいか」を聞かれている。将来の夢としての回答には、ある範囲の”正解”が存在し、その”正解”から外れた答えを出せば、親に連絡が行くだろう。

未だに、「良い大学に行って良い就職をしろ」と言われ、勉強の目的があたかも就職のためであるかのように錯覚させられる。何故か、新卒の段階で頑張らなければ、それ以降良い職に就くことは困難で、だから多くの人が同じタイミングで一斉に職を争うレースに放り込まれることになる。そうやって入った会社がブラック企業だったり、「やりがい搾取」や「名ばかり管理職」のような状態になったりして、社会の歯車として生きることを強要してくる。

もちろん、僕だって、善良な人間ではないから、仕事が出来ない人間に苛立ちを覚えたり、優しくなれなかったりする。でも同時に、そういう自分は嫌だなぁ、とも感じる。頭の片隅では、別にただ仕事が出来ないだけで、仕事ではない何かで得意なものがあるかもしれないと思うし、さらに、別に何も出来なくたって、その人の存在が誰かにとって価値があるなら、まあ十分だよな、と思う。頭の片隅ではそう思っているつもりなのだけど、でもやっぱり、仕事が出来ないということへの苛立ちを抑えられないことはある。

僕自身、社会で生きることに向いていないと強く思う。どう考えても向いてない。頑張って金を稼いだところでやりたいことはないし、そもそも、やりたくないことが多すぎて色んなことが嫌になる。

中学生の時点で既に、サラリーマンにはなれないだろうなと思っていて、やはりその予感通りだったのだけど、それでもなんとか騙し騙し日々を生きている。僕も、自分の自覚としては、立派な「社会不適合者」である。

そういう人間が、「ただ生きていても、責められることがない社会」は、本当にいつも望んでいることだ。どうしてわざわざ、他人を蹴落としてまで自分がのし上がらないといけないんだろうか?一生かかっても使い切れないだろう金を稼ぐために、他人を犠牲にすることになんの意味があるのか?

もちろん、積極的な悪意を持って社会や他人に害悪を成す人間には、やはり何らかの対策が必要だが、誰にも害悪を与えたいと思っておらず、自分が受ける苦痛を最小限にした上でなるべく何もせずに生きたい、という人間は、もっと穏やかに生きられていいはずだ、と思う。

野球のグラウンドに立っているからと言って、野球をしなくてはいけない理由にはならないだろう。実際に今、そこで試合が行われていて、野球をするわけでもなくグラウンドに立っている自分の存在が邪魔になっているのならばそこからどく必要はあるが、「グラウンドに立ってるなら野球をやれ!」と言われる筋合いはない。

しかし、人生はそうはいかない。人生というステージに立っているだけで、人生を生きることを強要されるし、生きるのが上手い強者が様々なルールを作り出していくから、生きるのが不得意な弱者はどんどん窮屈になっていくばかりだ。

本書の中に、銀行の話が少し出てくる。メガバンクであればあるほど、少額の融資は嫌うため、本当にお金を必要としている会社には融資せず、お金がある会社にさらにお金を貸す、というのが今の銀行だ、という話だった。小説の記述とはいえ、そう現実と掛け離れたことは書かないだろうから、実際にそうなのだろう。

「リスクを最小限にして効率よく収益を上げる」ということを追求していけば、「お金があるところに貸す」という解に行き着くのは必然なのだろうけど、しかしそれはもはや本末転倒だ。「リスクを最小限にして効率よく収益を上げる」ことが目的になってしまっている。本来、「リスクを最小限にして効率よく収益を上げる」というのは、手段であるはずだ。何の手段であるかというのは様々な答えがあるだろうが、包括的には、「企業が成すべき責任を果たすため」ということになるだろう。銀行が成すべき責任は、お金を必要とする人に融資することだ。それが実現されないのであれば、銀行が存在する意味が失われるだろう。

生産性も効率も市場原理も、結構である。それらが重要ではないなどというつもりはない。しかし、生産性も効率も市場原理も、目的ではなく手段だ。そして、それらは一体なんの手段であるのかということを見失わずに生きていくことこそが、本当に社会に役立つ「人材」といえるのではないだろうか。

内容に入ろうと思います。


パシフィストグループで人材紹介事業本部に配属された新入社員の北原直人は、もはや常態化した在宅勤務のまま、新入社員研修を受けていた。「パシフィスト三戒」を繰り返し暗唱するという前時代的なやり方に疑問を抱きつつも、血の滲むような努力をして勝ち取った就職先で頑張る決意を固めていた。しかし、入社してすぐ、北原は異動することになった。パシフィストから出向していた社員が家族の事情で退職することになったから代わりに、ということだった。行き先は、人財島(たからじま)と呼ばれる元無人島だという。富士ゆりかという、パシフィストの元最年少役員が立ち上げた、人材育成のための施設という触れ込みで、メディアなどを通じて、研修施設としての素晴らしさが喧伝されている場所だった。人事部からも、人財島は社内で期待されている人間がいくところだ、と言われ、期待を抱きつつ向かう北原だったが、


そこは、孤島の監獄のような場所だった。


島に着くなり、携帯電話は没収。腕に装着された「ジンザイリング」によってすべての移動や決済が管理される。この島には、「人財」「人材」「人在」「人罪」の4つのクラスが存在し、最初は「人在」。そこから研修を積み上げていくことで「人財」になったら、晴れてこの島から出られる、というのだ。


北原にはなぜこうなったのかまったく状況が掴めないが、聞いていたような話とはまったく違い、彼は日がな一日、キャッサバを収穫する仕事に従事させられることになった。


島に向かう船の中で知り合った、銀行員の野沢さん(メチャクチャ良い人)、同じく船で出会った伶花(美少女だが、どうもコミュニケーションに難あり)、北原を裏カジノに誘おうとする堂下(「人在」フロアの野蛮なボス猿)、堂下について何か知っていそうな目黒(よく分からない)など、個性的な面々と共に、この謎めいた人財島での生活が始まった。やがて彼らは、この島に関する驚愕の事実を知ることになるが…。


というような話です。

正直、物語が始まってしばらく、中盤ぐらいまでは、「ちょっと荒唐無稽な設定だな」と思っていたのだけど、読み進めていく中で人財島の本当の姿が明るみになることで、「なるほど、これはあり得るかもしれないぞ」と思わされました。読み始めは、ハッキリ言って「カイジ」みたいな非現実感があったのだけど、読み終わる頃にはその印象がガラッと変わっていたので、なるほど上手いなぁ、と感じました。

小説の設定上、想像がつくと思うので書くと、北原は結果的に、「人財」「人材」「人在」「人罪」のすべてのステージを経験することになります。そして、「生産性」というお題目は同じでも、それぞれのステージがまったく異なる性格で、様々な形で「働くこと」「生産性を突き詰めること」を描き出していく。また、それぞれのステージでの働き方は、当然といえば当然だけど、現実の労働環境を下敷きにしている部分があって、言うなれば、現実の労働環境を「人財島」という誇張の激しい場所でより醜悪に描き出している、ということだ。

普段生活していると、それら労働環境は日常の中に組み込まれているから、よほど悪質でなければ違和感を覚えないかもしれないが、この作品では、浮世絵が極端に細部を誇張したりすることでインパクトを出すのと同じように、僕らが知っている労働環境が異様に誇張されるが故に、その醜悪さがより露呈する形になっている。

「人財島」では、至上命題として「生産性」が挙げられているので、違和感に気づきやすい。しかし、実際の生活では、「生産性」が求められる一方で、様々な覆いやフェイクなどによって、その異様さが見えにくくなっていると言っていいだろう。ある種マンガ的に誇張された世界観の中で、自分たちの労働環境に改めて思いを馳せることになるんじゃないかと思う。

先程出した例をもう一度使うと、冒頭からしばらくは、まさに「カイジ」だ。外に出られない環境に閉じ込められて、脱出するために裏カジノを攻略する、という流れは、まさに「カイジ」的だろう。しかし、「カイジ」がゲーム性に重点が置かれるのに対して、この作品では、後半に行くに連れ、彼らを閉じ込めている「環境」そのもの、つまり「人財島」へと焦点が当たっていくことになる。

先程、銀行が生産性の向上を目的にすれば、金のあるところに貸すという解にたどり着く、ということを書いたが、同じように、人材管理業が生産性の向上を目的にすれば、本書に登場するような「人財島」になるだろう。もちろん、本書で描かれる「人財島」は、明らかに刑法に引っかかるだろう。そのリスクを犯す大企業はないだろうから、現実的に本書と同じような「人財島」が生まれるとは思えないが、しかし、うまく法の抜け穴をかいくぐって、似たような性格を持つ環境を作り出すことはあり得るんじゃないかと思う。

しかしそれは、まさに、「生産性が低い=人ではない」と図式を露骨に持ち込むことになる。そんな社会は容認されるべきではないだろう。

今は、声が大きな人間が、ある種のプチ教祖的な存在になって、小規模な搾取の構造を生み出しやすい世の中になっている。「生産性」を至上命題にすれば、「いかに他人から搾取するか」を考えなければならなくなるし、多くの人がその価値観を許容することで、ますます搾取の構造が固着化するという悪循環の中にあると思う。誰かから搾取したり、搾取されたりするような関係性ではない形で、社会の中にほどよい居場所が生み出せるような、そんな社会だといいなと思う。


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