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【本】サンキュータツオ×春日太一「ボクたちのBL論」感想・レビュー・解説

さて、まずこの著書名を見て、「BLなんて興味ないし、俺はいいや」と思った男性諸君。本書のある一節を抜き出しますので、その引用を読んでから是非判断してください。BLは純粋に娯楽であり、最高の知的遊戯だけれども、BL的な視点や知識があれば、ビジネスで優位に立てる、ということに触れている一節があります。

『たしかに、ヒットするドラマとしないドラマ。「同じイケメン使ってても、なぜだ?」というときに、BL的な要素、無視できないものがあります。あるいは売れているもの、ヒットする商品、あるいはCMに起用される人、人気のあるコンビ、全てBL要素に支えられています。仕掛け手がこのことについて知らなすぎる。BLってものをもっと情報としてだけでも入れてほしい!そして感覚で理解している人を制作サイドにつけてごらんなさい!
言っとくけど、テレビ局の人、映画製作者、出版社の人、みんなBLに対する理解がなさすぎる。愚かです、これ。いや、もう一度言いますよ。「週刊少年ジャンプ」買ってるの誰ですか。女性ですよ。オードリーの人気は誰が支えていますか。腐女子です。ラーメンズのDVD買ってるの誰だ。腐女子です。今、お金を出すのはオタクなんです。なかでも腐女子。行動力だってあるすごい人たちなんです。その存在を無視してマーケティングだなんだと、ふざけたことを言ってるんです』

閑話休題。

僕は、これまでに、そこそこBLを読んできた。ごく一般的な男としては多いと言えるぐらいにはきっと読んでいるだろう。これまで読んだ作品をざっと書き出してみる。このブログに感想を書いた作品はリンクも貼っています。

水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」
ヨネダコウ「どうしても触れたくない/それでも、やさしい恋をする」「囀る鳥は羽ばたかない 1~3巻」
尾上与一「蒼穹のローレライ」
木原音瀬「箱の中」
朝丘戻。「あめの帰るところ」
海野幸「理系の恋文教室」
おげれつたなか「恋愛ルビの正しいふりかた」
咎井淳「IN THESE WORDS 1・2巻」
草間さかえ「マッチ売り」「やぎさん郵便」

この中で、心底心を抉られ、感動に打ち震えた作品は、水城せとなの「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」のシリーズだ。これは、本書「俺たちのBL論」でも、やはり絶賛されている。春日太一は『もう完全に純文学です』と評し、サンキュータツオは『だから、この作品は男の人に勧めやすいんですよ』と書く。うわぁ、BLかよ…みたいな反応をする人でも、とりあえずこの2作は読んでみて欲しい。

この作品のどこが良かったのか、詳しいことはリンク先の感想を読んで欲しいところだが、そこでも書いている、僕がBLを基本的にどう読んでいるのか、という話を書こう。先に触れておくと、僕の読み方は、本書「俺たちのBL論」で論じられている読み方とはまったく違っていて、そして、僕の読み方の方が圧倒的に浅い。

僕はBLを、「日常の中に絶望を持ち込む装置」と捉えている。男女の恋愛の場合、日常的な設定の中に「絶望」を組み込むのは難しい。物語的な抑揚を生み出したり、恋愛に障壁となるようなものがある方が作品全体がより面白くなるだろうが、こと日常を舞台にする以上、男女の恋愛ではなかなか「絶望」は描けない。だから、非日常的な、「難病に冒された」「身分差がある」とような設定を持ち込んで、物語的な効果を高めることになる。

しかし、BLという装置を使えば、その状況は一挙に解決する。
と書くためには、一つ大きな前提が必要だ。

僕はBL作品を読むが、どんなBLをでも読めるわけではない。僕が読めるタイプのBLというのが存在する。それは、「性描写が極力少ないもの」だ。本書「俺たちのBL論」の中でも、『多くの男が入りにくいのは、「男同士が交わる絵」に対する男の中での生理的な嫌悪感があるからなんですよ。そこを突破するかどうかってすごく大きい』と書かれている。僕はBLを読むが、別に同性愛者というわけではないので、やはり「男同士が交わる絵」には未だに抵抗がある。だから、腐女子の知り合いに頼んで(前の職場は腐女子だらけだったし、腐女子からよくBL的な話を聞いていたので、BLというものに元々抵抗はなかった)、「僕でも読めそうな性描写が多くない作品」を選んでもらって読むようにしている。

で、「性描写が極力少ない」という制限を加えると、必然的にあるパターンに収束されていく。それは、「ノンケとゲイの恋」である。「ノンケ」とは、同性愛者ではない、女性のことを好きな男のことを指す。「性描写が極力少ない作品」は、「つき合うまでの過程に重きを置く」ことになり、「つき合うまで過程」をメインで描くためには、「ゲイがノンケに恋をする」という設定がやりやすいのだ、と僕は理解している。

というわけで、僕が読む、そして僕が好きなタイプのBLというのは基本的に、「ゲイがノンケに恋をする」というタイプのBLである。

ここで、BLという設定が「絶望」を持ち込むための装置としてうまく機能する。ゲイの側はノンケに対して恋心を抱くが、ノンケ側からすればそのゲイが友人の一人である。ゲイ側は男同士であるから、「仲の良い友人関係」まで持っていくことはさほど難しくはない。しかしそこからは相当困難だ。自分がゲイであり、しかもあなたに恋しているのだ、と告げることは、比較的一般的な感覚で言えば成功率は低いだろうし、さらに、失敗した上で、今の良好な友人関係さえも壊す結果になる。その葛藤を乗り越えて男同士が結ばれていく過程。これは、「日常」を舞台にした場合、男女の恋愛ではまず描くことが出来ない「絶望」だと僕は思うのだ。

だから僕はBLを、純粋に「物語」として楽しんでいる。「男同士の恋」という設定が、日常に「絶望」を持ち込む機能を果たし、男女の恋愛では描けない物語を読むことが出来る。これが僕がBL作品を読む理由である。

しかし、本書を読んで、腐女子と呼ばれる方々の日々の営みは、そんなものではまったくない、ということを知る。いや、確かに僕は知っていたとは思う。前の職場にいた腐女子たちから、散々色んな話を聞いていたからだ。


しかしやはり僕には、全然理解できていなかった。というか、僕が全然理解できていなかったからこそ、前の職場の腐女子たちは僕にBLの話をしたのだろう。本書の中でBLの営みは「宗教戦争」に喩えられている。聖書なりコーランなりの原典をいかに解釈していくかという点に紛争がある。腐女子同士だと、下手に語ると戦争が起こるらしい。だから彼女たちは、安心して、無知な僕にBLの話をし続けたのかな、と思う。

本書でBLの営みがどんな風に捉えられているか。それが簡潔に伝わる文章を抜き出してみよう。

『「腐」とは、いろんな人間関係を、ひとまず「恋愛」と解釈してみること』

『それで、女性が男性同士の友情が「なんなのか分からない関係」を全て「恋愛という関係」に置き換える作業が「腐る」という知的遊戯なんだと考えました。「友情、ライバル、一目置いてる、気持ち悪い、気になる、憧れ、かわいい後輩」みたいな、このへんの意識っていうものが、異性同士だt、もう早くも恋愛の何らかの段階に入っちゃうんです。ですけど、同性同士だとそうじゃない。そうしたら、BLを愛する人からしたら、「これ恋愛って解釈したほうが分かりやすくね?」みたいな話になる』

『このBLとかやおいといわれているものの根本にあるものっていうのは、「余白と補完」なんだと思うんですよね。
これは本当に「わびさび」とかを愛するすごく日本人的な発想だなとも思うんです。たとえば今まで語ってきたように、二つのものとそれに関して分かってる限られた情報の中から―たとえば表情一つ変わったところに―何があったのかを、つまり、まず余白を見つけますよね。で、それに対して自分なりの解釈で補完をするんですよね。その作業のおもしろさなんですよ』

ここで大事なことは、「BL」と「エロ」を直結で結びつける発想は正しくない、ということだ。本書でも、『やっぱり一般の人はさらに、「萌え=エロなんでしょ」「萌えキャラって、結局その子といやらしいことをしたいんでしょ」っていう偏見や思い込みがある』と書いている。もちろん、エロはまったく無関係なわけではない。実際サンキュータツオ氏も、『ただね、本当に行間を読み取っていただきたいんですけど、「必ずしも」というというこの4文字、大事なんですよね。じゃあ「ぺろぺろしたくないのか」っていったら、ま、ぺろぺろしたいところもあるんですよ、それはオタクはみんな認めなきゃいけない』と正直に書いている。しかし、決して「エロ」は前面には来ないのだ。

『すぐ「性」にいきたくないですよね』

『「腐」は、すぐには性にいきつかない。「性行為」はむしろご褒美であり、おまけであり、クライマックス』

春日太一は、BLを読んでいく中で、「男のつまらなさ」を実感していく。『それで、同時に男でいることのつまらなさをすごく実感するんですよ。男ってすぐ「口説く、口説かない」の話になるじゃないですか。「じゃあ口説いちゃいなよ」「やっちゃいなよ」みたいな。ホントつまんねえなって。突きつめると「勃つか勃たないか」「出すか出さないか」、そういうゲスな二元しかないわけですよ』 そんな風に語る。

僕も、その風潮への違和感には賛成する。僕も、男同士のそういう話は苦手だし、つまらないと思う。男の中で恋愛というのは、「セックスできるか否か」という単一の価値観にのみ支えられているように見える。それは、男の文化の中でのある種の共通理解であり、それで満足できるのであればなんの問題もないのだが、女性はそんなことでは満足出来ず、恋愛というもっと広く捉え、BLという知的遊戯にたどり着くのだ。

確かにBLには性描写はある。あるというか、ほぼそれメインみたいな作品もある。だから「エロじゃない」とは言えない。言えないが、しかしただ「エロ」のためにBLを読んでいるわけではない。これはパチンコや賭け麻雀をやる男の心理に近いものがあるかもしれない(僕自身はどちらもやらないのであくまでも想像だが)。パチンコも賭け麻雀も、どちらも「金を手に入れるかどうか」というのが最終的な出口として存在するが、しかしただ金が欲しいだけならパチンコや賭け麻雀じゃなくても他に色々ある。それでもパチンコや賭け麻雀をやる理由は、「金を手に入れる過程」に何かうずうずしたり心がざわつくからだろう。入れ込みすぎると、「金が手に入るかどうか」さえどうでもよくなる人もいるかもしれない。女性にとってのBLも、これに近いのではないか。金は欲しい(セックスは見たい)が、しかしそれが目的なわけではない。金を手に入れる(セックスに至る)過程こそが目的であり、金(セックス)はあくまでもご褒美、おまけである、と。そういう捉え方をすると、「BL」と「エロ」をうまく切り離せるのではないか、と思う。

さて、そうやって「BL」から「エロ」を外してしまうと、恐らく大抵の男には、腐女子が一体何をしているのか分からなくなるだろう。エロを求めているのでないとしたら、一体腐女子というのは何をしているんだ?と。その答えに迫り、BLの文法を丁寧に解説することで、BL世界に男を引きずり込もうとするのが本書である。

本書の体裁を先に説明しておこう。本書の中では、サンキュータツオ氏が「講師」で、春日太一氏が「生徒」である。腐男子として、独力でBLの世界を泳ぎ切り、ついには腐女子の方々から「サンキュータツオは腐女子だ」と認定してもらえるまでになった男が、一般読者代表である春日太一氏に、BLとは何か、どう読めばいいのか、腐女子が日々行っている知的遊戯とは一体何なのかについて説明しつつ、実際にBL作品を読ませ、余白の発見と補完まで辿り着かせようとするプロジェクトである。

先ほど、BLとは何かを表す引用を三箇所から行ったが、僕なりにそれをまとめるとこうなる。

「BLとは、関係性の想像と創造の営みである」

ここで、「想像」が「余白の発見」、「創造」が「余白の補完」に対応している。

本書の表紙は、「消しゴム」と「鉛筆」が写った写真なのだが、これにはきちんと意味がある。冒頭で、こんな問いがサンキュータツオ氏から春日太一氏になされるのだ。

『鉛筆は消しゴムのことをどう思っていますか?』

究極的なことを言えば、この問いに答えることが<BLという営み>そのものである(本書に沿って正確に言えば、これは「やおい」という営みであり、「BL」という営みとは別物だが、この感想ではその辺は詳しく突っ込まないことにする)。しかし、初心者にはなかなかこの問いだけで答えを導き出すのは難しい(何を問われているかが分からない、という方もとりあえず読み進めてみてください)

さて、中盤で、再度こんな問いがなされる。

『2Bの鉛筆と、HBの鉛筆と、シャープペンがあります。2Bの鉛筆は、消しゴムのことをどう思っていますか?』

BL回路がない人でも、これだったら答えが浮かぶ、という人はいるかもしれません。春日太一氏の答えは、『いつもごめんね』です。僕もそう思いました。何故でしょうか?それは、2BはHBより濃いので、消しゴムにより負担を掛けている、と考えることが出来るからです。


「消しゴムにより負担を掛けている」と考えるのが「余白を見つける行為」であり、それに対して「2Bの鉛筆は、いつもごめんねって思ってる」と考えるのが「余白を補完する行為」なのだ。こう考えると、BLがエロと直結するわけではないということが感覚的に理解できるだろう。BL回路で行われているのは、この「余白の発見」と「余白の補完」なのだ。それを何に対して行うかという違いがあるだけだ。春日太一氏はこの思考を、『これって、「ととのいました」に近いことなんですね』と評している。BLの営みというのは、実にクリエイティブなものなのである。

本書の中には、BL的営みを、俳句や宮中の歌会にダブらせる表現もある。どちらも、「わびさび」の世界である。

『で、この余白の見つけ方とか、その補完の仕方、行間の産め方って、たとえば俳句の味わいとかに似ているとも思うんです』

『想像天下一武道会ですよ。これもう昔の宮中での歌会と同じようなもんです。みんなで同じ自然の風景や人間関係に触れて、それをどう出力するのかの仲間内での発表会。伝統的にこういう文化が根付く土壌があったんじゃないかとすら思えてくるわけです』

BLの凄さは、二つの「何か」の間に関係性を見出す知的遊戯だから、『地球上の全てが原作』であるということ。先ほどの「鉛筆」と「消しゴム」の例でもそうだけど、何か二つ対象となるものが存在し、その両者に何らかの関係性を想像することが出来る情報があれば、そこから「余白の発見」と「余白の補完」というBL知的遊戯を展開することが出来る。だからこそBLという営みは、あらゆる領域に拡張可能であり、あらゆる関係性の全段階に忍び寄ることが出来る、とも言えるでしょう。

二次元であれ三次元であれ、その「余白の発見」と「余白の補完」を人間に対して行うと、どうしても「性」の問題に行き着く(もちろん、BLの上級者になると、イヤホン(棒)とイヤホンジャック(穴)で性的な妄想も出来るらしいのだけど、とりあえずそれは置いておこう)。そして、やはりどうしても問題となるのは、「BLは何故男同士の恋愛を取り上げるのか」ということだ。関係性の妄想が主なのであれば、別に男同士である必要はないじゃないか、と考える人もいるだろう。


しかし、まさにこの点が、僕が本書で最も納得した点だ。「関係性の妄想」というのは、かつての職場の腐女子との会話でなんとなくイメージは出来ていた。しかし、何故男同士なのかという部分については、本書を読む前の僕はある一面の理解しかしていなかった。それは、本書の中では、『自分とは関係ない世界がいいんです!』と表現されている。

どういうことか。例えば少女マンガを女性が読むとする。そうするとやはり、マンガの仲のヒロインに感情移入して読むことになる。けど、読者である自分は、ヒロインほど可愛くないし、王子様みたいな男の子に好かれてもいないし…という、現実の自分と比較してしまって、恋愛を純粋に楽しめない。だから、自分とは無関係な、つまり、自分が感情移入してしまう「女性」という存在を排除した形で、「恋愛」を存分に味わいつくしたいのだ、というのが、女性がBLを読む動機として僕が理解していたことでした。

しかし本書には、決してそれだけではない様々な理由付けがなされていました。そしてそれらは、「何故BLは男同士の恋愛が描かれるのか」という問いに、新しい視界を開かせてくれたと僕には感じられました。そしてそれらの理由の多くは、BLという営みが「関係性の想像と創造」である、という基盤を前提にしているのです。

一番重要な点は、「男女の関係性には、妄想のバリエーションが少ない」という点が挙げられます。

『まず男性と女性では受け入れるほうが確定してしまうので関係性のバリエーションが狭い』

『少女マンガを女性が読む場合、自分と同じ性の人間が主人公として出てくるわけですよね、ほとんど。自分と近かろうが遠かろうが、自分と同性の人がいて、で、彼女が結局「受け入れる」側に回るという結論はもう出てるわけです。てなると、もう、すごく最大公約数的にいうと、同じ「女」の目線から見るんです』

男女の恋愛の場合、「女性が受け入れること」が既定路線だから、そこから外れた妄想はしにくい。「関係性の想像と創造」はやりにくい。しかしこれが男同士だと話は違ってくる。BLの用語で「攻め(キャラクター的に押している方、という意味もあれば、セックスで挿入する側という意味もある)」と「受け(キャラクター的に押される側、という意味もあれば、セックスで挿入される側という意味もある)」というのがあるが、男同士の場合、どちらが攻めでどちらが受けかという点でまず広がる(腐女子的には、「どのキャラが好きか」より、「どっちが攻めでどっちが受けなのか」が重要、という人もいる)。さらに、「誘い受け」「総攻め」「鬼畜攻め」(それぞれの意味はちゃんとは分からなくてもいいです)など、様々な属性を付けることが出来る。同性同士であるが故に、男女の場合のような非対称性が存在せず、様々な要素が交換可能であるので、妄想のバリエーションが無限に存在しうるのだ。


では、何故「百合」(女性同士の恋愛)ではなくBLなのか。本書はこれに対しても明解に答えを提示する。それは、『「男は大丈夫だから安心」理論』である。

『男なら精神的にも肉体的にもかわいそうではない。これが結構大きい。だから、攻め受けの両方が成り立つ』

男同士だから、殴りあったり罵り合ったり傷つけ合ったりしても「大丈夫」という安心感がある。これが女性同士だと、「殴ったりしたら壊れちゃうから可哀想」みたいな余計な思考が挟まって、妄想がスムーズに進まない。男同士であれば、どんな妄想を展開しても、「男は大丈夫だから安心」だと思える。どこまでも想像の羽根を広げることが出来る。

この、「同性同士だと属性に非対称性が存在せず妄想しやすい」「同性同士でもさらに男同士だと、何やっても大丈夫って思えるから妄想しやすい」という二つの話は、「何故BLは男同士の恋愛を描くのか」を実に見事に説明している、と感じました。どちらも、「BLとは、関係性の想像と創造を基礎とした知的遊戯である」という前提を成り立たせるための要素として重要なもので、もちろんBLという文化を作り上げた先人はそんなことを言語化して意識していたわけではないだろうが、僕には非常に納得感のある話だと感じられました。

また本書は、「何故女性がBLという知的遊戯を発展させたのか」という説明もしている。それは、「男同士の関係性は、女性同士には存在しないもののように見える」という点が大きく関わってくる。

『そうすると、そういうメガネ(※BL回路を獲得することを、BLメガネを掛ける、みたいな表現をしている箇所があった)を手に入れた女性からすると、「男性的」ともいえる関係性のある社会っていうのは憧れの、まさにファンタジーの対象になりうる…と。「友情って言われても、私たちの感情にないから、そんなの」となる。それでは、代わりに「なんだろう」って言われたら、「付き合ってる」って思えば理解出来る、というか楽しめる…みたいな。』

『それで、女性が男性同士の友情が「なんなのか分からない関係」を全て「恋愛という関係」に置き換える作業が「腐る」という知的遊戯なんだと考えました。「友情、ライバル、一目置いてる、気持ち悪い、気になる、憧れ、かわいい後輩」みたいな、このへんの意識っていうものが、異性同士だと、もう早くも恋愛の何らかの段階に入っちゃうんです。ですけど、同性同士だとそうじゃない。そうしたら、BLを愛する人からしたら、「これ恋愛って解釈したほうが分かりやすくね?」みたいな話になる』

僕は男ですが、男同士の関係というのはどうも苦手なので(男同士で固まってるより、女性と一緒にいる方が楽)、男同士の関係性みたいなものの中にあんまりいないのだけど、けど、性格的に僕は男同士の輪から少し離れたところにいて、外側から眺めているような意識があるので、男同士の関係性が女性同士の関係性と違う、という感じはなんとなく分かる。女性同士の関係性って、「うちら」と「うちら以外」に二分されている印象があって、さらにその「うちら」が絶えず入れ替わり揺れ動くという印象を持っている。「うちら」と「うちら以外」の境界は非常に厳密なのに、その「うちら」が常時変動するという不安定さを兼ね備えている。女性同士の場合、「うちら」は常に「厳密に境界を持つ」か「崩壊するか」の二択しかない。

しかし男同士の関係の場合、確かに「うちら」は存在するが、しかし女性同士ほど「うちら」と「うちら以外」との境界は厳密ではないように思う。男同士の関係というのは、「うちら」という感覚を持ちつつ、「うちら」だけで閉じることはない。様々な「うちら」の中に属し、色んな「うちら」を行き来する間も、どの「うちら」の境界も崩壊されることはない。常に様々な「うちら」の中にいる、という感じだろうか。

厳密な境界を持つ「うちら」の中に囚われた人間関係を持つ女性からすると、男同士の、「(女性にとっては厳密なはずの)うちらの境界」をあっさり飛び越えている(ように見える)関係は不思議に映るのだろう。それは、女性同士の人間関係の表現には存在しない形態だ。だから、その関係性を理解しようとして、女性は「恋愛」という枠組みをはめ込む。男が、「(女性の場合容易には超えられない)うちらの境界」を簡単に超えている(ように見える)のは、あの二人が付き合っているからだ!と。

そういう意味でも、男は女性に負けているなぁ、と感じた。男からしても当然、女性同士の人間関係はなかなか理解不能なのだけど、しかし男はそれを、「女ってよくわかんねぇよなぁ」という形で一蹴してしまう。女性が、男同士の関係性を理解しようとしてBLという知的遊戯を構築したのとは雲泥の差である。

また本書では、『女性コミュニティから抜け出したいという人もBLややおい志向が強い。要するに、いつも似た者同士だけだと同調圧力がある。でも、あくまで作品を読むときだけはそういう世界から抜け出したいという人が、やおいを読んだりするということらしいです』と書かれている。これは、前の職場にいた腐女子を見ていて、実感として感じる部分がある。女性同士の「うちら」のコミュニティから抜けだして、BLという「擬似男子コミュニティ」に逃避することで安定を保っているような人は確かにいた。勝手なイメージだけど、女性同士のコミュニティで不満なく生きていける人は、さほどBLにハマらないのかもしれない、と思う。もちろん、人それぞれだろうけど。

女性同士の特有の関係性が、男同士の関係性とは違うが故にBLという文化が生まれ、さらに、女性同士の特有の関係性に対する窮屈さが、BLを消費する層を生み出していくという構造は、なんだか凄くひねくれているようで面白いなと感じました。

他に何故BLは男同士なのかの説明として、あぁなるほどと思ったのは、春日太一氏による、水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」評の中にある。

『もう一つ言えるのは、「同性である意味」も分かりました。同性だから感覚的な壁なくお互いが分かり合えるんですよね。どうしても異性、男と女の物語だと最終的に「男と女は分かり合えない」というところに帰結してしまう。ところが、男と男だから、こいつら分かり合えちゃうんですよ。そして、分かり合えるからこそ内面の地獄に入り込んじゃう。お互いがお互いの痛みを理解し合っている状態で、互いにまた傷つけ合ってくってういう、この内面地獄。』

これも、なるほど!と思いました。確かにその通りです。異性同士の場合、やっぱり相手のことって分からないし、というところで行き詰まってしまう。でも、同性だからこそ、相手が何を考えているか分かる。だからこそ、内面をより深く深く描いていくことが出来る。水城せとなの上記の作品というのはまさにそこを実にうまく描き出した作品で、なるほど確かに、同性だから「分かり合えてしまうんだな!」というのは一つ大きな発見でした。

さて、こんな風に、「余白の発見」と「余白の補完」という形でBLを捉えると、「ルールもちゃんと分かっていないのにサッカーや野球を観戦する女性」や、「山手線を擬人化して萌える女性」を理解する文脈を手に入れることが出来る。それらはすべて、「関係性の想像と創造」の営みであり、腐女子は日々その訓練を積んでいると言っていい。『腐女子はどんな本でも1冊を無人島に持って行ったら一生楽しめる』と言うのも、あながち言い過ぎではないのだろう。

『で、「野球の何がそんなにおもしろいの」って言ったら、「やってることは同じなのに、昨日とちょっと違うんです」って言うんですよね。たとえば、昨日のピッチャーには一塁手は同じシチュエーションで駆け寄らなかったのに、今日のこの同じシチュエーションでなんか駆け寄ったぞ。これ、何があったんだと。
そういう細かいディテールとか。昨日はバットの端っこ持ってたのに、なんで今日はちょっと短めに持ってるんだろうとか、なんでキャッチャーは昨日はこういう指示出してたのに、同じシチュエーションで、とか。
これって興味のない人にはそんな小さな違いって思われるかもしれないんですけど、興味のある人にとっては…。
違いに大きいも小さいもない、「違う」っていうことがもう大きいんですよ。そこに何があったのかっていう余白ですよね。だから実はルーティーンの中のほうが余白が見えやすい、違いが見えやすいっていう。
だから俺それ聞いたときにもうガッテン、そういうことかと!ちっちゃな違いを見つけることが、そこに何があったのかという想像する余白をつくる。で、余白ができればあとは補完という作業なんで、やっぱ観察なんだなって。』

『だから、日常の見方も違う。たとえば、男って、女の人が髪の毛切ったとか変わったおかって気づかないじゃないですか。
だけど女性は、そういうところに気づける人が多いわけですよ。それは「ディテールに意味がある」ということがよく分かってるから。で、そのディテールが違うっていうことが何を意味するのかって余白を見つけて、そこを補完する作業をしている』

『萌えっていうのは「観察」にその醍醐味がある。「萌えとは無作為の覗き見である」と僕は定義している。誰にも見られてない、カメラもないなかで彼が本当にどういうことをしているのか、彼女がどんな行動をしてるのかっていうね、それを人物として介入するんじゃなくて、定点カメラで観察することが、実は「萌え」なんです』

『なぜこういうのに萌えるのか。現実世界では半信半疑なものも、神の視点が可能な二次元世界では、彼らの確固たる信頼が確認できる。つまりですね、相手が「AくんがBくんのことをどう思っているか」とか、日常世界では、「あの人が私のことをどう思っているか」って正確なとこ分かんないですよね、言葉で言われても嘘かもしんないし、自分が見ていないところではほかの女と遊んでいるかもしれないし。これ男女とも言えることですけど、常に不安を抱えてる。ただ、彼らを観察している守護霊の目線に立てばですね、確実なことが分かるわけです!目に見えない信頼、口に出さなくても信頼がそこにあるというのは、マンガを読めば描かれているわけですよね。』

こんな感じの捉え方で、腐女子の方々が一体どういう思考でBLと接しているのか、なんとなく捉えることが出来るのではないかと思う。そして、「俺たちのBL論」と銘打つ本書は、さらにその先も目指す。つまり、「男はどうやったらBLの世界に入っていけるか」である。

『男が入って行くときの二重、三重の障壁があるっていうね、それを突破するための処方箋をこの本はいろいろと言っているはずなので、たぶん女性の書いたBL論とはちょっと違うのはそこだろうと。男が入っていくときにどうしても障壁がある。でも、その障壁を突破した先にはすごく輝かしい世界があるよっていう、そこは最低限、俺も見させてもらったとこだから。そこがこのテーマだと思っています』

男がいかにBLに入っていくか、それを一言で説明するのは無理だが、本書にはこんなヒントが書かれている。

『BLってファンタジーなんです。ガンダムが動く。ロボットが動く。あるいは宇宙人がいる。男同士が愛し合ってる。全て、同じファンタジーなんです。って理解するとわりと割りきって読めるじゃないですか』

僕自身は、確かに「男同士が交わる絵」に多少の抵抗はあったものの、BLというものに対する障壁はさほどなかった。だから、特に読み方に葛藤することもなかったし、だから自分なりの勝手な読み方をしてしまったのだろう。僕の、「BLを、日常に絶望を組み込む装置として読む」という読み方も、まあ悪くはないと思うんだけど、でも腐女子の方々がしている「関係性の想像と創造」の方が遥かに面白いだろうな、と思う。僕自身は、そもそもオタクですらないので(マンガもゲームもアニメも、ごく一般的なものさえほとんど通過していない人間です)、腐女子の文法の前にまず、オタクの文法が血肉化されていない。前の職場の腐女子たちは当然オタクでもあるので、オタク的な考え方や行動原理も、知識としては分かっているつもりだけど、自分の実感としてそれが内側から湧き上がることはない。そういう人間だから、「関係性の想像と創造」という読み方はもの凄くハードルが高いなと思うのだけど、本書を読んで、その読み方確かに面白いだろうな、と思えたので、頭の片隅に、その実践をいずれ目指そうという意識を留めておこうと思います。

まだまだ書こうと思えば色々書けそうな気がするんだけど、さすがに長くなりすぎたのでそろそろ終わりにしようと思います。

『「壁ドン」と同じく「BL」は近い将来、知る必要のない人間たちに消費されていく言葉となる。無理解に消費され、「これがお前の好きなBLってやつだろ?」的ないじられ方をされていくし、もしかしたらあなたがそっち側に立つかもしれない。そこで、そういういじり方はいけませんよ、そしてもしそういういじり方をされたらこの本をその人に読んでもらってください、という意味で、この本は編まれた』

『BL、ボーイズラブというものを語る前に、まず言っておきたいことは、私自身、今思い切りBL作品やBL的に世界を見る愉しみを満喫していますが、おそらく完全には理解しきれていないし、またBL的体験は、誰の話を聞いても非常に個人的な話になっていき、一般化しにくいものでもある、ということです。そしておそらく、この世界のことを完璧に理解している人も、またいないということです』

BLというのは、「消費」でもありながら、同時に「生産」でもあり、また「評論」でもある。様々な要素が詰め込まれた、実にレベルの高い営みであって、その奥深さには驚かされる。BLを低俗と捉える人は、その奥行の広さを知って圧倒された方がいいかもしれない。とは言え本書では、『この本を読んで腐女子に対する接し方をもう少し変えてもらいたいなと思いますね。いちばんは「そっとしていく」ことだと思います』と書かれている。理解できないという人は、そのままこの世界から離れましょう。無闇に攻撃する意味はありません。理解できる可能性を感じた人は、勇気を出して一歩踏み出してみましょう。障壁があっても乗り越える努力をしてみましょう。僕の場合は、「今まで気づいていなかった障壁にやっと気づいた」という状態で、BL的世界をまったく探求出来ていませんが、その面白さの予感は本書を読んで強く感じることが出来ました。BLという「枠組み」の強さは、この世に存在するすべてのものの捉え方を再提示させるかもしれないと思えるほどです。その広がりを、本書を読んで是非感じてみてください。


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