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【本】伊吹有喜「彼方の友へ」感想・レビュー・解説

戦争、という言葉を使うと、一気に遠くなる。
砲弾の衝撃とか、銃声のやかましさとか、血の匂いとか、死体の惨たらしさとか…そういうものを、僕たちは知らない。戦争という言葉を使ってしまうと、だから一気に、遠い世界の出来事に思えてしまう。そこに、リアルを感じることが出来なくなる。

戦争、という言葉を使うのを止めてみればいい。例えば、日常の喪失、ならどうだろうか?

色んな日常を生きている人がいる。辛い日常を生きている人もたくさんいるだろうけど、しかし辛いことしかない、という人はそう多くはないはずだ。子育てをしている人、youtubeをいつも見ている人、アイドルや野球球団を応援している人、花を育てている人、絵を描いている人、旅をしている人、恋をしている人…。戦争というのは結局のところ、そういう日常を失わせるものなのだ。そう考えると、一気に戦争が身近なものに思えてはこないだろうか?

僕らの日常は、実に不確かな足場の上に構築されている。それは、「今自分たちがいるこの場所は日常なのだ」という思い込みの集積でしかない。僕らの目の前に、まるで無限に続くかのように思える形で存在しているように思える日常というのは、あるいは、二枚の鏡の間に立っているだけのようなものかもしれない。ちょっと前後どちらかに進んだら、鏡にぶつかってそれ以上進めなくなってしまうような。

『(雑誌の付録の)小道具の外国趣味もほどほどに。現実から目をそむけて、叙情的なものに溺れるのは読者の心を脆弱にする』

『ねえ、間違っていてよ。あなた方の誰も、お父様やお兄様が戦地に行っていないの?恥ずかしいと思わなくって?自分の身を飾ることばかり考えて』

雑誌の付録か華美だろうが、自分の身を飾ろうが、今の世の中では問題ではない。日本が戦争に突入する前も、そうだった。しかし、戦争が始まると、人々の考え方が変わる。ちょっと前まで「日常」であったものが、はっきりとした変化の兆しに気づけ無いまま、いつの間にか「日常」から排斥する力が生まれてくるのだ。

『どれほど現実が冷たくとも、誌面を眺めるひとときだけは温かい夢を。
そうした思いが許されない時代が来たのかもしれない。』

あなたの日常の中で、これがあるから頑張れる、というものを思い浮かべて見てほしい。そして、あなたの原動力になっているそれについて、「今の時代では不謹慎だ」と言って奪われてしまうことを想像してみてほしい―。

その想像の中にこそ、僕は「戦争の本質」があるのだと思う。

『希望です。新しい靴や服がなくても、ひもじくても、そこに読み物や絵があれば、少しは気持ちもなぐさめられる。明日へ向かう元気もわいてきます。』

本書は、戦争の足音を聞きながら、少女に向けた雑誌を作り続けている人々の物語だ。雑誌や物語に関心を持つ人にはそれだけで興味深いだろう。しかし、本書をただそれだけの物語として捉えるのはあまりにも狭量だ。本書では、「少女向けの雑誌」は「日常を彩るもの」として描かれる。そしてその「日常を彩るもの」を生み出すのにどれだけの情熱を注いでいるか、また、「日常を彩るもの」がいかに奪われうるかということを描き出していくのだ。

『子どもから大人になるわずかな期間、美しい夢や理想の世界に心を遊ばせる。やがて清濁併せ呑まねばならぬ大人になったとき、その美しい思い出はどれほど心をなぐさめ、気持ちを支えることだろうか。そうした思いをもとにこの雑誌は続いてきたはずだ』

『「だけど僕らは切腹も殉死もしない。生き残ることを選ぶ。なぜならこの雑誌は少女、乙女の友だからだ。たとえ荒廃した大地に置かれようと、女性はそれに絶望して死にはしない。一粒の麦、一握の希望、わずかな希望でもそこに命脈がある限り…女たちはそれをはぐくみ、つなげていく。」
はいつくばろう、ぶざまであろうと、有賀がつぶやいた。
「未来へつなげていくことに光を見出す。それが女性たちの力だ。僕らは男だけれど、女性にはそうした力があることを今だから声を大にして伝えなければいけない。なぜなら彼女たちの声は今はあまりに小さく、あまりにか細い。この時代のなかで簡単に潰されてしまうから」』

「日常」は、いつだってあっさり奪われ得る。そのことを、僕たちは「日常」の中にいると忘れてしまう。本書は、「日常」は決して「当たり前」と同義ではないと意識させてくれる作品なのだ。

内容に入ろうと思います。

佐倉波津子は、本名は「ハツ」だが、その名前が嫌で自分で書く時は「佐倉波津子」と書く。今は老人施設で寝起きする日々だ。夢と現実のあわいで生きているような、何が現実で何が過去の出来事なのか区別がつかないような日々だ。
来客は断って欲しい、とお願いしているが、たまに誰かが来たことを報告してくれる。ある日佐倉は、「フローラ・ゲーム」の限定バージョンを受け取った。それがきっかけで、17歳の頃から自分の人生がパーっと思い出された。
昭和12年。かつて裕福だった佐倉家は、父が帰って来なくなったのを機に生活が厳しくなり、佐倉は進学を諦めた。椎名音楽学院の内弟子として働きながら、時々マダムに歌の稽古をつけてもらう日々だが、マダムは戦争が終わるまで関西の田舎にひきこもることにしたとかで、佐倉は行き場を失ってしまう。

辛い日々を支えてくれたのは、印刷所の息子であり幼馴染である春山慎が時々こっそりくれる、試し印刷をした少女雑誌「乙女の友」だ。画家の長谷川純司と、主筆である詩人である有賀憲一郎のコンビが大好きで、いつも心をときめかせている。
そんな佐倉は、ひょんなことから、大和之興行社で働くことになった。「乙女の友」を発行している雑誌社だ。なんと、主筆である有賀氏の下で働けるのだという。とはいえ、働き始めた佐倉は、自分がお荷物であることに日々気付かされる。少年の働き手が欲しかった有賀氏の思惑が外れ、佐倉は何を任されるでもなく、時々雑用を頼まれたりしながら、会社の端っこにいた。
それでも、憧れの有賀憲一郎と長谷川純司の近くにいられることは、佐倉の心をときめかせた。
戦争の気配が色濃くなっていき、社員や友人が徴兵されたり、連載を持っていた作家さんが突然逮捕され原稿を落としたりするようなことが起こるようになった。佐倉は、そういう状況の中で、少しずつ自分の存在意義を見出し、誌面づくりでも活躍できるようになっていく。
周りは皆女性も含めて大学出ばかりの職場で、小学校しか出ていない佐倉は常に引け目を感じていたが、モノ作りに真摯に取り組む人々の中で揉まれながら、佐倉は次第に強くなっていく…。
というような話です。

これは良い作品だったなぁ。戦争を背景にした作品でありながら、作品全体からとてもキラキラした雰囲気を感じる。少女雑誌という、戦時中においてはいの一番に「不要」と判断されそうなものを、全身全霊を以って作り続ける者たちの心意気が見事に描かれている作品で、何かを生み出し届けるという、あらゆる仕事において不可欠な事柄の大事さみたいなものを改めて実感させてくれる作品でした。

冒頭でも触れたように、本書は、砲弾や銃声はほとんど描かれないながらも、それでいて「戦争の悲惨さ」を如実に描き出す作品だな、と感じました。戦場や兵士たちを直接的に描くことによっても「戦争の悲惨さ」を描き出すことは出来る。しかしやはりそれは、どこか遠い世界の話に感じられてしまう。本書は、戦時下ではいかに「日常」がジワジワと奪われていくのか、ということが丁寧に描かれていく。誰もが、自分が正しいと思っている。平時であれば、複数の正しさは共存できるのだけど、戦時下においてはそれが不可能になる。戦時下では、人々の思考や価値観がある方向に自然と集約されていくし、その流れに逆らうことはたぶん出来ない。その怖さを、本書は描き出しているなと感じます。

とはいえ、こういう捉え方は読者次第だと言える。そんなことを考えなければ、純粋に美しいもの、心をときめかすものへの愛情に溢れたものたちのキラキラした日常を描いた作品として読むことが出来る(ラスト付近はどうしても戦争を意識せざるを得ないけど)。

自分たちが作っているものを待ってくれる人がいる。ネットのない時代、そう信じることはなかなか勇気がいることだろう。特に戦時下においては。雑誌を一冊買ったところで、お腹が膨れるわけでもなければ、明日の支払いの役に立つわけでもない。しかしそれでも、ある人達にとっては、この雑誌の存在がどうしても必要であり、だからこそ自分たちも作り続けるのだ―。これはもはや、信仰に近いものがある。しかし、信じる力が強ければ強いほど、それは事実となる。仮にその事実が、ごく狭い範囲でしか成り立たない事実であったとしても、その世界の中では紛れもない事実だ。そういうものを自分たちが生み出しているということの自負と責任を、彼らはきちんと意識している。そこにプロフェッショナルを感じるのだ。

佐倉は、かなり個性豊かな面々と共に働くことになる。有賀憲一郎と長谷川純司も、共にユーモラスで有能で尊敬に値する人物だが、他にもいる。科学をベースに空想小説を書く空井量太郎、憲一郎の従姉妹で編集部で働いている佐藤史絵里、有能だが少女雑誌にはさほど興味はない編集長の上里善啓、読者からの人気の高い「翻訳詩人」である霧島美蘭…。他にも多数いるが、そういう個性的な面々と一緒に雑誌作りをしている。そういう中にあって、佐倉には誇れるものはない。唯一あるとしたら、「乙女の友」をずっと好きで、敬愛と言っていいほど愛している、ということだ。その愛情の深さが、佐倉を悩ませもするし、前に進ませもする。仕事、という側面から見ても、本書は実に面白い。

人間関係もまた豊かだ。色恋は扱わない、という方針の「乙女の友」だが、雑誌作りに励む面々の間では様々な思いが交錯することになる。創作の熱意と恋心が入り混じり、本人でさえその境界を区別することが出来なくなっていく者たちの苦しさみたいなものが描かれていてとても良い。

『この雑誌の読者は、この雑誌を毎月買える裕福な家の子女だけかい?大人の庇護を受けている子女だけが友なのか。僕はそうは思わない。美しい物が好きならば、男も女も、年も身分も国籍も関係ない。』

こういう台詞に、羨ましさを感じる自分もいる。何故なら、この時代は、戦争という巨大なものが迫りつつあったが、同時に、良い物を作ればきちんと売れる時代でもあったからだ。だからこそ作り手は、いかにして良い物を作るか、という点だけに神経を注げば良かった(というのはまあ書きすぎかもしれないが)。本書においても、「いかに売るか」という議論は出てこない。「いかに良い物を作るか」が重要なのだ。

今の時代は、そうはいかない。どれだけ良い物であっても、売れないことはある。逆に、大したことがないものでも、ひょんなことから売れてしまうこともある。僕は日々、「いかに売るか」に汲々としている人間だ。何か物を生み出すような仕事をしているわけではないから、彼らと同列に論じるのは間違っているとは思う。しかしそれでも、不謹慎なのかもしれないが、ある意味で良い時代だったなと感じてしまうのだ。

本書の舞台となる「大和之興行社」のモデルは、本書の出版社である「実業之日本社」であるという。「乙女の友」という雑誌のモデルは、同社が出していた伝説の雑誌「少女の友」だという。本書で描かれていることが、どれだけ現実や時代の雰囲気を切り取ったものなのか、僕には判断が出来ない。しかし、「少女の友」を出版した出版社から本書が出る、ということから考えてみても、かなり当時の雰囲気を醸し出せている可能性は高いのではないかと思いたくなる。そうか、こういう時代が、本当にかつてあったのか、という嬉しさみたいなものが、湧き上がってくるような気がするのだ。


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