【映画】「毛皮のヴィーナス」

場人物はたった二人しかいない映画だ。
トマノヴァチェクは、とある舞台の脚本家(本人は「脚色家」と言っている)。その舞台のためのオーディションを開催したのだけど、ロクな女が集まりゃしない。35人集まって、バカ女ばっかり。喋り方が、売女かレズにしか聞こえない。外は大嵐。トマノヴァチェクは、食事の予定があり、まさに帰るところだった。
そこにやってきたのが、ワンダ・ジェルダン。遅れてやってきた、オーディション希望者だ。パリの反対側にいて、電車では痴漢に遭って、外は土砂降り。散々な一日だった。その上、脚本家は帰ろうとしている。
ワンダは、喋り倒してトマノヴァチェクを引き留めようとする。折角来たんだから、ちょっと見てよ、と。ほら、1800年代の雰囲気に合った衣装もちゃんと持ってきたの。ね。
結局、相手役はトマノヴァチェク自身がやることにして、オーディションをすることになった。トマノヴァチェクの舞台は、マゾッホの「毛皮のヴィーナス」をモチーフにした作品だ。主人公は、ワンダとまったくの同姓同名、ワンダ・ジェルダン。
「マゾッホ」というのは、「SM」の「マゾ」の語源となった作家。そして、マゾッホの問題作が「毛皮のヴィーナス」だ。トマノヴァチェクはこれを、深い感情が描き出された世界的文学だと賞賛する。しかしワンダは、”ワンダ”を演じながら、時折「毛皮のヴィーナス」への不快感を示す。女性蔑視だ、と。
ワンダは完璧に”ワンダ”を演じ、その演技に飲み込まれるようにして、役者ではないトマノヴァチェクも、ワンダが巧みに生みだす世界観に取り込まれていく。
口にしているのは、トマノヴァチェク自身が考えた、舞台上でしか効力を発しないはずの「セリフ」だ。しかし、その「セリフ」が、現実を侵食していく。少しずつ、少しずつ…。
というような話です。
非常に興味深い作品でした。エンターテイメント作品として、観て楽しめたかと言われると、なんとも言いがたいですが、様々な点で惹きつける作品でした。
やはり、登場人物が二人しかいない、という点が非常に新鮮でした。本当に、二人しか出てきません。回想シーンがあるわけでもなく、ちょっとした通行人さえ出てきません(声は聞こえませんが、電話相手はいます)。舞台はオーディション会場に限定され、登場人物は二人。この非常に限られた制約の中で、「飽きさせない」という点ではかなり成功していると感じました。

二人は「オーディションをしている」という体裁をずっと取り続けるわけですが、しかしその体裁は少しずつ崩れていく。「あくまでもオーディションをしているだけだ」という言い訳をまといつつ、二人の関係性は、とても「オーディション」とは言えないような、ものに変質していく。たった二人しかいない作品でここまで見せる作品になっているのは、この二人の関係性の変質が非常に興味深いからだと僕は感じました。
心理学の有名な実験に、「囚人と看守」というものがあります。被験者を「囚人役」「看守役」に無作為に振り分け、それぞれの役割を一定期間演じさせると、元々の性格に関係なく、「囚人役」はおどおどとした、「看守役」は威圧的な振る舞いになっていく、という実験です。
同じことをこの映画を見ながら感じました。二人はそれぞれ、「毛皮のヴィーナス」という舞台の役柄を演じている。しかし、セリフを感情を込めて発したり、舞台上で役柄の行動をしていく中で、次第に、役柄そのものへと入り込んでいくことになる。
この点で、「一方が脚本家である(俳優ではない)」という設定も、よく利いているのだと感じます。ワンダの方は、女優をずっとやっているわけで、「役柄に囚われる」ということはないのでしょう。一方で、トマノヴァチェクの方は、脚本家であって俳優ではない。演技をしたことなど、たぶんないことでしょう。その中で、ワンダのようなゴリゴリの女優を相手に演技をする。そうすることで少しずつ、役柄になりきっていく。
もちろんそこには、別の要因も絡んでくる。これは、作中でははっきりとは明示されないが、恐らく、トマノヴァチェク自身の欲望や感情が、舞台「毛皮のヴィーナス」の中のセリフに織り込まれているのだろうと思う。元々、「毛皮のヴィーナス」の中の役柄と、トマノヴァチェク自身が、非常に近い存在だったのだろう。だからこそ、トマノヴァチェクは容易に、役柄に嵌り込んでいく。
しかし、そんなトマノヴァチェクを翻弄するかのように、ワンダは「演技の世界」から「現実の世界」へと自在にシーンを切り替える。トマノヴァチェクは決して演出家ではないが、自ら生み出した脚本を、オーディションにやってきた一女優に演出され続けるという、不可思議な状況に陥ることになる。
これは、現実と虚構の境界を曖昧にするための、ワンダ自身の策略だったのかもしれない。原作であるマゾッホの「毛皮のヴィーナス」を読んでいる観客なら違うかもしれないが、そうではない観客たちも、「このセリフは現実か?それとも虚構か?」と振り回されながら観ることになる。
この、「演劇の舞台上で、現実と虚構が入り交じる」という設定が、初野晴のとある短編を連想させた。どの作品なのかを書くと、少しネタバレになってしまうかもしれないので言わないが、演技のセリフが次第に現実に侵食していく過程から、そんな連想をした。
ワンダの目的が理解できない、という点も、この作品を不穏に感じさせるのだろうと思います。観客は当初、ワンダは、「オーディションにどうしても合格したいのだ」と考える。当然だろう。しかし次第に、ワンダは「オーディションを受ける女優」という枠からどんどんと外れていく。 時に演出家となり、時に批判者となり、時にアドバイザーとなる。彼女が一体何を目指しているのか。それがいつまで経っても「不定」であり続けることが、観客を不安定にさせる。物語がどう着地していくのか。この、たった二人だけの密室が、最終的にどうなっていくのか。その不安感に惹きつけられもする。
正直なところ、僕個人はこの映画の結末にはあまり良い印象を持っていないのだけど、恐らくこれは人それぞれの感じ方次第でしょう。
面白かったかと言われると、素直に返事はしにくいけど、非常に興味深かったと言うことは出来ます。物語の終わらせ方に個人的には不満を持ったことがこの映画をうまく評価しにくい大きな理由の一つだけど、限られた舞台の中で惹きつける部分を多く持つ映画だと思うし、原作である「毛皮のヴィーナス」をちょっと読んでみたくもなりました。

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