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【本】垣谷美雨「女たちの避難所」感想・レビュー・解説

何でも分かってると思っているつもりもないし、僕が男である以上、見えていない部分も多々あるのだということは十分分かった上で言うのだけど、女性というのは本当に生きていくのが大変だろうな、と感じる。やはりどうしても、社会が「男目線」で作られているからだ。

僕はどちらかと言えば男の方が苦手なので、男のダメな部分というのは多少は分かるつもりだ。いちいちここで言語化することはしないが、男の狭量な考え方が、女性を生きづらくしているのは間違いない。

そして問題なのは、男がそのことにまったく気づいていない、どころか、自分は女性のためになるような行動をしている、と思っている節さえある、ということだ。この点が、実に致命的だ、と思う。もちろん、僕自身もそういう振る舞いをしてしまっているかもしれないということは常に意識するようにはしているし、自分だけはその罪から逃れられていると思っているわけでは全然ないのだけど。

僕は、働くという点では、女性の方が有能だと感じる機会が多かった。誰に聞いたのか忘れてしまったが、知り合いが自社の採用面接の際にあった話が印象的だった。その人曰く、純粋に絶対評価で点をつけると、面接を受けに来た女性ばかりが残ってしまうのだ、と。人事から、女性ばかりだと都合が悪いから男も残してくれ、と言われたという話をしていた。

もちろん、有能さというのは数値などで客観的に測れるものではないが、少なくとも、男の方が明白に有能だ、ということを示すデータも存在しないだろう。であれば、管理職が男ばかりという会社が多い現状にはやはり問題があるだろう。

また、色んな夫婦から漏れ聞こえてくる話(当然それらは女性側から聞くのだが)からも、女性の息苦しさを感じることが多々ある。特に、僕よりも上の世代だと、夫の言うことは絶対という、僕からすれば信じがたいような振る舞いをしている男がまだまだたくさんいるらしい。

いや、こう考えることも出来るかもしれない。DVの問題は、昔からあったのだろうが、僕の勝手な印象では、上の世代よりも若い世代に多い気がする。上の世代の場合、「夫の言うことは絶対」というような謎の了解がまだ世間の通念として漂っていて、だから男は暴力を振るわずとも妻を支配することが出来た。しかし、時代の変化によってそういう了解が薄れていく。男は、自分の父親がそうしていたように家庭で強権的に振る舞いたいのだが、時代の風潮がそれを許さない。だから暴力に訴えて妻を支配しようとするのではないか、と。そうであれば、上の世代であろうが若い世代であろうが、問題の本質は変わらず男の振る舞いにある、ということになる。

そしてこの問題は、世代だけではなく、地域によっても差が出る。都会であれば、男尊女卑のような価値観は、表向きは減っているだろう(巧妙に隠れているのだ、と指摘することも出来るのだろうが)。しかし地方だと、女性が窮屈な状況に置かれることが未だに当たり前とされることもある(本書で描かれているのは、まさにこの点だ)。

決して女性に限らないのかもしれないが、若い世代の女性があまり結婚を望んでいなかったり(少なくとも早く結婚することを望んでいなかったり)、あるいは就職してもすぐに辞めてしまったりする背景には、こういう、「男社会」であるが故の窮屈さみたいなものがあるだろうと思う。

先程も書いたが、致命的なのは、男がその状況をまるで理解できていないという点だ。もちろん、男の側にもそれぞれなりの立場があり、その立場に沿った発言をしなければならない、という事情はあるのだろうが、それにしても、女性がどんなことを嫌だと感じているのか、どんな苦しみを持っているのか、それらを何故相談できないのか、というような現状を、全然理解していない。

僕だって、女性から色んな話を聞かなければ分からなかったことは多々ある。外から見て分かることはほとんどなくて、大体、色んな人からちょっとずつ打ち明けられた様々な話を繋ぎ合わせるようにして、女性の置かれた状況をなんとなく理解できるようになっていったのだ。

本書の内容を象徴するような一文を抜き出してみる。

『今まであった問題が明るみに出ただけなのかもしれない』

本書は、3.11の震災を、3人の女性の視点から描き出す作品だ。それは確かに、震災の物語ではある。しかし本書は、より本質的には、僕らが生きている社会に根を下ろす様々な問題をあぶり出す作品なのだ。震災そのものを描くのではない。本書にとって震災は、音を増幅させるアンプみたいな装置なのだ。日常的に女性が置かれている苦しい状況が、震災というアンプを通すことによって増幅され、目に見えやすくなる。それこそが、この作品の持つ大きな意味なのだ。

内容に入ろうと思います。
椿原福子は、職場であるナガヌマ酒店の奥さんに頼まれた買い物中に、スーパーで震災に遭遇した。55歳、体力があるわけではないが、水が侵入した車からなんとか抜け出し、濁流に飲まれながらも、なんとか一命を取り留めた。流されてきた少年をなんとか救い、家族とはぐれたという昌也というその少年とともに、なんとか避難所にたどり着いた。
きっと夫は死んだだろう。そう思うと嬉しくて、そんな風に感じている自分に唖然とした。
漆山遠乃は生後6ヶ月になる息子・智彦と共に、家で震災に遭った。夫の実家であり、義理の両親と共に暮らしている。28歳の遠乃は、家での発言権はほぼなく、舅の指示には逆らえない。余震が来るから逃げた方がいいという遠乃に舅は、この家は安普請ではないから大丈夫だと怒鳴り動こうとしない。なんとか理由をつけて家を出た遠乃は、高台に逃げなんとか助かった。夫は、公務員になるために地銀を辞め勉強中、今は図書館にいるはずだ。あそこなら大丈夫。子どもを抱えて避難所に向かうが、若くて美しい遠乃は、避難所でもの凄く目立ってしまう。
山野渚は、5年前に離婚し故郷に戻ってきた。40歳になったばかりで、小学生の息子がいる。渚は生きるためにスナックを経営し、なんとか生活を成り立たせていた。口さがない声があるのは知っていたが、生きていくのに必死だ。自宅で被災した渚は、津波に飲まれそうになったが、どうにか助かった。息子がいる小学校は、災害時は親が迎えに来るまでは学校で保護してくれる。大丈夫なはずだ。渚も避難所へとたどり着く。
何もかも失ったが、命だけは助かった―。しかし、辛いのはここからだった。

『生き残ったことが、果たして幸せだったんだろうかと渚は思った』

三者三様の悩みを抱えながら、彼女たちは避難所での生活をなんとか堪え、未来の自分を思い描こうとする…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。面白いというか、興味深い、という感じがしました。小説としてどうか、という点よりもまず、こういう現実があったのか、という点に関心が向きました。そして、なるほど、本書は確かに小説であることに意味があるな、と感じました。ノンフィクションとして実際にあった出来事を描くのももちろん大事だが、小説の登場人物の言動を通じて描き出すことで、読み手がより認識しやすい形で事実を提示出来ているように僕には感じられました。

三人の女性は、それぞれの苦しみの中に身を置きます。彼女たちがどんな状況の中に置かれているのか、という点については、あんまり書きすぎると後半の方の展開も透けて見てしまうような気がするので止めておきますが、引用したように、「今まであった問題が明るみに出た」という状況です。今までは、現実を成り立たせるために、彼女たちが色々と我慢したり調整したりして表向き上手いことやってきた。しかし震災によって、成り立たせる対象である「現実」が無くなってしまった。そうすることで、今まで我慢や調整によって明るみに出ることがなかった問題が浮き彫りになっていくわけです。

興味深いのは、男はあれだけの震災があって、「現実」が消失してしまったというのに、まだ震災以前の「現実」のルールの中で生きようとする、ということです。これはある意味で当然かもしれません。男は、それまでの「現実」が、女性の我慢や調整によって成り立っていた、という事実を認識できません。だからこそ、自分の振る舞いが、震災後も通用する、という判断になってしまうのです。

さらに、もっと恐ろしい状況さえ生まれます。それは、「女性に負担が掛かるのは当然」という意識を持った男にしか繰り出せない理屈です。

避難所のリーダーが、こんなことを言う場面があります。

『そらあ家も流され仕事もなくしで男だづも苛々しでっがらね。そういうごどがあっでも仕方ねえだろうね。だがら女性のみなさんも勘弁すてやってね。男っでものはどうしようもねえ動物だがらね』

何のことについて言っているか、理解できるだろうか?これは「緊急避妊用ピル」を配る際の言葉で、つまりこのリーダーは、「男はどうしようもないからレイプされても許してやってくれ」と言っているのだ。

これが、どこかの避難所で実際に口に出された言葉なのかどうか、それは僕には分からないが、言う人間がいてもおかしくない、と感じる。女性を一段も二段も低いものとしてしか見れない男というのはいるのだ。

このリーダーは他にも、「仕切りようのダンボールを使わない」という決断をする。避難所の面々は家族であり、連帯感を強めなければならない、というのがその理由だ。この台詞は、実際に避難所で発せられたという。あとがきによると、著者はその事実を知ったことで、本書を書く構想が生まれたという。

どんな価値観を持っても自由だが、それは「他人に迷惑を掛けない」「他人にその価値観を押し付けない」という前提がある場合だ。自分の理屈でしか物事を見れない人というのは男女ともにいるが、「男社会」の中では男の理屈がはびこり、女性が苦労することになる。そのことを、本書の隅々から感じることが出来るだろう。

また、女性の苦しみは、「対男」だけから生まれるとは限らない。例えば「食事作り」の問題などは、女性同士の間での問題だ。以前から様々な場面で感じることだが、女性というのは、男からは理解されず、さらに女性同士も立場の違いによって共闘することが出来ないという、本当に厳しい状況に置かれている。普段は、女性側の努力によってあまり表立って問題化することのない様々な事柄を、震災というアンプが増幅していく。

また、女性の苦しみという点に限らない描写も様々にある。贅沢を言ってはいけないという雰囲気を感じ取ったり、ボランティアスタッフとの微妙なすれ違いがあったり、義援金を巡る悲喜こもごもがあったりと、震災という様々な側面を捉える作品でもある。

福子のこんな言葉が印象に残った。

『努力すればなんとかなるっていうんなら身を粉にして働く覚悟はあるけんども、考えれば考えるほど、先が見えないってごどがはっきりしてきてしまっで、そうなると死にたぐなる』

この作品では、綺麗事は描かれない。生々しい醜悪さが描かれていく。震災直後は、「絆」「がんばろう」という言葉で様々な場所が埋め尽くされた。しかし、そんな綺麗事の陰には、表に出てこない様々な問題があった。

その問題は、震災が生みだしたものではない。震災前からあったものが浮き彫りになっただけだ。

だからこそこれは、被災地だけの物語ではない。現実を生きる僕らに投げかけられた、大きな大きな問いなのだ。

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