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【本】古内一絵「風の向こうへ駆け抜けろ」感想・レビュー・解説

最近「居場所」について考えてしまう。


生きるために僕たちは、色んな「場」を行き来している。職場だったり学校だったり家族だったり趣味だったりという、様々な「場」を移動しながら、毎日過ごしている。


でもその全部が「居場所」になれるわけじゃない。


どこにいても、そこを「居場所」に変えてしまえる稀有な人もいるだろうし、そこにいてもそこを「居場所」だと感じられない不幸な人もいるだろう。そこには、どんな差があるんだろうなんてことを、最近考えてしまう。
「ここに自分がいると知ってほしい」という気持ちが、「居場所」を求める背景にあるのだと思う。「能力を認められたい」とか「凄いと思われたい」という気持ちは、「競争という場」を生み出して、なかなか「居場所」にはなりにくいだろう。「私はここにいる」という、そのシンプルな認識だけを求める。ただそれだけでいられる。そういう「場」が、「居場所」になるのだろうと思う。


「居場所」を見つけられない人は、「私はここにいる」以上のことを相手に求めてしまうのかもしれない。「もっと褒められたい」「もっと好きになってもらいたい」「もっと関心を向けてもらいたい」。そういう気持ちが強ければ強いほど、自分が今いる「場」を、「居場所」と感じることは難しくなっていくのかもしれない。


「私はここにいる」と知ってもらうというのは、「あなたもそこにいる」ということをまず自分が認めることなんだろうなとも思う。自分以外の他者の存在を、「そこにいる」ということ以上に求めない。もちろん、今書いたことはあまりにも理想的すぎるだろうけど。


馬は「経済動物」と呼ばれているそうだ。勝って賞金を稼ぐための存在。そのために馬はいる。競馬の世界では、そういうものなのかもしれない。勝つための道具。どれだけの犠牲を強いても、勝てればそれでよし。馬も騎手も厩務員も、お互いに「勝つ」という期待を押し付けあう関係。彼らにとってその場は、あくまでも「仕事場」であって「居場所」である必要はないのだろう。厳しい競争の世界で生き残ってくためには、それもまた仕方ないことなのかもしれない。


芦原瑞穂は、馬と共に育った。父親は北海道の生産牧場で、生まれたばかりの仔馬を人に馴れさせる馴致という仕事をしていた。馬と共に育った少女は、元々母親がいなく、ある日突然父親が亡くなってから、叔父と共に馬と関わらない生活を続けていたが、そこは瑞穂にとっては「居場所」ではなかった。やがて彼女は、女性でも騎手になれることを知り、叔父の反対を押し切り、男でも音を上げるような厳しい訓練を経て、晴れて騎手として独り立ちすることになった。


当初は、実習でお世話になった関東の厩舎に行く予定だった瑞穂は、その配属の一ヶ月前に、広島の鈴田競馬場から声が掛かった。どんなところなのか分からなかったが、わざわざ瑞穂を指名して呼んでくれたのだ、期待して向かってみると…


緑川厩舎は、とんでもないところだった。


アル中のゲンさん、耳が遠くなっているカニ爺、恐ろしく美少年だが一言も喋ろうとしない誠、そしてこの厩舎では唯一まともな厩務員だと主張するトクさん。厩舎全体をまとめる調教師である緑川光司は、まったく何もやる気がなさそうだ。中央とは違い、地方競馬の厳しさはセンターに入所して以来散々聞かされてきたことだったが、まさかこんなところに来ることになるとは思わなかった。


「藻屑の漂流先」


後々瑞穂は、緑川厩舎がそう呼ばれていることを知る。人も馬も、藻屑のようなものばっかりがたどり着くんだそうだ。


悔しい。


瑞穂は、女だからとナメられている現状にも、鈴田競馬場を牛耳っている男の存在にも、勝てない馬ばかり揃っていることにも、そして何よりも、自分の心が折れそうになっていることにも、全部全部嫌だった。こんなはずじゃなかった。


それでも、瑞穂は諦めなかった。

『あの頃は、実力さえあればすべてがうまくいくと本気で思いこんでいたし、事実、途中まではそうだった』

光司もまた、将来を嘱望された騎手だった。しかし、「実力」だけでは乗り越えられない現実の壁に打ちひしがれ、結局父の跡を継いで、「鈴田と共に沈むために」緑川厩舎を存続させ続けている。


瑞穂には、同じ思いを味わってほしくはない。しかし、絶望的な環境でも努力し続ける姿は、昔の自分を思い起こさせる。

『期待なんて、今更、持つものじゃない。
期待さえしなければ、これ以上絶望しなくてすむ』


そんな光司もまた、瑞穂の熱量に押し出されるようにして変わろうとしていた…。


というような話です。


古内一絵、ホントいい作品を書きますね。デビュー作からすべて読んでいますけど、弱く儚く希望に満ちていない環境や人物に光を当てながら、人間が少しずつ強くなっていく過程を丁寧に描いていく、そんな印象のある作家です。


この「強くなる」というのは、「尖っていく」というのとはちょっと違う。むしろ登場人物たちは、弱い時ほど尖っているような印象がある。それは、防衛本能に近いかもしれなくて、鎧を着ているようなもので、防御しなくちゃいけないぐらい弱い。でも、彼らは次第に強くなって、尖っていた部分が丸くなっていって、鎧を脱ぎ捨てて、ありのままの自分のまま世界と対峙出来る。彼らがその強さを身につけていく過程を実に丁寧に掬い取っていく作家で、とても巧いと思う。


緑川厩舎には、心に様々なものを抱えた人間たちが集っている。ベテランの厩務員たちにも、それぞれ様々な背景があるが、厩務員の中で一番焦点が当てられるのが、美少年である誠だ。


彼が何を背負っているのか。それは是非本書を読んで欲しいのだけど、誠のあり方は、「居場所」という言葉を強く思わせる。


彼こそ、「居場所」を持つことが出来ない人間だった。どこにも自分の身の置き場がなくて、それで彼は大切なものを失ってしまう。


しかし彼は、馬の世話をすることで、少しずつ少しずつ、失ったものを取り戻そうとしていく。誠は、馬と会話が出来るのかもしれない、と思わせるほど、馬の扱いに長けている。誠が、人生で初めて見つけることが出来た居場所だ。誠にとって、馬を叩いて走らせる騎手は、ある意味で敵だ。


また、ベテラン厩務員の中にも、女に何が出来る、という考えを持っている者はいる。瑞穂はあるジョッキーから、「女のジョッキーに本気で期待する客なんていない」と吐き捨てるように言われるが、競馬会全体を見渡してもごく少数しかいない女騎手は、ただ女だというだけで謂れのない誤解や嫉妬を受ける。


そもそも瑞穂が突き進んでいるのは、そういう世界だ。瑞穂も、それについては理解しているつもりだった。しかし、思っていた以上に瑞穂にとっては辛い環境だった。それは、鈴田という地方競馬場が抱える問題、過去の出来事に絶望している光司、一人の馬主の横暴など、様々な要因が重なっている。


瑞穂には、「居場所」がない。


「勝つ」という志を同じくする同志さえ、当初は見つけられないでいる。いくら地方競馬場が疲弊していようと、「勝つ」という目標さえ共有できないとは。瑞穂は次第に、何故自分がこの競馬場に呼ばれたのかを理解するようになり、一人の騎手として認めてもらえない状況に押しつぶされそうになる。


緑川厩舎には、良い要素はほとんどないように思える。中央のような整った設備もない、勝てそうな馬もいない、騎手は経験の浅い「女」騎手だけ。そんな中、瑞穂の熱に根負けするような形で、緑川厩舎は大きく変わっていく。


その再生の過程は、まさに奇跡と言っていいだろう。

『いいか、木崎。俺たちは勝たなきゃいけないんだ。本当の競馬っていうのはな、人と馬が、一緒に生きることだ。人のためにも、馬のためにも、勝たなきゃダメだ。そのために、お前の力を生かすんだ』

かつて光司は、「人と馬が一緒に生きる」競馬を体現していたことがある。普通馬を操りたければ、鞭をウチ、ハミを動かして馬に「命令」しなくてはいけない。しかし、そうじゃない戦い方もある。人と馬が一体となって、「命令」しなくとも意志の疎通が出来るようになる戦い方が。


瑞穂はセンターでは、教科書通りの優等生的な騎乗が得意だった。しかし、そうも言っていられない馬と出会ってしまう。瑞穂もまた、その馬と出会うことで、自分の殻を無理やりにでも破らなくてはいけなかった。勝つために。すべては、馬と共に勝つために。


ストーリーは、未来が拓けているはずの主人公が、絶望的な環境に放り込まれるも、そこで絶望に屈せず、自分たちが持っている力をフルに使い果たして一発逆転を狙うという、王道的な作品です。しかしそれを、なかなか小説の題材になることが少ない競馬、しかもその「ギャンブル」の部分ではなく「競争」の部分を絶妙に切り取って描き出していくというのは見事だと思います。

僕は、競馬をしに競馬場に行ったことは一度もありませんが(競馬じゃない目的のために一度行ったことがある)、それでも本書は楽しめました。一点難しいなと思った点は、実際に馬が走るシーンが一瞬で終わってしまうということ。実際のレースも一瞬で終わってしまうものでしょうが、馬や騎手や厩務員たちの様々な努力を知った上でのレースなので、僕としてはそのレースが一瞬で終わってしまうことがちょっと残念だなという気にはなりました。

どんな風に描けばそうなるのかはわかりませんが、レースのシーンがもっと濃密で、それまでの緑川厩舎の面々の苦労が報われたな!と実感できるような描写だったらもっと良かっただろうな、という感じはしました。まあでも、それはなかなか難しいのでしょうけども。


馬という、言葉を介してコミュニケーションを取ることが出来ない存在に対峙して、人間はどう振る舞うことが出来るのか。そこに激しく、人間性が出る。鞭を使って無理やり走らせるのも一つの方法。そして、信頼を媒介にお互いを一つにしていくのも一つの方法。それぞれが、どこにも「居場所」を見い出せないでいた「落ちこぼれた」面々が、「勝利」と共に、自信を身につけ、葛藤を乗り越えていく。人生は、負けっぱなしなままではないかもしれない。そんな思いを抱かせてくれる作品だと思います。是非読んでみてください。


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