【映画】「独裁者と小さな孫」感想・レビュー・解説

神のことを考えた。
創造主というものが存在するとして、彼は人間を生み出した。その人間が、神のことで争っている。
これは、創造主の計画通りだろうか?
彼は、人間同士の醜い争いを見る。お互いに相手を罵り、相手を殺し、自らの正しさを主張する。それは、彼が作ったこの世界で起きている。
これは、創造主の計画通りだろうか?
もしこの人間同士の争いが、創造主の計画に無いものであったなら、創造主には予想もつかなかった出来事であったなら、
彼は人間同士の争いを見て、一体何を思うだろうか?

『「大統領だと分かるとどうして殺されるの?」
「敵だからだ」
「大統領は嫌われてるの?」』

独裁者は一瞬で、大統領からただの祖父へと変わった。そして、大統領だった頃とはまるで違う“現実”を見る。

生活の糧もほとんどないままなんとかその日を生き延びている床屋
検問を敷いて通行人から荷物を奪い、花嫁を犯す反乱軍
政治犯として逮捕され、革命によって釈放された男の憐れな末路

それは、大統領だった男には、存在しない“現実”だった。

『大統領の持つ力の意味を教えてやろう。見ろ、街が光り輝いているだろう。電話一本で、明かりをすべて消すことが出来る』

将来の後継者である孫に向かって、大統領はそう囁く。アイスをねだっていた幼い孫は、受話器越しに「明かりを消せ」と命令することで笑顔になる。

彼には、逃亡の意味が分かっていただろうか?

『もう大統領と呼ぶな』
『二日も経てば、マリアのことは忘れる』

かつて宮殿で、自分のおじいちゃんを“大統領”と呼ぶように教育を受けた孫。そして宮殿でいつも一緒に遊んでいたマリアと離れ離れにならなければならなかった孫。彼には、“大統領”と逃げることの意味が、分かっていただろうか?

『もうこんなゲーム、嫌だよ』

僕らは普段、価値観の激変を経験することは少ない。日常の中で日常に沿って生きていれば、価値観の激変にさらされることはほとんどない。

僕の経験の中から近いものを探すとすれば、9.11のテロと、3.11の震災だ。どちらも、自分の中の何かが静かに溶けて消えていくような、少しずつ朽ち果てて崩壊していくような、そんな不安定感を覚えた。しかしそれは、やはりテレビの向こうの出来事であり、自分のいる場所からの距離は遠かった。激変、と呼べるものではなく、静かに変化がもたらされるような感覚だった。


かつて、あるアイドル歌手が自殺した後、後追い自殺する若者が続出した。僕には彼らの気持ちは理解できないが、アイドル歌手の自殺が価値観の激変を意味していたのだろう、ということは理解できる。麻原彰晃が逮捕された時のオウム真理教信者や、ノストラダムスの大予言を信じていた人たちも、似たような激変を感じたに違いない。

たぶん僕には、その価値観の激変が自分にどう変化をもたらすか、体感できる日は来ないと思う。何故なら僕は、その価値観の激変を、常に恐れているからである。だから、物事になるべく深入りしないようにしている。常に片足は、元の居場所に残したままにしている。新しい世界が崩壊しても、元の世界にすぐに戻れるように気をつけている。

大統領は、いつかこの独裁が終わるものだと想定していただろうか?恐らくしていないだろう。していれば、逃亡に際してあれほど苦労することはなかったはずだ。

『カネを貸してくれ。政権を取り戻したら、1000倍にして返す』

政権を取り戻す可能性を信じていた大統領は、いつその希望を手放しただろうか?

『この哀れな男にどうか手を貸してくれ。孫を預かって欲しい』

もし孫を連れていなかったとしたら、大統領の行動に何か違いはあっただろうか?

大統領は、旅芸人や政治犯のフリをしながら、盗んだギターをかき鳴らす。宮殿の屋上から街の明かりを眺めていたのと同じ目で、あっさりと人が死んでいく、寂れた貧しいこの国の現実を、静かに見つめている。


革命の予感を感じて家族を国外に逃がした大統領。大統領と離れたくなかった孫と共に宮殿へと向かう途中、異変に気づく。

『独裁者には死を』

かつて街中に、そして家中に貼られていた大統領の肖像画が、燃やされている。そこここで暴動が起きている。護衛の命令に背き、公用車の進路を塞ぐ。国外へと脱出しようとする大統領一行を待ち受けていたのは、先ほど家族を送り出す時に盛大に曲を演奏していた楽器隊。彼らは、楽器の代わりに銃を持ち、大統領に盾をつく。
陸路で逃げるしかなくなった彼ら。孫が用を足している間に残っていた護衛が逃走し、大統領と孫だけになった。衣服を奪い、髪を剃り、奪ったギターで旅芸人のフリをしながら、荒野のような大地を逃げ続ける。
「あの大統領のせいで」
「見つけたら殺してやる」
そんな声を常に耳にしながら。

冒頭からしばらくの間は、価値観の激変を描き出し行く。大統領と孫にとっての現実が一気に変わるのだ。自分で尻を洗ったことのない二人は、ボロボロの服を着て、身を潜めながら逃避行を続ける。
その逃避行の最中に見たのは、この国の本当の現実だ。
大統領の現実は、その意味を伴いながら一気に襲い掛かる。大統領は、それぞれの場面でどう思っていたか、口にすることはない。それらはすべて観客に委ねられているが、僕は大統領が、「意外なものを見た」と思っているという風に受け取った。大統領にとっては、きらびやかな宮殿と最上で安定した生活は当たり前のものだった。どれぐらい独裁を続けたのかそれは分からないが、大地があれほどにやせ細るほどだとすれば相当な期間だっただろう。革命によって政権が奪われた後に大統領が見た現実は、恐らく、彼にとっては存在しない、あるはずのない光景だったに違いない。

しかし、これも僕の受け取り方だが、大統領はその現実を受け入れるようになっていく。それを一番強く感じた瞬間は、息子夫婦の死の真相を知った瞬間の振る舞いだ。彼が、自業自得だと感じていたかどうか、それは分からない。あくまでも、独裁を敷いていた自分の行いとは切り離してその現実を受け入れていたかもしれない(人間はあまりにも大きすぎる負担には耐えられないだろうから、そういう認知上の作為を無意識のようにやっていた可能性はあると思う)。しかし、この現実がまさにリアルなのだということを、大統領は少しずつ受け入れていく。

しかし、孫にとってはそうではない。
大統領は孫に、これはゲームだと伝える。孫はそれを信じたいと思っただろう。会えなくなってしまったマリアに会いたいから、あの宮殿にまた帰りたいから、大統領のゲームだという言葉を信じたいと思っただろう。
孫は、満たされた生活からの激変にも、そこまで戸惑いを表さないように僕には見えた。感情が高ぶる瞬間はあるが、全体的に、まだ年端もいかない年齢の少年にしては穏やかな有り様だった。しかしそれはきっと、これは現実ではない、と思い込めたからだろう。この薄汚い悲惨な生活は、近いうちに終わるはずだと信じていられたからだろう。

これはゲームではない。孫がそう悟った瞬間があったとすれば、あの場面だ。泣きそうな顔で、何も言ってくれない大統領を見上げていたあの瞬間だろう。あの時の孫の目は、大統領に何を訴えていただろうか。

あの、歪んだ顔で自分を見上げる孫を見て、大統領は何を思っただろう。

物語の後半で、一つの問いが提示される。

『復讐から始まった民主化に、どんな意味があるんだ』

革命が成し遂げられ、大統領が追われていることを知った人々は、大統領だった男の目の前で、大統領の処遇について話をする。(目の前にいるはずがないと思っている)大統領をただ罵倒するだけの者、見つけたら絶対に殺してやると言う者。大半はそうした負の感情に任せた感情を発露する。

『あの男と同じ人間になりたいのか?そりゃあ俺だって痛めつけたいさ。でも、痛めつけた者は、必ず復讐されるんだ』

しかし、大統領の処遇に対して、多数派に意見する者もいる。独裁政権を暴力で打ち倒したとすれば、民主化はまた遠のく。復讐の連鎖は、どこかで切らなければいけない。パリのテロの時にも、この問いは議論された。正解は、個々人で違う。だから未だに、テロがなくならない。

『そんな生き方をするなら、そもそも娼婦になんかなってない』

僕が強く感じたのは、この映画の中の現実を生きなければならないとしても、自分を見失わずに生きていたい、ということだ。集団の狂気や革命の反動なんかに踊らされずに、それまでの自分の生き方を曲げずに生きていたい。そういう国民がどれだけいるかが、国の豊かさを決めるのではないか。娼婦の生き様を見て、僕はそんなことを考えた。

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