【本】「花舞う里」「わたしを離さないで」「わが盲想」

古内一絵「花舞う里」

とある事情から東京の中学を離れ、母の故郷である名古屋の奥三河の澄川という集落に引っ越してきた潤。この土地は、長い長い伝統を持ち、日本全国でも特殊と呼ばれる形態の祭りを現代まで受け継いでいる。東京の「普通」に慣れ親しんでいた潤は、澄川の「普通」に初めは戸惑い、馴染めないでいる。
小学校と併設の澄川中学は、潤を含めて生徒は四人。大柄でムチムチした馴れ馴れしい岡崎周。小柄で常に首にタオルを巻いている、潤の面倒をよく見てくれる相川康男。そして、ショートカットで常に表情が硬い紅一点の神谷葵。彼らは、転校生である潤に殊更関心を抱くでもなく、ごく自然に潤を受け入れた。しかし潤の方は、他人を素直に受け入れる余裕はなく、特別彼らに馴染もうとするでもなく、基本的に一人でいた。潤に対して完全に無関心ではないものの、一人でいる潤が浮いてしまうでもないこの雰囲気は、正直ありがたかった。
周たちは毎日放課後何かしているようだったが、潤はその誘いを無視して家に帰った。しかし家に帰ったところで、携帯のゲームをやるか勉強するかぐらいしかやることがない。自分とどう接していいのか測りかねているような母や、久しぶりすぎてまだ馴染めていない祖母と話す気にもなれない。
バスに乗ると、出戻った母とその息子を噂する声がうんざりで、潤は山道を歩いて帰ることにした。その途中、久しぶりに過呼吸の発作に襲われる。まずい、と思った時、身体をぬくもりが包み込む。見たことのない女の子が、「大丈夫」と言いながら潤を抱きしめているのだった。
「花祭り」という実在するらしい伝統祭と、その文化を日常の延長の中で存続させている集落を中心に、傷ついた少年が自分自身を取り戻していく物語だ。

潤は、否応なしに「花祭り」に巻き込まれていく過程で、自分が澄川の地に「根っこ」を持っていることに気づくようになる。異質な場所だとばかり思っていた澄川に、潤のルーツが存在したのだ。その根っこを頼りにして、少しずつ潤は己を取り戻していく。

『大事なのは舞を残すことであって、個々の舞手の気持ちではないんだよ。きっと』

次の世代に受け継ぐことに、どんな意味があるのかはっきりとはわからない神事に関わることで、潤は、一人の個人であることから緩く解放される。土地に根付き、個人の輪郭が薄まることで、喜びも悲しみも個人のものではなくなっていく。伝統が残る土地に生まれ、伝統を受け継いでいくことが「普通」だと捉えている人との関わりの中で、潤は、自分がこれまで囚われていた「普通」から解き放たれる。

過疎が進む集落で、それでも伝統を残そうとする人たちと、伝統の継承に関わることで個を手放す生き方に足を踏み入れる少年の物語は、生まれながらの宿命への印象を、少し和らげてくれると感じた。


カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」

この物語に何らかの形で触れたことがある人は、僕がどうしてこのテーマの中にこの作品を組み込んだのか、理解してもらえるだろう。しかし、この物語に触れたことがない人に、この作品の内容を具体的に示すわけにはいかない。彼らが生まれながらに背負ったものこそ、この物語の根幹であり、それが何であるのか分からないまま読み進めることで、どこにもぶつけられない憤りや、抑えきれないやるせなさを少しずつ感じられるように構成されているからだ。

ある全寮制の施設で生まれ育った子どもたちの物語だ。彼らは、普通に遊び、普通に食べ、普通に学び、そんな風に普通に育っていく。しかし、彼らは、決して普通の子どもではない。生まれながらにして、どうしようもない宿命を背負わされている。彼らの人生には、ある大人たちの都合がつきまとう。その大人たちの都合が、彼ら子どもたちを生かしている。

彼らが生きている世界は、すべてが虚構だ。しかし彼らは、その虚構を現実として生きることを強いられる。何も知らない彼らにとって、この虚構こそが現実だ。しかし、彼らが生きている理由故に、彼らの現実は、いとも簡単に虚構へと姿を変える。ある日彼らは唐突に、自分が生きているこの現実が虚構であることを知らされるのだ。

その恐ろしさを、僕は想像することが出来なかった。誰にだって出来ないだろう。だからこそ、これだけの物語を組み上げた著者の想像力が恐ろしく感じられる。

外から見ればはっきりと虚構で、そこで生きることの辛さをまじまじと感じさせるが、内側で生きる者からすれば、他の世界を知らないが故に不幸を感じない。それは、発展途上国で貧しい生活をしている子どもたちが笑顔で走り回っている姿に近いものを感じさせる。この物語のような現実が訪れないことを、切に祈っている。


モハメド・オマル・アブディン「わが盲想」

来日するまで日本語などまったく喋れなかった盲目のスーダン人が、『自らの手で執筆した』のが本書である。と言ったら、あなたは信じるだろうか?

スーダンの大学に通っていたアブディンは、ある時、胡散臭い先輩から、胡散臭い話を耳にする。日本が鍼灸を学ぶ留学生を募集しているらしく、スーダンにもその募集が来ているというのだ。日本については何も知らなかったが、鍼灸なんていう危険な仕事を視覚障害者にやらせるのだから、日本は視覚障害者向けに色々整備されているに違いない、という希望的観測だけを頼りに応募してみた。するとスーダンからは彼一人が選ばれたのだった。

19歳の時に日本にやってきた著者にとって、日本での生活は苦難の連続だった。地獄のような熱さの「風呂」を体験させられたり、日本食が食べられるのか不安だったりしたが、最大の難関はやはり「日本語」だった。まったく日本語が喋れなかった著者は、その状態でいきなり点字を教えられる。さらに、色々あって福井の盲学校に入学することになった著者は、鍼灸の難解な専門用語と福井弁を同時に覚えなくてはならなくなった。

さらに困難だったのが「漢字」だ。目の見えないアブディンにとって、漢字の習得は不可能であるかに思えた。しかし、ある人物の工夫と熱心な指導により、アブディンは漢字さえも克服していくことになる。

こうして、来日時「靴紐を結ぶことができない」「パソコンのパの字もわからない」「日本語がまったく喋れない」状態だったアブディンは、その15年後、「この世で一番旨い食べ物は寿司」「好きな作家は夏目漱石と三浦綾子」「好きな球団は広島カープ」という、日本に完全に溶け込むスーダン人となった。そして、こうして本を出版するに至った。

その15年間の奮闘を描いたのが本書である。

盲目の外国人が、ここまで流暢に日本語を操れるものなのかと、本当に驚かされる。喋るだけならまだやれるかもしれない。しかし、漢字を含めた書き言葉さえ完全にマスターしているのだ。本書を読めば分かるが、アブディンの日本語能力は恐ろしく高い。音声読み上げソフトを駆使して自ら原稿を打っているらしいが、どうやったら外国語をこんな完璧に操ることが出来るのかまるで理解できない。

「留学」という言葉を聞いた時、とっさに「流学」だと思った、という話には驚愕する。自分がいるところから流れて学ぶのだから当然そうだろうと思ったが、それとは反対の「留」という漢字だったから怒りさえ覚えた、という話は、アブディンの漢字習得の苦労と執念を同時に知ることが出来るエピソードである。

本書は、アブディンがいかに日本語を学び、日本に溶け込み、様々な人と関わってきたのかという歴史の物語であるが、同時に、外国人から見た日本という国のあり方についても知ることが出来る一冊だ。アブディンは、「就活」という文化に恐怖し、日本人の「言論の自由への執着のなさ」に驚く。外国人でかつ盲目、さらに恐ろしく高い日本語能力を持つ著者だからこそ感じ取ることが出来る日本という国の「見え方」は、日本に生きる者にとって逆に新鮮に映る。

目が見えないというハンデを、一切感じさせないアブディンの生き様に感動させられる。もちろんアブディンは、言葉では言い尽くせないほどの苦労を重ねたことだろう。そうでなければ、日本語で日本人を笑わせるだけの言語能力を15年で獲得することは出来ないはずだ。しかしアブディンはそういう姿を見せないし、アブディンの振る舞いは底抜けに明るい。アブディンの生き様を読むと、「やれば何でも出来る」ということを信じていない僕でも、努力で乗り越えられる幅は思った以上に大きいのかもしれない、と思えてくるのだ。

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