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【本】ディヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」感想・レビュー・解説

さて、あなたは今この記事を読もうとしてくれている。どこからこの記事の存在を知ったのか、この記事のどこに惹かれたのか、それは分からない。しかし、あなたにとって一つ明確に正しいだろうことがある。それは、「あなたは、あなたが「読みたい」と思ってこの記事を読もうとしているのだ」ということだ。上司に「この記事を読んでおけ」と言われたという人もいるかもしれないが、恐らくほとんどの人は、自らの意志でこの記事を読むと決めているはずだ。

しかし、それは本当だろうか?本当に、「あなた」がそう思って決断しているのだろうか?

というような問いに対し、現在の脳科学の観点から「NO」と突きつけるのが本書である。つまり、「この記事を読む」と決めたのは、「あなた」ではないかもしれないのだ。本書に即してより正確に言えば、「あなたの意識」がそう決めたのではないかもしれないのだ。

…とまあ、ここまでの話は恐らく意味が分からないでしょう。というわけでまず、とある有名な実験を紹介しようと思います。

実験者は被験者に、好きなタイミングで手を挙げてください、と指示します。ただし、「手を挙げよう」と思った瞬間のことを記録するとします。すると、実際に手を挙げる四分の一秒前に「手を挙げよう」という衝動を自覚する、ということが分かりました。ここまでは特に不思議なことはありません。しかしこの実験では、被験者の脳波も測定していました。すると驚くべきことが判明します。被験者が「手を挙げよう」という衝動を自覚する前に脳内活動が生じることを発見したのです。

まとめましょう。つまり、被験者が「手を挙げよう」と自覚するよりも前に、脳の一部が手を挙げる決断をしていた、ということなのです。「手を挙げよう」と自覚するのは、「被験者の意識」です。ということは、それより前に手を挙げる決断をしたのは「被験者の意識」ではない何か、ということになります。

そんなアホな!と思うかもしれませんが、実はこういうことは日常の中で体験する機会があります。例えば車を運転しているとして、子どもが飛び出してきた時にブレーキを踏みますよね。この時、「ブレーキを踏まなきゃ」と意識してからブレーキを踏んでいたら恐らく間に合わないでしょう。僕らの意識が「ブレーキを踏まなきゃ」と思う以前に、ブレーキを踏むという決断をする「何か」がいるから、僕らは子どもを轢かずに済むわけです。

本書ではその「何か」のことを「意識以外のもの」と呼んでいます。そして、本書で明らかにされることは、「意識」というのは脳の活動全体の中でほんのちっぽけな存在でしかなく、「意識」は「意識以外のもの」が何をしているのか、ほとんど何も知ることが出来ない、ということなのです。

これは、脳全体を大きなホテルに例えると捉えやすいかもしれません。ホテルの中で僕らは、自分が取った部屋や、ロビー・トイレ・レストランなどの共有部分を使用することが出来ます。こういう部分が、脳の中の「意識」に当たります。しかし僕らは、ホテルに泊まっても、自分の部屋以外の客室は使えませんし、そこで何が起こっているのかは分かりません。これらが「意識以外のもの」に相当する、というわけです。イメージ出来るでしょうか?

脳の研究で分かってきたことは、多くの事柄を「意識以外のもの」に任せた方がうまくいく、ということです。

『あなたの内面で起こることのほとんどがあなたの意識の支配下にはない。そして実際のところ、そのほうが良いのだ。意識は手柄をほしいままにできるが、脳のなかで始動する意思決定に関しては、大部分を傍観しているのがベストだ。わかっていない細かいことに意識が干渉すると、活動の効率が落ちる。ピアノの鍵盤のどこに指が跳ぼうとしているのか、じっくり考え始めると、曲をうまく弾けなくなってしまう』

このことと対比させる例として、本書では人工知能の話が少し登場します。人工知能の研究は、様々な部分で困難さがつきまとうでしょうが、その一つに、人間が意識しなくてもできるとても簡単なこと、たとえば「カフェテリアがどこにあるか思い出す」「小さな二つの足で丈のある体のバランスをとる」「友達を見分ける」というようなことを実行することが極めて難しいと分かってきたということがあるようです。人間は意識しなくてもこれらのことを簡単に行えます。しかし何故簡単に出来るかといえば、「意識以外のもの」がそれらを自動的に行えるよう複雑なプログラムを組み上げてくれているからなわけです。「意識」はそのプログラムの詳細は知りません。知ろうとして「意識」すると、逆にうまくいかなってしまいます。例えば、自転車に乗るには最初かなり練習が必要ですが、慣れれば自分がどんな風に身体を動かしているのか意識しなくても自転車に乗れます。というか、「どうやって自転車に乗っているのか」を意識し始めるとむしろうまく出来なくなってしまうでしょう。それは、「意識以外のもの」が、自転車に乗るという複雑なプログラムを自動化出来たということになるわけです。

この話の極めつけは、ヒヨコの雌雄鑑別の話でしょう。ヒヨコの雌雄鑑別に関しては、日本人が「肛門鑑別法」という手法を開発し、世界中がその技法を学びました。しかし、不思議なことに、この「肛門鑑別法」を教えられる人物というのは存在しないようです。プロの雌雄鑑別士は、自分が何を手がかりに雄雌を判断しているのか、伝えられないと言います。じゃあどうやって教えるのかと言えば、実習生の横にプロの鑑別士が立ち、実習生に実際に雌雄鑑別をやらせるのです。その判断をチェックして、正解かどうか判断する、ということを繰り返すと、実習生は次第に雌雄鑑別が出来るようになる、というのです。この話も、「意識」では捉えられない何かを「意識以外のもの」が自動化して取り込んでいる、と解釈する以外にないだろうと思います。

自分の言動が実は「意識以外のもの」に支配されているのだ、と考えることはなんとなく気持ち悪いことですが、現にそうなのだから仕方ありません。本書は、人間の「自由意志」について深く考えさせられます。また本書の後半では「犯罪者」について話が展開されていきますが、この議論もまた難しいものです。著者は、「人間の言動のほとんどは「意識以外のもの」に支配されているのだから、犯罪はどれも脳の異常と捉えるべきだ」という主張を繰り広げていきます。賛否両論あるでしょうが、確かに本書を読むと、「社会の中で犯罪者をどう扱うべきか」について再考の余地があるかもしれない、と考えさせられます。

著者は、「人間には自由意志の選択などなく、言動は配られた持ち札の発露に過ぎない」と考えているようで、その捉え方は一面では哀しい気もします。しかし一方で、人間が人間らしく生きるためには、「意識」が関わる領域を減らし「意識以外のもの」に多くを託すべきなのだ、という理解は非常に重要になってくるだろうとも感じます。脳はまだまだ未知の領域ですが、少なくとも現段階でも、その奥深さの一端を知ることが出来るという意味で、本書は非常に面白い読み物だと思います。


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