【映画】「聖の青春」感想・レビュー・解説
勝たなければ、死ねない。
僕には、そんな衝動は、ない。
『お前のどこが、命かけてたんじゃ!負け犬の遠吠えじゃあ!スッカスカの人生じゃ!』
負けて奨励会を去ることになり、吹っ切れたような清々しさを見せる友人に、村山はそんな風に突っかかる。
そんな怒りは、僕の中からは湧き出てこない。
『あなたに負けて、死にたいほど悔しい』
村山との対局で敗れた羽生善治が、村山にそう語る。
僕は、その気持ちには追い付けない。
<なぜ生きるのか?>
この映画は、全編でそう訴えかける。
この問いに囚われずに生きてこられた人は、幸せな人だろう。いじめられたり、仕事が辛くなったり、病気になったり。そういうしんどい場面で、人は<なぜ生きるのか?>と問うのだろうと思う。
村山聖は、幼い頃からその問いを抱き続けてきた。いや、違うか。彼は幼いころから、その問いに対する答えを、ずっと抱き続けてきたのだ。
将棋で勝つこと。
彼は、人生のあらゆる選択を、その目標のために選び取る。重篤な病気を抱えながら、「将棋弱くなりたくないんで、麻酔しないなら手術受けます」と言ってのけるこの男には、長く生きたいというような生の欲求はない。
『大丈夫ですよ。人間誰でもいつかは死にます。そんなことより僕たちが今考えなきゃいけないのは、目の前の一手です』
羽生善治でさえ連敗することがあり、西の怪童とも呼ばれたほどの圧倒的な強さを誇りながら、29歳という若さでこの世を去った天才棋士のをモデルにした物語だ。
羽生善治が、史上初の7冠を達成した頃、村山は大阪にいた。ネフローゼという重い病気を抱えながら、日々対局に勤しむ日々。羽生との対局で高熱を出した村山は、ある決断をする。
東京に行く。東京に行って、羽生の近くで将棋を指す。
身体はボロボロ。体調が良い日なんてない。対局中に具合が悪くなり、不戦敗を選ばざるを得ないこともあった。
それでも村山は、将棋を指し続けた。羽生善治に勝って、名人位を奪取するために。
映画を見ながら感じていたことは、この映画は「物語」だな、ということだ。それは、映画の最後にも表示された。この映画は、「聖の青春」をモチーフにしたフィクションであり、事実と異なる箇所があります、と。
そういう意味で、どうしても弱さのある映画だな、と感じてしまった。
これは、僕が原作を読んでいるからだろうとは思う。
「聖の青春」という原作は、これまで僕が読んできたノンフィクションの中でもトップクラスに心を動かされた作品だ。村山聖という人間が放つ魅力、師匠の献身的な支え、「聖の青春」の著者である大崎善生の村山を見る眼差し。そういうものすべてをひっくるめて、一人の人物と、将棋界という魔窟を描き出した、絶品のノンフィクションである。
原作があまりにも強いからこそ、この原作をベースにした「物語」が弱くなってしまうのは、ある程度は仕方ないだろう。恐らく、映画から見て原作を読む人は、とても良いだろうと思う。映画は映画で「物語」としてはなかなかよく出来ている。特に、村山と羽生の対極の場面の臨場感は、実際の将棋の対局を見たことがないにも関わらず、非常にリアルだと感じた。村山にも羽生にも、人間的魅力が溢れている。この映画を見て、原作に興味を持つ人が増えるのであれば、それはとても嬉しいことだ。
『将棋は殺し合いじゃろうが。
将棋指しの人生は、それがすべてじゃろうが』
村山の日常からはあまり窺えないが、村山は常にこういう意識を持って将棋を指している。
『「みんな勝ちたいと思ってる」
「思うだけだったらバカでも出来ます。そのために何が出来るのかを、考えて行動出来るかどうかです」』
村山には、ひりつくような熱が常に宿っている。
『僕たちは、どうして将棋を選んだんでしょうね?』
村山は、羽生にそう問いかける。
村山は、抑えようのない衝動に囚われながら生きる。自分を捉えて離さないその衝動に全力で立ち向かいながら、高みを目指していく。
『時々怖くなることがあるんですよね。深く潜りすぎて戻ってこれなくなるんじゃないかって。でも村山さんとなら一緒にいけるかもしれない。いつか一緒に行きましょう』
二人の天才が出会い、ぶつかり、誰も到達していない高みを目指す。凡人にはその高みの一端すら窺うことが出来ない。そんな二人の闘いと、村山という短い生涯を駆け抜けた男の生涯を描く映画である。
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