【映画】「凶悪」感想・レビュー・解説

元々僕は、本書の原作を読んでいました(原作の感想はこちら)。僕は、事件モノのノンフィクションをそこそこ読んでいる人間ですが、この映画の原作である「凶悪」は、とにかく凄まじいノンフィクションで、読んだ時に衝撃を受けた記憶があります。

ざっと、どんな経緯を辿ったのか書いてみます。

「新潮45」という雑誌のある記者が、死刑囚からの手紙を受け取るところから始まる。死刑囚に会って話を聞くと、シャバに殺してやりたいほど憎い奴がいる、そいつを逮捕してほしい、と訴えます。死刑囚はその男を「先生」と呼んで慕っており、自身が捕まるまでは、「先生」の指示で様々な殺人事件に手を染め、大金を得ていたのです。

死刑囚は、誰にも話していない3件の事件について記者に語ります。それらはすべて「先生」の指示で行われたものでした。

しかし、記者は非常に困難な取材に立ち向かわなければならないことになる。まず、死刑囚の記憶が非常に曖昧で、当時のことをほとんど正確に覚えていない。さらに、「新潮45」の編集長から、記事にならないから取材を止めるよう言われる。それでも記者は執念の取材を続け…

というような展開です。一応、どんな結末に落ち着くのかは書かないでおきましょう。

さて、まず映画と原作の関係を僕なりに捉えると、「映画と原作でひとまとまり」という印象を受けました。原作は、基本的に「記者がいかにして取材を続け、「先生」を追いつめていくか」という部分に焦点が当てられていきます。実際、「先生」や死刑囚がその当時どんなことをしたのかは、正確にはわからないわけですから、「ノンフィクション」と銘打った作品として出版するには、記者側の話を書くのが当然でしょう。

一方で映画は、冒頭で「この映画は事実を元にしたフィクションです」と表示されました。そして映画では、「先生」と死刑囚がいかにして極悪非道な殺人をこなしていったのか、という部分が強く描かれていきます。まさにこの部分は「フィクション」でしょう。「先生」は当時のことをほとんど証言していないだろうし、死刑囚は記憶があやふやです。「フィクションだ」と銘打つことで、本書は「先生」と死刑囚が行った極悪非道な犯罪をメインで描くことが出来たと思います。


原作では記者側の物語が、そして映画では「先生」と死刑囚側の物語がメインで描かれていく。そういう意味でこの両者は「ひとまとまり」だなと感じました。原作が存在する映画をあまり観たことはないのですが(というか、そもそも映画をあまり観ていないのだけど)、僕の勝手な印象では、原作をただ縮めたような映画や、原作をまるっきり作り変えてしまうような映画も多いだろうと思います。そう考えるとこの映画は、原作と非常に良い関係を築く作品だなと思いました。

僕は映画を観ながら、あらゆる場面で「正義とは何か?」と問われ続けているように感じました。そしてそれは、「記者側」と「被害者側」から描かれていきます。もちろん、「先生」や死刑囚の悪逆な犯罪も、「反面教師的」に「正義とは何か?」と問いかけてはくるのですが、あまりにも彼らの行状が酷すぎて、彼らの描かれ方から届く「正義とは何か?」という問いは、そこまでの強さを持ちえません。そうではなく、「ジャーナリズムはどうあるべきか?」という問いと、「家族とはどうあるべきか?」という問いが、「記者側」「被害者側」の両面から炙り出され、それが「正義とは何か?」という大きな問いへと収斂していくように感じました。


映画では、記者の家族のある設定が与えられています。それはここでは書きませんが、その設定が記者に「ジャーナリストとは何か?」「家族とは何か?」という鋭い問いを突きつけ続けることになる。

そしてそれは、記者と記者の妻との「かみ合わない会話」から表出してきます。映画の中で描かれる記者は、「記者」として存在している時は、その場に「記者らしく」溶け込んでいると感じる。しかし、「夫」として存在している時は、その場に「夫らしく」溶け込むことはない。家庭での描写が描かれる度に、非常に強い違和感を覚えた。

正しさの軸がどこにあるのか。それが、記者と妻の間で全く共有されていない。記者の「正しさ」も、妻の「正しさ」も、どちらも正しく映る。別に、どちらかが間違っているわけではないだろうと思う。しかし、両者の「正しさ」は一向に交わることがない。別のものを見ている。観ている人は、きっとどちらかには共感することでしょう(個人的には、妻の方に共感する人の方が多いだろうと思いますが)。けれども、両方に共感できる人は、ほとんどいないだろうと思います。

「私は生きてるんだよ」

そう妻がこぼすシーンは、「ジャーナリストとは何か?」「家族とは何か?」という問いの、一つの答だっただろうと思います。

記者は、家庭と離れた場でも、「ジャーナリストとは何か?」という問いを突きつけられ続けることになる。ある被害者のお宅を尋ねた際、記者は『他のマスコミと何が違うんですか?』と問いかけられる。また、ある場面で記者は『ジャーナリストですか』と吐き捨てるように呟く。記者が「ジャーナリスト」というものをどう捉えているのか、それは言葉の隙間から時折こぼれ落ちるのだけれど、定まった何かがあるわけではなく、映画全編を通じて僕は、記者の「ジャーナリスト」というものの捉え方が揺れ続けていて、その様を活写しているように感じられました。

さて一方で、「被害者側」からはどんな風に「正義とは何か?」という問いがなされるのか。

ここでの一番の軸は「家族」です。この映画では、「先生」や死刑囚の極悪非道な犯罪が描かれるのだけど、その背景には家族の悲哀が横たわっている。世の中には、様々な「家族の形」があり、「家族の問題」があり、それらは多様化しあらゆる形で顕在化し、社会に蔓延している。そしてそれらをうまく「利用」して、「先生」や死刑囚は金を儲ける。「先生」や死刑囚を断罪するのは簡単だ。しかし、それだけで何かが変わるわけではない。根本として「家族の問題」が横たわっている以上、いくら「先生」や死刑囚を排除したところで、第二第三の「先生」が現れるだけだ。この映画では、そういう主張も扱われているように感じた。

誰のセリフかは書かないけど、

「自分だけはそんな人間じゃないと思ってたんだけどね」

という一言は、「家族とは何か?」という問いを強制的に収斂させる強烈な一言だったと思う。その一方で、「弱者」として被害者が描かれることで、「ジャーナリストとは何か?」という問いも突きつけていくことになる。

「正しさ」は、無限に存在する。僕たちは、そのことを意識的にせよ無意識的にせよ、きちんと理解しているはずだ。しかし、そう思いたくない、正しさは一つだと信じたい、というバイアスが、多くの人を思考停止に追い込んでいく。それは「亀裂」や「軋轢」を生み出し、それらを「先生」や死刑囚のような人間が押し広げていく。


「先生」の最後の言葉は、実に印象的だった。記者にそう伝えることで、「先生」は「記者の正しさの脆さ」を指摘した。記者は、妻からの追及には自覚的に「思考停止」を選択したはずだから、妻がいくら記者を糾弾しようとも記者の内側には入り込まなかっただろう。しかし、「先生」の最後の言葉は、記者自身が取材によって深く入り込んでいる世界の、まさに底の底から放たれた一言であって、それは記者にとっては強烈な一撃だったのではないかと思う。別に僕は、記者の「正しさ」を責めたいわけではない。しかし、その「脆さ」を認識できていなかったことは、確かに自覚的であるべきかもしれない、と感じました。

「正義とは何か?」 これはジャーナリストだけではなく、情報の受け手である僕ら自身こそが自らに問いかけ続けるべきなのかもしれない。そんなことを感じました。

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