【映画】「写真の女」感想・レビュー・解説

なんとなく予想していた感じよりずっと面白くて、びっくりした。

【他人の目に映る私が本当の私なんです】

このセリフが、この映画の本質そのものだなぁ、という感じがする。この物語では、別々の形で「写真に写る自分」に囚われている女性が登場し、写真を通して「本当の私って何?」という問いを突き詰めていく。

一方の女性は前述の通り、誰かの目に映る私が本当の私であり、それ以上の意味での「本当の私」は存在しない、と考えている。もう一方の女性は、「本当の私」というものが先にあり、その姿が写真として写されるべきではないか、と考えている。両者は、それぞれの立場を堅持して、それぞれの選択をしていくことになる。

僕自身の感覚としても、誰かの目に映る自分が本当の自分、という感覚が近い。

以前、言語学絡みで面白い話を本で読んだ記憶がある。モノの名称はどのように生まれうるか、という話だ。

例えば、言語というものが生まれたばかりという、遠い遠い昔の時代にさかのぼってみよう。その時代にはまだ、世の中に存在するほとんどのものに名前がつけられていない。言語が生まれた当初の状況というのはまさにそうだろう。そこから、徐々に言葉が増えていき、僕らは世の中の様々なものに名前がついた世の中を生きている。

さて、言語が誕生した当初、目の前に一匹の動物がいるとしよう。この動物にはまだ名前がつけられていない。しかし、この一匹しかいない場合、名前をつける必要があるだろうか?誰かとコミュニケーションをする場合は、「あれ」とか「そこにいるやつ」と呼べば十分だ。

ではどういう時に名前をつける動機が生まれるのか。それは、違う種類の動物が現れた時だ。そうなると、区別する必要性が生じる。だから、コミュニケーションに支障をきたさないように、一方を「猫」、もう一方を「犬」と呼ぶことにしよう、などと取り決めがなされる。このタイミングで、モノの名称というのは生まれるのだ。

同じように、人間がたった一人だけいるとしよう。この場合、「本当の私」など考える余地があるだろうか?本当も何も、自分の存在と区別しなければならない他者がいない。もちろん、目の前に犬がいれば、犬と私の違いを考えることはできる。しかしそれは、「本当の私」という問いから離れるだろう。やはり、人間がせめてもう一人ぐらいいないと、「あの人と比べて、私という存在は一体なんなのだろう?」という思考は生まれ得ないし、となればやはり、他者の存在があって初めて自分の存在を意識することができる、と言えるだろうと思う。

また、別の問題もある。これも言語の分野のもので、僕が好きな話だ。

フランス語では、蝶々のことを「パピヨン」と呼ぶ。しかし、蛾も同じく「パピヨン」であるらしい。この事実だけから考えれば、フランス人は蝶々と蛾を同じものだと認識していることになる。日本人の感覚としては、ちょっと受け入れがたいのではないだろうか。

この話から何が言いたいのか。つまり、「私」というのはどこが境界線なのか、という問題があると僕は思うのだ。例えば、着ている服は「私」に含まれるのか。働いている会社、よく遊んでいる友達、体内にいる虫歯菌や大腸菌、これらは「私」に含まれるだろうか?

こんな風に考えていくと、「本当の私って何?」という問いそのものが成り立ちにくい、ということが分かってくる。

こういう話はやりすぎるとドツボにはまるのでこれぐらいにするが、そういうややこしい問いを、この映画では「写真」という切り口で、しかも分かりやすい対立軸を作って、シンプルに提示している。「写真」というのは「真実を写す」と書くが、「真実が写る」のか「写ったものが真実」なのかは字面だけからは分からない。というか、「写真」という言葉が生まれた時点では前者の意味だったはずだが、写真の修正技術などが登場することで、後者の意味も帯びざるを得なくなった、ということだろう。

【自分を見てもらうためには、彼らが求める誰かにならないと】

本当の私が写真に写ると考えている女性は、そう信じてネット上での活動を続けてきたものの、厳しい現実に直面している。彼女は、少なくとも彼女自身の自覚では偽りのない本当の自分をネットにアップしている。しかし、その「本当の自分」が、「彼らが求める誰か」ではない場合、本当であるかどうかに意味が無くなってしまう。

【あなたはもう、ホンモノでもニセモノでもいられない】

写真の修正技術とSNSが無ければ、直面する必要の無かった難しい問いを、今我々は正面から受け止めている。それが本物でも、たくさんの人に知られなければホンモノにはなれないし、それが偽物でも、たくさんの人から(あるいは特定の大事な人から)受け入れられればそれはニセモノではなくなる。

私の輪郭は他人が決める。時に、一度も会ったことのない、私の人生には本来的には無関係な他人が決める。そういう現実を、ほとんど現代っぽさのない設定で、この映画は描き出していく。

内容に入ろうと思います。
創業から50年ほど経つ父が興した写真屋を継ぎ、日々黙々と依頼をこなす写真店店主。客と会話せず、カマキリを飼い、昆虫を撮影するために山に向かうという、人間との関わりがほとんどない生活をしている。普段は、近くの葬儀屋の男からの遺影などの依頼をこなしているが、飛び込みの客も来る。その日も、お見合い写真を撮ってほしいと女性がやってきた。彼女は、撮影済みの写真にレタッチ(修正)依頼を多数指示し、ほとんど原型を留めないような写真に仕上げて渡す。
昆虫撮影に山に入った日、店主は山奥で、水着のような格好をした女性と出会う。彼女は、SNS用の写真撮影をしていたようだが、崖から転落して胸の上部をざっくり切ってしまっていた。彼女を車に載せて薬局まで向かい、その後彼女は何故か写真店に住み着くようになる。一日一枚写真をアップしている女性は、SNS用に撮った写真の胸の傷の修正を店主に頼むが、お見合い写真のさらなる修正を求めて来店した女性と「写真に写る自分」についての論争を繰り広げることで、バレリーナとして脚光を浴びていた過去と現在を比較して悲嘆するようになっていく…
というような話です。

全体的な感想は「なんか変な映画だな」という感じなのだけど、なんか見ちゃうというか、惹き込まれてしまう感があって、観終わった感想は良い。あまり意識はしてなかったけど(映画を観る前に公式HPはチラ見してるから視界には入ってたけど)、16もの賞を獲っている、映画祭などでは高く評価されている作品のようだ。

正直、公式HPに書いてある内容紹介のような風には受け取らなかった。とりあえず内容紹介をコピペしてみる。

【時が止まったような父の残した写真館で、レタッチ(写真の加工修正)を行う女性恐怖症の男・械(50)は、ある日、体に傷がある女キョウコと出会う。械はキョウコに頼まれ、画像処理によって傷のない美しい姿を生み出す。その姿に魅了されるキョウコであったが、心の奥底で、自分の存在が揺らぎ始める。理想の自分と現実の自分、二つの自分の溝に落ちたキョウコは、精神的混乱に陥ってゆく。やがて、完全に自分を喪失するキョウコ。もはや、自分だけがキョウコを救うことができると感じた械は、死を覚悟して、女を愛する決意をする。】

特に、最後の「もはや、自分だけがキョウコを救うことができると感じた械は、死を覚悟して、女を愛する決意をする。」というのは、そうかそういう話だったのか、と感じたくらいだ。正直僕はこの映画を「愛」というような観点からは捉えてなくて、二人が出会うことで、お互いに足りないものの存在に気づけた、というような感じだと思った。まあそれを「愛」と呼ぶのかもしれないけど。

店主は、理由こそよく分からないものの、人間を(内容紹介によれば「女性を」)遠ざけている。昆虫に関心を持っていることから考えて、「人間の存在なんか不要だ」というような感覚なんじゃないかと感じる。特別な必要性を感じない、という感じ。だけど女性と出会うことで、自分という存在が生きていくために他者の存在が必要なのだ、という気づきを得たと思う。

一方女性は、バレリーナだった時代にはSNSで多くの評価を得られていたのに、その肩書を失った今となってはぽつりぽつりと評価をもらえる程度になってしまっている。彼女自身は、自分自身の存在そのものはバレリーナ時代も今も変わっていないと思っているはずなのだけど、周りからの評価というのは否応無しに変わってしまう。そして彼女は、その変化をなかなか受け入れられずにいる。そんな時に出会った店主は、最初から女性のことを全然評価しない。喋りもしないし、優しく受け入れるような素振りもない。ある意味で彼女にとってその態度は、落ち続けているのが当たり前だったSNSでの評価と比較して、もうこれ以上落ちようがない評価として、気が楽だったという部分もあるかもしれないと思う。他にもきっかけはあるものの、女性は店主と出会うことで、ある種の安定と、進むべき方向性を見出すことが出来たんだろうな、と思う。

確かに、その状態では終わらなくて、最後お互いの揺らぎみたいなものが共鳴して狂気を孕んでいく感じになるのだけど、なんとなく僕の中では、「愛」って呼ぶのは違うんじゃないかなぁ、という感覚がある。

店主も女性も、割と行動原理が掴めない感じがあって、物語がどう展開していくのか分からない不安定さみたいなものが最後の最後まで続くので、それもあって、惹き込まれて見てしまうという部分もあるな、と思う。

あと、内容そのものではないんだけど、この映画は何故か、環境音みたいなのがメチャクチャ大きい。水を流す音、カマキリの咀嚼音、カエルや鈴虫の声など、とにかく環境音がメチャクチャ強調される。どんな意図があるのか僕にはよく分からなかったけど、面白いと言えば面白いと思った。気にはなるけど不快ではない。狙っていったわけではないんだけど、映画を見た後で舞台挨拶があったから、そこで環境音の強調の話が出るかと思ったけど、そんなこともなかった。なんだったんだろう?

サポートいただけると励みになります!