【映画】「生理ちゃん」感想・レビュー・解説
もちろん、理解には遠く及ばない。
でも。
理解できたような気になれる映画でした。
…なんて言ったら、女性に怒られるだろうか???
この映画の面白さは、「生理」という現象に、殊更に焦点が当たっていない、という点だ。
いや、ンなわけないだろう、と思うかもしれないが、僕はそう感じた。その理由は2つある。
一つは、「生理ちゃん」という、明らかに映像の中にそぐわないキャラクターの存在だ。ブサイクな着ぐるみである生理ちゃんは、明らかに違和感のある存在だ。そして、その違和感があまりにも強いからこそ、「生理」という現象そのものにはあまり目線がいかない。
生理ちゃんという、明らかにリアルさを欠く存在を当たり前のように配することで、生理ちゃんという存在への違和感を高め、そのことで、「生理」という現象に焦点が当たりすぎることを回避出来ているように僕には感じられた。
これはつまり、「生理」という現象が劇中でどんな風に登場しようと、どんな扱われ方をしようと、それは、「生理ちゃん」というキャラクターへの違和感に吸収されてしまう、ということだ。この点は、観ていて、非常に面白い工夫だな、と感じた。
もう一つの理由は、これは勝手な邪推でしかないが、制作側の意図として、「生理」という現象に焦点を当てすぎないようにしているような雰囲気を感じたことだ。
これは、僕が男だからかもしれないが、「生理」と聞いてステレオタイプ的にイメージするものはある。「初潮」だったり「プールを休む」だったり「赤飯」だったりと、やはり思春期に絡むものが多い。もちろんこの映画にも、そういう場面は出てくる。しかし、この映画では、「生理というものは、男がステレオタイプ的に想像する、ある時期の特殊な事例ではなく、日常そのものなのだ」ということをハッキリ打ち出そうとしている、という風に僕には感じられた。
だから、女性からすればもしかしたら随所に共感ポイントはあるのかもしれないが、男の僕からすれば、生理ちゃんが画面上に存在しているのに、生理そのものとはあまり関係ないような場面だな、と感じることが結構あった。そして、そう感じる経験を何度かすることで、「あぁなるほど、これが女性の日常なのか」と、なんとなく理解できた気になれた、ということである。
男からすると、女性の「生理」というのは、どこまで触れていいものか、なかなか難しい。
かなり前の話だが、職場でこんなことがあった。勤務中の女性スタッフが、体調が悪くて、グタっとしてしまっていた。正直僕は、その女性から、自分は生理が重い、という話を聞いていたので、たぶん生理なんだろうな、と思った。けど、そう思ったところで、どう行動するのが正解なのか?
ということを考える時に、思い出す話がある。テレビや雑誌などで、「男にされて気持ち悪かった行為」などが話題になることがあるが、その際に、「ストッキングが破れていることを男に指摘されること」というのが挙がる。もちろん、「そんなこと男の人に指摘されたくない」という気持ちは分かる。けど、たとえばその破れている箇所が、女性の視界には入らない場所だとしたら、「気づいてないかもしれないな」と思ってしまう。ただやはり、女性としては、「ンなことわざわざ言ってくれるな男たちよ」ということなのだろう。
と考えると、生理も同じだろう、と思ってしまう。というか、生理ならなおさらだろう。男は黙っとけ、という話である。ただ、生理じゃないかもしれないのだ。生理以外の体調不良かもしれない。それを外野が判断する術はないんだからほっとけ、というのが正解なのかもしれないが、個人的には難しいなぁ、と感じる。
というようなことを、その当時感じた。
最近、そんなことを思うことはない。というのも、「生理だろうな」と感じることが日常でないからだ。良い薬が出来ているのか、あるいは、女性が踏ん張って我慢しているのかは分からないが、女性たちは日々、そんなことを感じさせないような振る舞いである。
劇中では、特に二階堂ふみが、生理の重さを様々な表現で表す。生理ちゃんをおんぶしたり、リアカーで引っ張ったりといった形で、生理のしんどさを視覚的に伝えてくれる。男の僕からすれば、周りにいる女性たちが、毎月ああいうしんどさを乗り越えているんだとするなら、いやホント凄いよ、という感じだ。女性からすれば嬉しくないかもしれないが、やはり、身体的なハンデがある以上、女性はもっと優遇されてもいいんじゃないか、と思うんだけどな。
内容に入ろうと思います。
この物語では、「生理ちゃん」に捕まってしまう3人の女性を中心に、物語が進んでいく。
米田青子は、女性ファッション誌の編集部で働くバリキャリ女子だ。日々仕事に追われ、恋人との予定もキャンセルしがち。しかも、生理がなかなか重く、その期間は、自分の意志ではどうにもならないぐらい気力が奪われてしまう。それでも、仕事に恋にと毎日を全力で生きている。恋人である久保は、妻を亡くしており、一人娘・かりんと2人暮らし。かりんとの距離を詰められず、悩む日々である。
山本りほは、青子が働く編集部で清掃のバイトをしている。実家ぐらし、彼氏がいたことはない、自室で一人レトロゲームをプレイするのが趣味である。自分のことを「サブカルクソ女」と言ってしまうくらいには、こじらせている。彼女もなかなか生理が重いが、自分は一生一人だし、私のところになんて来たってマジで意味ないよと、生理ちゃんを諭す場面もある。しかし、あるひょんなことから、なれると思ってなかった人生の「主役」に躍り出る感じになったが…。
米田ひかるは、青子の妹で受験生。彼氏がいて、自室で一緒に勉強する仲だが、その彼氏の方に「性欲くん」がやってきたりして、「生理ちゃん」vs「性欲くん」みたいになったりする。
この3人の物語を中心にして、「生理ちゃん」が日常に存在する世界を描き出す物語です。
個人的には、すげぇ面白かったです。冒頭で書いた、「生理という現象に焦点が当たっていない」という、映画全体の構造みたいなものも凄く良かったんだけど、僕が何よりも一番好きなのは、掃除婦である山本だなぁ。自分でも自覚してるけど、割と、サブカルクソ女が好きなので(笑)、山本の話はすげぇ好きでした。いいなぁ、ああいう感じ。まあこういうことを言うと、色々反感を買うのは分かってて言うんだけど。別に全然バカにしてるつもりはなくて、ホントに、山本みたいな感じ、結構好きなんです。
山本の存在は、「生理」という現象に焦点が当たりすぎないこの映画において、非常に重要な役割を担っているとも言えます。青子やひかるは、「仕事」や「恋愛」という局面において、生理が邪魔をしてくる、というような描かれ方をする存在として登場します。仕事や恋愛という日常の場面において、生理というものがどう絡んでくるか、ということが描かれるんで、ある意味でストレートな描写を担っていると言えるでしょう。
しかし一方で、山本にとって「生理」は2人とちょっと違った意味合いを持ちます。青子やひかるは、明確には描かれませんが、「いずれ結婚して子どもを産む」という未来の可能性を保持しているからこそ、「生理ちゃん」を殊更に邪険に出来ない。しんどい、とは感じていても、仕方ないと諦めてもいる。自分が女性としてこれから生きていく以上、付き合っていくしかない、という感覚は持っているだろうと感じる。
しかし、山本は違う。彼女は、恋愛や結婚といったものを未来に想定していない。「望んでいるのに諦めている」のか「そもそも望んでいない」のか、あるいは「嫌悪しているのか」ということは、はっきりとは分からないにせよ、とにかく、そういう選択肢が自分の未来に存在するということを想定していない。
そして、そうであればあるほど、「生理」の存在は、憎悪の対象でしかないだろう。彼女は心底、自分には「準備」する必要などない、と感じているのだ。それなのに、「準備に必要なんで」と毎月痛みと共にやってくる「生理ちゃん」には、怒りしかないだろう。
そういう、山本と生理ちゃんの関係性、という意味でも、山本の物語を面白いと感じた。山本の物語がどう展開していくかはここでは触れないが、いや、ホントにいいぞ。
しかしこの映画、役者の感情が大きく発露されるシリアスな場面であっても、「生理ちゃん」という、リアルさをなぎ倒す違和感を備えた存在が画面に映ることで、一気にシュールさを伴うことになる。このアンバランスさも、僕は結構好きだな、と思う。役者が、感情を大きく揺さぶられれば揺さぶられるほど、「生理ちゃん」の存在感と相まって、どういう感情で場面を見届ければいいのか分からない複雑な気分になる。ある種、観客を置いてけぼりにするかのような演出だけど、なんか奇妙な心地よさみたいなものがあるんだよなぁ。評価が分かれる表現かもだけど、僕は面白いと思いました。
あと、「生理」という現象に、「生理ちゃん」という人格を与えたことで生まれた、「あぁなるほど、そんなこと考えたこともなかった」と感じるセリフがあったので書いておこう。
【生理ちゃんも辛くない?来るたびみんなに嫌な顔されて。それって、辛くない?】
これは、「生理ちゃん」という形で人格を与えることでしか生まれなかった見方なんじゃないか、と感じました。もちろん、女性からすれば、そんな”生理側”のことなんて考えてる場合じゃないわ、って感じかもしれないけど、僕はこのセリフを聞いた時、おぉなるほどなぁ、と感じました。
賛否色々出そうな映画ですが、僕は結構好きでした。僕は男一人で見に行きましたけど、やっぱり映画館は、女性かカップルばっかりでしたね。でも、男性も観た方がいいと思いますよ。
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