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【本】カレー沢薫「負ける技術」感想・レビュー・解説

『だが、実は私がより重要視している「負ける技術」とは、「俺は負け組です」と表明して他者にナメられるという術ではなく、「俺は負け組なんだ」と自分を納得させる処世術のことである。


100点が99点になる日におびえて暮らすよりは、「俺の人生良くて30点」と割りきってしまったほうが良い。絶望が一転希望に変わることはまれだが、希望が一瞬で絶望に変わることはままある。ならば最初から、「ちょっと絶望」ぐらいの位置にいたほうが気が楽ではないか』

大いに共感である。自分が書いているんじゃないかと錯覚さえ出来るほどの共感ぶりである。


僕も、こんな生き方を実践してきた人間だ。このブログで何度も書いているから、あまり深くは書かないけど、二年終了時まで超優秀な成績のまま過ごしてきた大学を、三年の春から一切行かなくなり、そのまま中退したのも、「ここで脱落しておかないとマズイ」と思ったからだ。


このまま行けば、僕はもっといい点数のところまで行けるかもしれない。行けるか分からないけど、行くことが可能なレールに乗ることは出来る。でも、そうやってどんどん点数が上がって、まかりまちがって100点に近くなってしまうようなことになれば、困るのだ。まさに、「100点が99点になる日におびえて暮らす」ようになってしまうだろう。だから僕は、60点ぐらいの時に脱落して、一気に20点ぐらいの人生を歩むことにしたのだ。

金持ちになりたくない、というのも、同じ理屈だ。金持ちは、確かになんでも欲しいものは手に入り、やりたいことは何でも出来るのかもしれないけど、しかし、きちんと知識を身につけてお金を管理したり、人を掌握したり、世の中の流れを掴んでいないと、悪質な詐欺に騙されたり、思わぬ出費に泣いたりと、何かのきっかけにすぐお金がなくなってしまう危険がある。100億円持っていようが、「あぁ、この100億円を騙し取られたらどうしよう」なんていう不安も一緒についてくるなら、そんな大金はいらないのだ。

このように僕は、なるべく自分の人生の点数が上がり過ぎないように気をつけてきたつもりだ。とはいえ、今はさほどではないとは言え、僕にも「厄介な自意識」というものがやっぱりあって、人にいい風に見られたいと思って行動していた時期もある。こうなると、なかなか面倒である。人生の点数は上げたくないが、点数の高い人生を歩んでいるように見せたい、と思っているのだから。まあ、その欲求はさほど強かったわけではないから、そこまでドツボにはまらずに済んだと思う。人間とは、複雑な生き物である。

そんなわけで、僕はこんな風にネガティブな思考をこねくり回して生きてきたわけだが、僕が関心を抱く対象も、ネガティブな人ばっかりだったりする。しかも以前は、「なんでこんなキレイ・カワイイ人がこんなネガティブなんだ?」というような何人かの人と関わりがあって、非常に楽しかった。僕は最近、乃木坂46が好きなのだけど、彼女たちを好きになった決定的な理由は、彼女たちがとてもネガティブだったからだ。アイドルがこんなこと言ってていいのか?というぐらいネガティブな言動が多くて、惹かれずにはいられないのだ。

ネガティブな人間に何故惹かれてしまうのかを考えてみる。僕は、言葉の豊富さにあるのではないかと思っている。


僕自身もネガティブだからそうなのだけど、ネガティブな人間というのは、あらゆる状況で色んなことを考え過ぎる。人間関係だとか自分の将来とか、はたまた自分とは特に関係のない出来事・状況についてまで、なんだか色々考えてしまう。基本的に思考がマイナスなので、マイナスな思考によって不安などのマイナスな感情が引きずり出され、そのマイナスな感情がさらにマイナスな思考を引き連れてくるという悪循環をもたらすのである。

さて、ここで重要なのが、考えるためには言葉が必要だ、ということだ。世の中には、映像で思考が出来るという人間もいるらしいのだが(僕には何を言っているのかさっぱり理解が出来ない)、大抵は言葉でだろう。ネガティブな人間は、言葉を駆使して、自分の感情や相手の思考、未来の状況などについて延々と考えるのである。

だから、ネガティブな人間の方が圧倒的に言葉が豊富なのだと思う。


僕は、自分の頭で考え、自分の言葉で説明できる人が、男女とも好きなのだ。テレビや雑誌の情報を鵜呑みにし、流行っている言葉を抵抗もなく使い、ほとんど言葉を費やさなくてもコミュニケーションが取れてしまう仲間内の会話ばかりに興じている人間には、さほど興味が持てない。僕は、自分とは価値観がまるで噛み合わなくてもいいから、世間の誰がなんと言おうが自分の意見を曲げず、それがおかしなことだと分かっていても自分の思った通りに行動するような人が好きだ。

ネガティブな人というのは、ネガティブであるが故に、人前であまり喋らなかったり、積極的に行動しなかったりするからわかりづらいが、ネガティブな人間にはそういう人が多いと僕は思っている。

本書の著者も、恐ろしくネガティブな人間だ。子供の頃から負け続けているようで、あらゆる発言が自虐的であり、ウソだとはまったく思わせないほどのドロドロしたものを内包しているのだ。

『コラムの連載を始めるにあたり、担当氏となにについて書くか話し合ったのだが、話し合えば合うほど、私には友達もいなければ趣味もなく、テレビや新聞をまったく見ないせいか話題のニュースも知らず、政治に関心がないのはもちろんのこと、抱かれたい芸能人の一人も思い浮かばないという、完全な生きる屍であることが判明するばかりであった』

『そんな私も来世スベスベマンジュウガニに生まれ変わることと引き換えに、漫画家デビューさせてもらえることとなり、表現の場がネットから誌面へと変わった。しかし誰が読んでいるかさっぱり分からないという点だけは今も変わっていない』

『なにせ高校3年間で男子と喋った回数は、私の記憶ではわずか2回である。男女比がほぼ半々の学校にも拘らず下手をすれば厳しめの刑務所にいるよりも異性との接触回数が少ない気がする。しかもうち1回はおぼろげであり、もしかしたら私の妄想かもしれないのだ。はっきりしているあと1回のほうにしても、「窓開けて」と言われただけでよく考えたら会話ですらない』

『しかし、そんな私も完全に一人になったことがある。
18の夏、一人BBQをしたのだ。家の庭などという生半可な場所ではなく、ちゃんとしたBBQ専用広場でだ。』

いかがだろうか。なかなか屈折しているというか、ネガティブに包み込まれているというか、素晴らしい逸材である。僕もどうせならこのぐらいまでネガティブをはっちゃけさせている方が、ちょっとぐらいネタになっただろう。自分の中途半端っぷりを恥じた次第である。

本書は「負ける技術」というタイトルではあるが、タイトルは後付で担当氏がつけたとのことで、内容と合致しているかは微妙だ。著者もそう思ったのだろう。まえがきでこんなことを書いている。

『「負ける技術」という名前から、本書を生きる術を学ぶ指南書だと思って手にとった方もいらっしゃるかもしれない。だが実はタイトル自体が担当編集による後付けなので、役に立つことはいっさい書かれていないのだ。
などと言いきってしまうと大半の人がレジまで持っていかないので、本書は現代社会に反乱している「そんなに頑張らなくていい、肩の力を抜け、ありのままの自分を愛せ、ゆるふわ」といった趣旨の自己啓発本であり、この本と一緒に練炭を買えば必ず人生が楽になると保証する、とでも言っておく』

その直後、著者の人生哲学を見事に要約したような見事な一文が登場する。

『現代社会において「勝利」は「敗北」の始まりだ』

どういうことか。著者は懇切丁寧に説明してくれる。

『日本人というのは、心の底から調子に載ってる奴が嫌いであり、そういう人間gふぁひとつボロを見せたばかりにハンバーグのタネになるまで叩かれる姿はもはやおなじみである。
たとえ買ってもひたすら謙虚、オリンピックで金メダルを獲ったとしても、「すべて支えてくれた家族と応援してくれた皆様のおかげで、自分は屁をこいて寝てただけです!」みたいな態度を貫かなければいけないのである。せっかく血のにじむような努力をして勝利をつかんだのに、全然威張れない。ならば勝利の意味とはいったいなんであろうか。
つまり、成功や勝利など、すくわれる足が増えたに過ぎないのである。そういったう意味ではj気分は完全に空中浮遊状態で、すくわれる余地はない』

もう一丁。

『日本人は異形を成し遂げた者をすごいすごいと持ち上げるのは好きなのだが、「俺はすごい」と当人が言うのは大嫌いだという“真理”がある。それを当人が言ったが最後、今まで褒めていた者が一斉に「あんたなんか全然すごくないんだからね!」と叩く側に周るという1億総逆ツンデレ状態なのだ。そのような事態を避けるために、あえて「負けてみせる技術」は現代日本を生き抜くために必要だと思う』

こういう状況は、ワイドショーを見ていれば次々に登場する。よくもまあ、それだけ叩くものを見つけてくるものだなと感心するほどだ。目立つということはイコール、いつか叩かれる権利を得ることを意味する世の中に、いつの間にかなってしまった。僕も著者と同じく別にすくわれる足もないのだけど、意識して目立たないようにしなければ何が起こるか分からないという怖さは、振り払っても常につきまとっているように思う。

著者は、子供の頃から安定して非リア充であり、安定してネガティブ街道を突き進んできた強者である。希望を持たないようにしてひっそりと生きてきたわけだが、しかし同時に、リア充に対する憎悪はずっと消えないままである。本書でも、制服カップルを見ると爆発しろと思うとか、クリスマスに行われたサイン会の前に美容院に寄ったらリア充どもしかいなかった、みたいな、リア充憎しの文章も多くある。自分の人生を諦観していることと、リア充を憎悪することは、著者の中では両立するのだ。

リア充憎しの文章をこれでもかと書くが、それ以上に著者自身がイケてなさすぎるエピソードがてんこ盛りなので、どれだけ著者がリア充を貶そうとも、「うんうん、仕方ないよな」という気持ちになる。これもまた、著者が駆使する「負ける技術」の成果の一つかもしれない。

僕が一番爆笑した話は、パイ投げの話である。著者は、友達がいないというだけあって、様々な一人遊び・一人で過ごす方法に長けているのだけど、このパイ投げは、あまりの斬新さに吹き出してしまった。砂糖と塩を間違えて作ってしまった食べられないケーキを再利用するために一人パイ投げをした、って話なんだけど、ぶっ飛んでいるにもほどがあると思う。

オリンピックの冬季種目のマッドさ加減をアピールしてみたり、ブーツの底が剥がれても気にせず歩き通したり、「桐島、部活辞めるってよ」を読んで学生時代の身分社会を思い返し悶絶したり、「イケメンと付き合えたらすべてが解決する」という長年の自らの妄想を打ち砕く読者からのコメントなど、イケてない著者が全力でそのイケてない感を披瀝する作品である。勝ち組・リア充の人間からすれば、UMAの如く実在を疑いたくなるような性質の人間かもしれないけど、僕のようなネガティブな人間には、著者の思考回路はよく理解できる。著者と比べれば中途半端なネガティブである僕なんかとは比較にならないほどの年季入りようで、師匠と呼んで弟子入りした気持ちにさえなる。

勝ち組・リア充の人間は、恐らく読んでも楽しくないだろう。ネガティブをこじらせているような人間が読めば、実に共感できるだろうし、これほどの人間がどうにか生きているんだから、自分もまだやれるかも、という形で元気ももらえるかもしれない。ネガティブな人間の方が面白い。僕はその信念を、改めて実感することが出来た。


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