【映画】「駆込み女と駆出し男」感想・レビュー・解説

物語は、1841年の江戸に始まる。将軍の指令により贅沢が禁じられ、女義太夫が捉えられる。滝沢馬琴の八犬伝にも検閲が入る。財を蓄えている商人たちが世情を憂える。そんな時代である。
三人の女と一人の男が、東慶寺という寺にやってくる。
この東慶寺、結婚に悩む女性の、まさに駆け込み寺となっていた。婚姻に関しては圧倒的に男が優位であった時代。女性は、どれだけ酷い状況に置かれていても、女性の方から離縁を申し出ることは限りなく困難だった。そんな時代に東慶寺は、酷い婚姻生活から逃げてきた女性を匿い、勉学や修行をさせ、二年の後旦那に離縁状を出させる。そういう役回りをずっと続けている。
「お吟」は掘切屋という商人の妾であった。不自由のない生活をしていたはずだが、籠持ちを切っさばいてまで東慶寺へと駆け込む。
「じょご」は、鉄練りの技術を持つ女だが、主人が女と遊び呆けており、じょごの妻としての立場は恐ろしく辛い。身を投げる覚悟を決めるも、行きがかりもあって東慶寺へと駆け込むことになる。
「ゆう」は女剣士であり、道場破りで道場を乗っ取った荒くれ者から逃れるために東慶寺へと駆け込んできた。東慶寺で2年間修行し、その後復讐することを誓っている。
そしてもう一人。「中村信次郎」は、医者見習いだ。江戸でいろいろやらかしたため、親族のいる東慶寺まで逃げてきた。東慶寺の中では、医者としてだけではなく、様々な役回りを演じることになる。
世間と没交渉であるはずの東慶寺は、世k情と絡んだり、あるいは逃げこんできた女性が絡んだ様々なトラブルに巻き込まれていく。社会的に地位が確立されていなかった結婚した女性の側に立つという、気苦労とトラブルの多い東慶寺という役回りを見事に引き受ける人々と、その中で救いを見出し新たな道を歩んでいく女性を描き出す作品。

いやー、面白い作品でした。割と期待して観に行ったんですけど、期待以上に面白かったです。
物語全体として見ると、連作短編集のような感じがあります(原作である「東慶寺花だより」を読んでないので、原作がどういう構成なのかは知りません)。先ほど挙げた三人の女性に限らず、他にも何人かの女性の話が折々でメインとなって、全体の話が進行していく。もちろんそれらはぶつ切りなのではなく、東慶寺という舞台のものでうまく一つにまとまっている。
個々のエピソードもそれぞれいいのだけど、やっぱりまずこの作品は、「東慶寺」という舞台設定が素晴らしい。江戸時代の結婚事情についてぼんやり考えてみると、(女性の側に権利はなさそうだなぁ)ぐらいのことは浮かびますが、それ以上のことはもちろん知りませんでした。そういう世の中にあって、東慶寺という、女性の側に立って離婚調停を進める存在があったというのは結構な驚きでした。当然、完全男社会である世の中にあって東慶寺という存在がお上に好かれるはずもなく、そういう世情の中で東慶寺をどうにか成り立たせている、そういう雰囲気が作品から滲み出ていて良かったです。
その中でやはり要となるのは、離婚調停のご要所の女主人の存在でしょう。樹木希林演じるこの役の存在感は、作品に大きな重心を与えている感じがしました。この女主人がいるからこそ、東慶寺はどうにか成り立っている。それだけの存在感を樹木希林はうまく与えている感じがしました。
個々の女性のエピソードも良くて、それぞれ触れることも出来るのだけど、今こうして感想を書いている間に観た映画のシーンを思い返していると、どうも「なんでもないシーン」のことが蘇ってくる感じがします。ただみんなでワイワイ飯を食ってるだけのシーンとか、修行をしている女性たちの姿とか、そういう物語そのものに直接関係しないようなシーンの印象がどうも強い感じがしました。たぶん観ている僕が、「東慶寺の日常」に入り込んでいたんだろうなぁ、という感じがします。エピソードはエピソードとしてそれぞれ面白いのだけど、それ以上に、「東慶寺という異世界の日常」に惹かれたのだろうな、と。女ばかり、しかも離縁を望んでいる女ばかりがいる環境であるとか、何か目に見える報いがあるわけでもないのにしんどい役回りを引き受けている人たちとか、そういう人たちがどんな日常を過ごしているのか。いつの間にかそういう部分に目が行っていたのだろうな、と思います。
個々のエピソードで一番好きなのは、先に挙げた三人が関係しないものです。吉原が関係するエピソードで、このエピソードの結末も見事なのだけど、それには触れません。もう一つこのエピソードで好きなのは、吉原の人間が東慶寺に乗り込んでいた場面です。
このシーンは、大泉洋演じる中村信次郎の大見せ場の二つの内の一つだと僕は思っています。この場面についても詳しくは書きませんが、中村信次郎という役回りを実にうまく配置した痛快なシーンで、「生まれ変わったらあんたの弟子になる」というセリフには思わずクスっとしてしまいました。
僕が考える、中村信次郎のもう一つの大見せ場は、東慶寺の女性たちの前で公開で診療をした場面です。対処を間違えれば東慶寺の存亡も危ぶまれるかもしれないという状況下で、これまた中村信次郎というキャラクターを実に見事に活かした大立ち回りを繰り広げることになります。この場面では、中村信次郎の言葉ではないのだけど、「寺のために寺法があるのではない。苦しんでいる人間のために寺法があるのだ」というセリフにも痺れました。
この映画は、舞台が江戸ということもあって、ところどころ「何を喋ってるのかわからない場面」というのがありました。冒頭で掘切屋たちが豪勢な食事をしている場面とか、吉原の人間が殴りこんできた場面とか、言ってることがさっぱり聞き取れなかったりしました。とはいえ、それはぞれで江戸っぽい雰囲気になっていた気がするし、聞き取れなくても「大体こんなことを言ってるんだろう」と思えるような場面だったので大丈夫でした。メインとはならない場面で、そういう「江戸っぽさ」みたいなものを出そうとしていたのかな、と感じました。
あと、井上ひさし原作だからでしょう、ところどころ言葉遊びみたいなものが出てきて面白かったです。中村信次郎が「すぼらし」「すばらしい」「すてき」について語る場面なんかはまさにそうでした。また、中村信次郎が意識を取り戻した瞬間から立板に水のように展開された女将さんとのやり取りも、劇作家ならではというか、言葉の流れ方がなんか凄いなと感じました(ここも、ちゃんと聞き取れなかった部分だったりもするんですけど 笑)。「じょご」の夫である重蔵と中村信次郎が俳句(ではないと思うけど五七五の何か)で軽妙な掛け合いをするところとか、当時の庶民の知的レベルの高さが伺えたりして面白いなと思いました。
東慶寺という舞台設定、様々に盛り込まれたエピソード、そして一つ一つの場面の描写・場面としての面白さ。そういうものが非常にうまく融合されて、エンターテイメントでありながら社会性を帯び、喜劇でありながら喜劇を前面に配することで悲劇を描くような作品でした。非常に面白かったです。

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