【映画】「メンゲレと私」感想・レビュー・解説

作品はとても良かったのだけど、タイトルが良くない。「メンゲレ」というのは、アウシュビッツ強制収容所で「神」と呼ばれていた「イカれた医師」の名前なのだが、本作にはメンゲレの話はほとんど出てこない。基本的には、語り部であるダニエル・ハノッホの人生の話である。だから、英題である『A Boy’s Life』が適切なタイトルと言えるだろう。

もちろん、こういうタイトルになった理由は分かる。本作は、『ゲッベルスと私』『ユダヤ人の私』に続く3部作目なのだ。だから、『~私』というタイトルで統一したかったのだろうし、だとしたら「メンゲレ」の名前を出すしかない。ただ、『メンゲレと私』というタイトルにするなら、もう少しメンゲレの話に言及があるべきだよなぁ、と思う。

さてまずは、本作の中で最も印象的だった話から始めよう。

ダニエル・ハノッホは8歳の時にゲットーに入れられ、その後アウシュビッツ強制収容所に送られた。マウトハウゼンという、「重労働による絶滅」を掲げた唯一の収容所なども経験しつつ、彼はそのような環境で44ヶ月を生き延び、生還した。米軍が来て解放された時、13歳だったそうだ。

さて、そんな彼は解放後、米軍の配給や赤十字の小包を断ったそうだ。理由ははっきりと分からなかったが、恐らくそこには彼なりの信念があったのだと思う。後で触れるが、「生き延びるために、とにかくしこたま考えた」そうだ。「与えられたもの」ではなく、「自ら手に入れたもの」で生き延びるみたいな思考が染み付いていたのかもしれない。

もちろん、彼はお腹が空いていた。確か、ドイツ兵の死体のポケットに入っていたサンドイッチが、解放後最初に口に入れた食べ物だ、みたいなことを言っていたように思う。その後ももちろん、食料を探しに行くのだが、それ以上に彼が求めたものがあった。

それが「紙と鉛筆」である。

収容所では、紙と鉛筆を持つことは禁じられていたそうだ。だから彼は解放後、ある会社(彼とどのような関係があるのか分からなかった)に行き、そこで目にした紙と鉛筆で、思う存分文字を書いたり絵を描いたりしたそうだ。その時のことについて、「一種の解放感」「自由の象徴だった」と語っていたし、さらに、

『(文字を書いたり絵を書いたり出来る)そんな人間に戻れて、私は満足だった』

とさえ言っていた。これは凄く印象に残る話だった。「食べること」以上に、「人間らしさ」みたいなものを取り戻したいと考えたというわけだ。

もちろん、そんな風に感じた理由も分からないではない。というのも彼は、凄まじい光景を目にしているからだ。

「酷い光景」は彼にとって日常だった。彼は降荷場で働いていた。色んな「荷物」が届く場所だ。もちろん、人間も。そして彼はそこで、「これから死にに行く者たち」を見続けた。映画の中で彼が「最も辛い瞬間だった」と語っていたのが、「処理場」へと向かう道すがら、パンをもらったことだったという。「僕はもう要らないから」と言われたそうだ。つまりその人物は、これから自分が死ぬことを理解していたのである。

ダニエル・ハノッホにとっては、これが日常だった。

しかし、そんなこととは比べ物にならないぐらい、おぞましく狂気的な状況を目にしたという。僕は、ホロコーストに関するドキュメンタリー映画や、ホロコーストを扱ったフィクション映画などを結構観ているが、それでも、彼が語った話は初めて知った。

それは「カニバリズム」、つまり「人肉を食べる行為」である。

その話が出てきたのは、終戦が近づいている頃のことで、連合軍の大砲が「意図せずに囚人に当たって命を落とすことがある」という話に続くものだった。そのような死体がフェンスに引っかかっていることがあるのだが、それをハンガリー人(彼ははっきり、ハンガリー人と言っていた)が回収し、食べていたというのである。

彼はこの点については「ホロコーストの話としてあまり語られていない」と指摘していたし、「ありとあらゆる他の残虐な行為とは比べ物にならないくらい酷い」と糾弾していた。その通りだろう。ちょっと信じがたい話である。

さて、そんな彼がアウシュビッツを生き延びることが出来たのには理由がある。とにかく「考え続けた」のである。

最初のきっかけは、「コブノ・ゲットー」での経験だった。ここでは「労働不能」と「選別」されると、第9要塞で殺されるというルールがあったようだ。その際はまだ、兄のウリと一緒で、兄が積極的に動いて、彼を屋根裏部屋に隠してくれたのだそうだ。

しかしある日、その屋根裏部屋にドイツ兵がやってきて、「全員表に出ろ」と言われた。その瞬間、彼は、「出たら殺される」ことが分かったという。そこで、どうにか屋根裏部屋から下に降りられる扉を探し、下でタバコを吸っていた親衛隊員にぶつかりながらも、どうにか逃げ切ったのだそうだ。

この経験から彼は、「命令には従わない」という絶対的なルールを認識した。そしてその認識のことを「道具」と呼び、その「道具」のお陰で44ヶ月を生き延びられたと語っていた。

メンゲレという医師は、自ら志願してアウシュヴィッツに配属されたそうで、子どもたちを使って人体実験を行っていた。目玉をくり抜くなど非人道的なことが日々行われていたし、メンゲレは特に双子に興味を示し、1400組もの双子に様々な実験を行ったそうだ。

そしてダニエル・ハノッホ、このメンゲレから「気に入られる」という特異な立ち位置で収容所生活を送っていた。彼は吐き捨てるように話していたが、収容所には時々赤十字の人がやってきたそうだ。そしてそういう時に、メンゲレは彼を「見本」として見せていたという。「ユダヤ人の子どもたちを、丁寧に扱っていますよ」という「見本」である。彼は、赤十字の助けを期待していたが、「彼らは何もしてくれなかった」と厳しく断罪している。

では、彼はどのようにしてメンゲレに気に入られたのか。決して偶然ではない、思考力の賜物である。

『私は彼に、元気で有益であるように見せようとした。彼が人々を「用途」で観ていたのを知っていたからだ。
「選別」の際も、恐怖を出さず、まっすぐ背筋を伸ばし、強い人間であることをアピールした。
だから私は残れたのだろう。』

また彼は、「空想」の助けも借りていたと言っていた。収容所の中で「空想」を駆使することによって、「生きる希望」を得ていたというのだ。仲間と会話することよりも、「空想」の方が重要だったそうだ。事実彼は、可能な限り独りでいたと証言している。

当時まだ、10歳前後の少年である。そんな少年の言葉とは思えない力強さに満ちていた。

少年とは思えないという話で言えば、彼はこんな風にも言っていた。彼はとにかく「泣かなかった」そうなのだ。それは「子どもだから」という理由では説明できないくらいで、彼は自身のことを「普通とは違う」と表現していた。

屋根裏部屋で窮地に陥った際も、彼は、

『ここでも私は無関心だった。私には他人事だったのだ。現実感が無かった』

みたいな言い方をしている。また別の場面では、

『泣くのは弱さの表れだ。泣いたって何の役にも立たない』

と言っている。子どもの頃など、「泣いたって何の役にも立たない」と思っていたって泣きたくなったりするだろうに、やはりちょっと普通の子どもとは違ったようだ。

それは、収容所を経験したことで一層増したと言っていいだろう。彼はある場面で、

『奇妙に聞こえるかもしれないが、アウシュビッツは良い学校だった。ビルケナウもだ。』

という言い方をしている。それに続けて、

『収容所の”卒業生”は、ものの見方や哲学がどこか他の人と異なるのだ。アウトサイダーなのである』

みたいなことも言っていた。これも、「結果的にそうなってしまった」のか、あるいは「そういう人間だからこそ生き延びられた」のか分からないが、いずれにしても凄まじい話である。

当然だが、彼は随所で、ホロコーストやメンゲレについての感想を口にする。

『あんな生き物が何故この世に存在できたのだろうかと時々考えてしまう』

『殺人場のような場所はビルケナウだけだった。他の国ではあり得ない』

『(ドイツ人が命令に従ってユダヤ人を機械的に殺したことについて)自ら戒める機能を持つのが人間なのではないか?』

凄まじい経験をせざるを得なかった1人の少年の壮絶な経験を、傍目には「軽妙に」とさえ映る雰囲気で語る作品である。

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