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【本】宮下洋一「安楽死を遂げた日本人」感想・レビュー・解説

「安楽死」をどう思うかについての僕の考えは、とりあえず後回しにしよう。
それよりも僕はまず、「死ぬ権利」の話をしたい。

安楽死に関わらず、本書に登場する尊厳死、セデーション、緩和ケアなどの「終末期医療」に関して、結局のところ何を一番考えなければならないかというと、人間には「自然権」としての「死ぬ権利」があるのか、ということだ。

「自然権」について詳しいわけではないが、ネットで調べた情報を自分なりにざくっと書くとこんな感じだ。

僕らは、憲法の下で生きている。じゃあ、この憲法に書かれている権利とは、一体なんなのか。欧米人はそれを、「Godから与えられたもの」と捉えた。神様が人間を創造した時に、当然のものとして与えてくれた、という解釈だ。「生存権」「自由権」「財産権」などは、人間が当たり前に持っているものだ。そして憲法などの法律というのは、そうした「Godから与えられた当然の権利」を、「政府が忘れてしまわないように契約する」という意味合いがある。つまり、「憲法に書いてあるから権利がある」ということではなく、「Godから与えられた権利を、念のため憲法に書いて言語化しておく」というものだ。

こういう、「Godから与えられた当然の権利」を「自然権」と呼ぶ。

もちろんこれは、時代と共に変わっていく。例えば、「同性愛」についての受け取られ方は、時代時代で大きく変わっているはずだ。かつては、「同性愛は人間の自然な形ではない」というような受け取られ方がされていた時期もあっただろうが、今では「同性愛は人間が持つ自然な権利の一つだ」という考えの方が支配的になったと思う。もちろんそう考えない人もいるだろうけど、あくまでもこれは「契約」の話だから、「政府」と「国民」がどういう合意に達するか、ということだ。大多数の国民がある方向に傾けば、政府との契約において、それが正しいとなる。

それらを踏まえた上で、じゃあ「死ぬ権利」は「自然権」なのかどうか、というのが、一番考えるべき問いではないかと僕は思う。この問いへの答え次第で、安楽死などの終末期医療に対する答えも決まってくる。「死ぬ権利」が「自然権ではない」、つまり、人間に死を選ぶ権利がない、という合意をするのであれば、安楽死などは当然認められないだろう(この場合、「脳死」などをどう解釈するか、という問題も出てくるかもしれない)。一方で、「死ぬ権利」が「自然権」、つまり、人間に死を選ぶ権利がある、という合意をするのであれば、安楽死かどうかはともかく、「死を選ぶための手段」を社会の中に実装する必要がある。あとの議論は、「その手段をどう現実のものにするか」というテクニカルな話であって、もちろんそこに乗り越えるべき壁は多いのだが、議論のための一歩を踏み出すことが出来るだろうと思う。

僕は、著者の前著である「安楽死を遂げるまで」を読んでいない。こちらは、主に欧米人を中心に、安楽死した者の家族や安楽死の現場の取材などを通じて、「理想の死」とは何かという問いを突きつける作品であるようだ。

本書の冒頭に、前著に関する短い言及があるが、その中にこういう記述がある。

【ただし、安楽死を容認した国々には、それを認めるまでの歴史があることを知った。国民の長い議論と強い願いの末に制度化されたのだった。どう死ぬかを決めることは、どう生きるかを決めることにもつながる。死の自己決定は、人間の生まれ持っての権利の一つだというのが彼らの主張である。そうした考え自体は、欧米で25年超生活している私には、理解できた】

安楽死が法制化されている国では、「死の自己決定は、人間の生まれ持っての権利の一つ」という合意がなされた、ということが分かる。僕自身も、議論はここからしか進まないだろう、と思っている。

しかし、本書は、どうもそこに焦点が当たっていないように感じる。というか、著者の意識が、その点に向いていない。これは、僕が前著を読んでいないから感じることかもしれない。著者の主張は、前著により強く込められているかもしれない。その辺りは分からないのだが、著者の関心は「良き死」というものにある。つまり、「その死が良かったか悪かったか」という部分に、著者の関心がある。

ここで、僕自身の意見を書いておくと、僕は、「死ぬ権利」は「自然権」だと思っているし、「安楽死」は認められてほしい。そして、正しく「死ぬ権利」が行使出来るなら、その死が「良いもの」か「悪いもの」かはどうでもいい。これが僕の立場だ。

以前、飲茶「正義の教室」という本を読んだ時、「功利主義」と「自由主義」についての違いの話が出てきた。議論における前提条件はいろいろあるのだけど、説明が面倒なのでその辺りをとっぱらって結論だけ書くと、

「功利主義」=「自由よりも幸福が大事」
「自由主義」=「幸福よりも自由が大事」

と書かれていた、つまり、「功利主義」というのは、「仮に自由が制約されることになっても、結果的に幸福に繋がるなら、それが最善の選択」という考え方であり、「自由主義(本の中では「強い自由主義」と書かれているのだが)」は、「仮に不幸になるとしても、自らが自由に行動出来るなら、それが最善の選択」という考え方だ。「自由主義」においては、「愚行権の行使」、つまり「自らの意志で不幸になる自由」がある、ということが大事なのだ。

これを踏まえて話すと、本書(「安楽死を遂げた日本人」)の著者は「功利主義」であり、僕は「自由主義」だと言える。

さて、話をまとめよう。安楽死を含む終末期医療に関する考え方を僕なりに整理すると、以下のようになる。

まず、「死ぬ権利」が「自然権」であるかどうかに関する合意がなければならない。これが大前提だ。ここで、「死ぬ権利」が「自然権」ではない、という合意を取るのであれば、安楽死も尊厳死もセデーションも認められない、という立場を取るしかない。

「死ぬ権利」が「自然権」だとして、次に「功利主義」を取るか「自由主義」を取るかという選択がある。この選択を、「国民の間で合意しなければならない」のか「個人の選択に任せられるべき」なのかは難しいが、「安楽死を法制化するためにどうすべきか」という方向で考えるのであれば、合意が必要だろう。

「自由主義」で合意するのであれば、合意はそこまで難しくはない。何故なら、仮にその死が不幸なものになっても、本人の自由意志によって行動出来る、ということが大事なのだから、「安楽死を本人が自らの意志で明確に選択した」という意思表示をどのように行うか、という点を明確にすればいい。

もちろん、問題もある。本書では、著者が、「特に日本人に特有の問題だ」と指摘するものだ。それは、「介護などによって迷惑を掛けてはいけない」という「他人の迷惑」を意識しすぎるあまり死に急いでしまう、というものだ。確かにこれは「問題」に思えるかもしれないが、しかし今は「自由主義」という枠組みで現実を捉えているのだから、僕はさほど問題には思えない。「他人の迷惑を意識することで死に急いでしまう」ことを「不幸だ」と捉えるから「問題」になるのだが、それは「功利主義」的な視点だろう。とはいえ、「脅迫などによって、自らの意志に反して安楽死が行われる可能性」を否定することは出来ないので、まったく問題がないとは言えないが。

一方、「功利主義」で合意することは非常に難しい。何故なら、これは「功利主義」という考え方そのものの難しさでもあるのだけど、「幸福をいかに定義するか」という部分に大きな問題があるからだ。ここに、著者の言う「良き死」の問題が関係してくる。「死ぬ権利」を「功利主義」的な観点から法制化するためには、どういう死を「良い」として、どういう「死」を「悪い」とするかを明確にしなければならない。しかし、人それぞれ様々な死生観がある中、それをまとめて合意に至ることは至難の業だろう。

著者は本書の中で、日本での安楽死の法制化は難しい、という立場を取っているが、僕の解釈ではそれは「功利主義」的な捉え方だ。というのも著者は、「死の問題は、死ぬ本人だけの問題ではなく、残される側の問題でもある」という立場を取るからだ。著者は、様々な形で安楽死を望む者と接することになるが、常に「家族との関係」を重視する。ここまで単純化しては著者に申し訳ないが、著者の感覚としては、どういう死に方であろうが、それが家族に受け入れられているのであれば「良い死」であり、家族に受け入れられていないのであれば「悪い死」と捉えているように感じる。家族との関係に問題を抱えていたある人物の死に際して、著者はこんな風に書いている。

【肉体的な苦しみを味わわずとも、精神的な痛みを抱えたまま死にゆくことは、理想の逝き方と言えるだろうか。それとも、肉体的には苦しくとも、精神的な喜びを持って自然な眠りに就くことのほうが理想の逝き方なのか。
吉田淳という人間と出会えたことで、私は、この問いに気付くことができたと思う。】

ここで言う「精神的な痛み/喜び」が、「家族との関係性」の話だ。著者は、上記の引用部分では明言こそしないが、本書全体のトーンとして、後者、つまり「肉体的には苦しくとも、精神的な喜びを持って自然な眠りに就くことのほうが理想の逝き方」を理想としている、ということが伝わってくる。

個人的にはこの考え方に賛同しないが、僕個人の考えはおいておくとして、著者のような考え方を取る場合、安楽死の法制化はまず不可能だろう。「家族との関係性まで含めた死」こそが理想なのだとしたら、国民の大多数で合意できる「理想の死」など明文化できるはずがない。

ここまでが、本書を読んだ僕が整理した、安楽死を含む終末期医療の現状の理解だ。「死ぬ権利」が「自然権」であるかどうか、そして、「功利主義/自由主義」のどちらを取るのか。こういう部分についての土台を固めたり、議論における前提として意識しない限り、終末期医療に関する議論がどこかに着地することはまずないだろうと思う。

あらためて僕の考えを書いておくと、僕は「死ぬ権利」は「自然権」、つまり本来人間に備わっている権利であって、死を自ら選ぶことは人間としての当然のあり方だと思う。そして、僕自身は「自由主義」、つまり「幸福よりも自由が大事」という立場で、仮に自分の選択によって「悪い死」となってしまったとしても、自分の自由な意志によって死を迎えることが出来る方がいいと思っている。

本書を読むと、安楽死を望む人は、僕と同じような価値観を持っている人が多いように思う。しかし、正確に「自由主義」か「功利主義」かを判断するのは難しい。というのも、「安楽死という選択」が「周囲の人間も含めて、皆が幸福になる選択」だと考えている人もいると思うからだ。

ちょっと話はズレるが、本書に登場する幡野広志のエピソードを紹介しよう。36歳で多発性骨髄腫(血液のガン)と診断された写真家で、安楽死を法制化すべきと活動している人物だ。

【幡野は、妻との離婚を考えた時期もあった。看病で辛い思いをされるくらいなら、別れたほうが彼女も再スタートを切りやすいだろうと考えた。2年から5年の余命の中で、人生設計をしたかったという。
もちろん妻は耳を貸さなかった。これから生を全うする夫の傍にいたいと望んだ。
なぜ自分の思いが伝わらないのか。幡野は思い悩んだ。】

安楽死そのものの話ではないが、このエピソードは、「自分の価値観において『これが相手にとって幸せだ』と思ったことが、相手にとってはまったくそうではなかった」という話だ。幡野は、緩和ケアの一種である「セデーション」について、

【自分が望む最期について、患者の意思が尊重されないのは問題ですよね。ならば、結果として、患者を苦しめてしまう。自分の思い通りに死ねないわけですから】

と言っているように、「患者本人の意思が最も大事」と考える人物だ。それは「自由主義」的と言っていい。しかし、妻に離婚を切り出した話などは、妻との価値観の相違はあったものの、幡野の視点から見れば「功利主義」的である。他の人物にもそういう傾向があり、「自由主義」か「功利主義」かという明確な区分けはできない。

しかし、一つ言えることは、安楽死を望む人には「自由主義」的な考え方が必ずある、ということだ。というか、その考え方が全体として強く出る。しかし、本書の著者である宮下洋一は、「自由主義」的な考えを持っていないわけではないが、全体として「功利主義」的な考え方が強く出る。

本書は、「自由主義的な考えが強く出る安楽死を望む人々」を、「功利主義的な考えが強く出る著者」が取材することによって生まれる様々な摩擦を掬い取っていくノンフィクションだ。

内容に入ろうと思います。

まずは、著者が本書を書いたきっかけから。
前著『安楽死を遂げるまで』について、著者は、西洋的な死生観と日本的な死生観を分けて捉えたという。それは、著者が長年、欧米諸国で生活を続けている、ということにも関係している。
しかし出版後、日本の現状を理解していない、というような意見が著者の耳に届いたという。そこで改めて、日本人と安楽死、というテーマで取材を続けることにしたのだ。
本書の中心になるのが、小島ミナという女性だ。多系統萎縮症という、治療法も無く、また、身体機能が徐々に衰えながら、生命機能は比較的長く維持される、という難病に罹ってしまった50代の女性だ。これは、映画にもなった『1リットルの涙』の主人公と同じ病気だそうだ。彼女は、『安楽死を遂げるまで』を読んで、著者に連絡をした。そこからすべては始まった。
小島は海外での安楽死を考えているようだったが、著者はそれを「難しいだろう」と考えていた。理由は、過去日本人が海外で安楽死した、というケースが存在しない、ということもあった。
国外からの安楽死希望者を受け入れる数少ない団体が、スイスにある「ライフサークル」と「ディグニタス」だ。「ディグニタス」の方が知名度が高く、統計資料で「過去に日本人が3人安楽死を遂げた」というデータがあるが、外部にほとんど情報を公開しないので判断が難しい。著者によると、「ディグニタス」の統計は居住国でカウントされるので、この3名は、日本在住の外国人だった可能性もあるという。一方の「ライフサークル」は、著者が前著で深く取材した先であり、代表のプライシックという女性医師とも親密だ。その「ライフサークル」では、日本人の安楽死はない。
日本人が外国で安楽死をする難しさは、「スイスまで渡航出来なければならない」が、同時に「耐え難い苦痛がある」「回復の見込みがない」などの条件をクリアしなければならない、という点にある。スイス国内であれば、車で移動可能なレベルであれば安楽死が可能だ。しかし日本からとなると、飛行機での渡航をクリアしなければならない。タイミングが早すぎても「耐え難い苦痛」や「回復の見込みがない」と判断されない可能性があるし、タイミングが遅いと渡航出来る状態ではなくなってしまう、という可能性がある。
そういうことを理解しつつ、あくまでも、安楽死を望む者がどうしてそう望むに至ってしまったのか、その経緯をしろうと、小島を取材対象とすることに決める。
そして結果的に、彼女は、タイトルの通り、「安楽死を遂げた日本人」になった。その過程を追っていく。
それと同時に、別の安楽死希望者も登場する。深く描かれるのが、吉田淳(仮名)と、幡野広志だ。吉田とはメールのやり取りから直接会って話す関係になり、幡野とは安楽死関連のイベントで会って話を聞くようになっていく。
また、安楽死に限らず、緩和ケアなどの終末期医療に携わる人と鼎談をしたり、死をどう迎えるかをデザインするアプリを作りたいという女性の話を聞くなど、「死に方」という括りで様々な人と会い、話を聞いていく。
著者自身は、冒頭でも色々書いたような理由で、安楽死に積極的に賛成ではない。むしろ反対の立場だ。特に、「他人に迷惑を掛けたくないから安楽死をしたい」という、他者目線で死の判断をしてしまう国民性のある日本人には、安楽死は向かないだろう、というのが、著者の基本的なスタンスだ。しかし、様々な関わりをする中で、著者の考えは揺らいでいく…
というような話です。

個人的、ためになる本でした。確かに、面白いという部分もあるんだけど、正直に言えば、安楽死に関する著者の観点にあまり賛同できないので、そういう意味で「面白い!」と言いにくい部分もあるなぁ、というのが正直なところです。

「ためになる」というのは、知識的な部分と、考えたことのなかったことについて思考した、ということですが、まず前者から。

知識的に良かったのは、「痛みのない最期は安楽死だけではない」ということです。著者はこう書きます。

【緩和ケアによって肉体だけでなく、精神的な苦痛も取り除くことができることを、日本人は知らないと思う。もちろん、それは100%ではないだろうが、最期を穏やかに迎えるための手段として欧米では定着している。
安楽死を希望する日本人は、緩和ケアとは痛みをごまかしつつ病と闘うものというイメージを抱いているようだ。一方、彼らは安楽死について、安らかに眠れるものと認識している。そこに私は疑問を抱くが、ここでは触れない。ちなみに緩和ケアの技術が進むイギリスは、安楽死が法制化されている国々を緩和ケア後進国と見做している】

【緩和ケア医の仕事について、日本では国民の理解が得られていない、というのが私の印象だった。この思いは吉田淳との会話の中でいっそう強いものとなった。
日本人にとって緩和ケア病棟は、「死ぬ前に入るところ」、緩和ケアとは「治療を諦めること」と誤解されているように思えた】

【西(※本書に登場する緩和ケア医)からは以前、日本は緩和ケアへの理解がないと聞いていた。死を待つための場所であるとの誤った認識が広がっている。それはなぜだろう。
西は、「日本においては癌患者とエイズ患者だけが、保健上で緩和ケアの恩恵を受けられるから」と端的に答えた。
海外では、心不全や呼吸器疾患などにも緩和ケアのアプローチが必要とされるが、日本では死に直結する病でしか、緩和ケア病棟を活用できない】

最後の引用は、緩和ケアに関するマイナスな面も明らかにするものではあるが、こういう記述を読んで、この辺りの知識は今まで持っていなかったなぁ、と思った。僕も短絡的に、「最期は安楽死がいいなぁ」と思っていたが、本書を読めば分かるが、日本人が外国で安楽死するのは、非常にハードルが高い。なので、安楽死以外の現実的な選択肢がある、というのは、良い情報だと感じた。

また本書で描かれるあるシンポジウムの中で、「尊厳死と安楽死の違いが分かる人はいますか?」という問いが投げかけられる。これも、今まで僕はあまり考えたことのなかった問いだったので、なるほど知らなかったなぁ、と思った。

そして、そういう実感と共に改めて感じたことは、日本では「死」について語る場があんまりないなぁ、ということだ。これは著者も指摘している。「死は隠されるべきもの」という「タブー感」が色濃く残っているので、こういう基本的な情報についても、誰かから聞くことがない。そういう意味で、確かに日本というのは、安楽死を法制化させる上での土壌がまったく育っていないな、と感じる。基本的な情報も知らないまま、イメージだけで安楽死を良いものと捉えるのは確かに良くないな、と感じた。

まあとはいえ、僕自身は、安楽死出来たらいいなぁ、という考えを変えていないのだけど。

本書にこんな記述がある。吉田淳からのメールに書かれていた言葉に対する著者の反応だ。

【特筆すべきは、ディグニタスという安楽死団体から書類が届いただけで、死に一歩近づけたと喜び、「食欲や活力が湧いてきた」と付記していることだ。それを彼は、「不思議なもの」とも表現している。過去に取材で出会った患者からも、安楽死団体に登録することで、いつでも死ぬことができるという安心感を得たと聞いてきたから、その感覚は理解できた】

また、最終的にスイスで安楽死をした小島に対しても、こういう感想を抱いている。

【小島にとって最悪の事態は、早い段階で意思表示ができなくなり、スイスでの安楽死という選択肢が消えてしまうという恐怖だった。スイスに渡った今、その恐怖は消え、小島の表情からは安心のようなものが感じられるのだった】

僕は、「安楽死を制度化すること」の最大の効用が、この点にあると感じる。つまり、「いつでも死ぬことが出来る」という感覚が「安心」へと繋がり、それが「残り僅かな時間を有意義に過ごすこと」に繋がる、と思っているのだ。

もちろん、安楽死を制度化することに様々な問題や障壁があることは理解しているが、「安楽死」以外にこの安心感を与えられるものはない。緩和ケアは、あくまでも「死期が迫ってきた時に苦痛を感じずに逝けるようにする」ということで、死期を決められるわけではない。安楽死は、「自らの意思で死期をある程度コントロールできる(ある程度というのは、最終的に時期を決めるのは安楽死団体だ、という意味)」という点で、他のどの方法とも比較できない優位性を持っていると僕は感じてしまう。

とはいえ、ここから、二つ目のこれまで考えたことのなかったことを思考したという話に移るが、小島ミナという女性の生き様を通じて、現実的に死に直面した人間は、当然ではあるが、ここまで現実的に物事について考えるのだな、という感覚を強く抱いた。

本書には、小島が長いこと続けていたブログからの引用が多くある。底には、難病と診断されてからの彼女の思考が詰まっている。小島は、深い考えもなく安楽死という選択肢に行き着いたわけではない。様々なことを思考し、試し、訴え、記録する、という繰り返しの果てに、安楽死を決断した。

小島は、【末期癌だったら安楽死を選んでいないと思う】という発言をしたという。また自身の決断についてこうも語っている。

【お金がかかる、時間がかかり、そして自分の死期を早めている。悪い点だけです。でも、日本で安楽死を考える際の一つの懸案事項としてもらいたいから、私が今回、挑んでいるんです。スイスに行けば安楽死ができるから万歳と、そこまで単純ではないんです。どちらかというと、日本でできないからわざわざスイスまで来るという、一つの悪い例として分かってもらいたいんです】

こういう発言は、非常に理性的だし、小島という人物の深い思考力を感じさせる。著者自身も、小島のブログを読んで、

【彼女は生きることを諦めて安楽死を選んだのではない。様々な苦痛を抱えつつも生きることと向き合った上で、その意味を見いだせなかったと述べている。この二つには大きな違いがあるように思えた】

と書いている。

小島の思考と、それに呼応する著者の感覚は、「なるほど、そういうことについては考えたことがなかった」と感じさせるものが多く、そういう意味でも、本書はためになったと感じる。

「死」というのは、個人的なものでもあり、社会的なものでもあるから、非常に難しい。すべての「死」が個別的なものであり、その良し悪しを決めるということ自体がナンセンスだとも言える。そういう中で、社会的な合意を生み出さなければならないのだから、相当な困難を伴うと言っていい。しかし僕は、いずれ安楽死が、日本でも制度として認められることを願っている


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