【映画】「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」感想・レビュー・解説

理不尽には出来るだけ抵抗したい、といつも考えている。
それが自分を不利にする行為であっても、自分の価値観を脅かすような理不尽とは闘い続けたい、といつも考えている。

理不尽に抵抗することは、無益で労力が掛かる。
理不尽に呑み込まれてしまった方が、圧倒的に楽なはずだ。

しかし、「理不尽に呑み込まれたことがある」という事実を、自分の人生に含めたくない。
自分が、それが正しいと思ってやったことであれば、どれだけ世間から批判されようが、それを貫きたい、と思ってしまう。

しかし、実際にはなかなか難しいだろう。
身の回りの、狭い範囲の話だって困難を伴うのだ。
親、学校の先生、会社の上司、隣人。様々な人間が、それぞれの価値観に従って、何かしらの理不尽を要求する可能性を秘めている。そして僕らは、そんな小さな世界の理不尽にさえ、時として抵抗しきれずに呑み込まれてしまう。

それが、もっと大きな世界の話だったら、なおのこと難しいだろう。
この映画は、その恐ろしいほどの困難を成し遂げ、理不尽と闘い続けた男の物語だ。

ダルトン・トランボ。ハリウッドで最も高額な脚本家であり、つまりそれは世界で最も高額な脚本家であるということでもある。そして彼は、共産党員だった。
ハリウッドにも、共産党員を排除する動きが迫ってくる。「アメリカの理想を守るための映画同盟」という団体が、アメリカという国を共産主義から守るために、映画業界から共産党員を排斥しようと動き続けているのだ。
ダルトン・トランボを始め19名の映画関係者がワシントンへの召喚状を受け取り、内10名が聴聞会に足を運んだ。トランボを始めとする共産党員はその聴聞会において、議会侮辱罪で訴追されることとなった。
上訴すれば勝てる見込みが彼らにはあったが、しかし情勢の変化により、彼らは刑務所暮らしを余儀なくされる。出所後トランボは、ハリウッドのブラックリストを撲滅するために、「不可能だと思われていることをする」と、ハリウッドに奇策で反撃を仕掛けるが…。
というような話です。

非常に面白い映画でした。
ダルトン・トランボの凄さは、「ローマの休日」の脚本家である、という事実だけでも証明できるのではないだろうか。しかし彼は「ローマの休日」を別人の名前で出すしかなかった。「ローマの休日」はオスカー賞を受賞するが、生前彼は「ローマの休日」のオスカー像を手にすることはなく、彼の死後20年ほどして妻が受け取った。

それもこれも皆、時代のせいだ。

僕は冷戦当時の時代の雰囲気を知らない。だから、共産主義が危険視されていた理由も、イマイチよく分からない。映画関係者はことある毎に、「共産主義は身近な脅威だ」と語る。また時々登場人物たちが、「アメリカは偉大な国だ」という。アメリカの偉大さと共産主義の台頭がどう関係するのか僕にはよく分からないけど、時代の空気としては、偉大なアメリカを維持するのは共産主義は排除しなければならない、ということだったようだ。

しかし、トランボの口から語られる共産主義は、非常に平和的だ。

『お前は勝者として手を差し伸べろ。彼らにも稼がせてやれ』
『作るのは君たちだ。儲けは彼らが吸い取っている』

トランボは、正当に仕事をした者を正当に評価しろ、と主張しているだけだ。実に真っ当だと思う。また、娘に「私は共産主義者?」と聞かれたトランボは、こんな風に返している。

『じゃあちょっとテストをしよう。好物が入っている弁当を学校に持っていく。すると、弁当を忘れた子がいる。君はどうする?(シェアするわ)働けとは言わない?利率6%で金を貸さない?おぉ、ちっちゃな共産主義者だなぁ』

こういう考えが、当時は危険とされていたようだ。
もちろん、共産主義を危険視する人も、そういう意見を入り口をして、より過激な思想を持つことを恐れたのだろう。それぐらいは分かるが、しかしだからといって、共産主義的な考えを持つ人間すべてを排除しようとするのには理解に苦しむ。

『皆間違える権利はある』
『君たちは思考を罪とみなしているようだが、そんな権利はない』

トランボは、考え表現することの自由を脅かされていることそのものに怒っているのであって、その感覚は、少なくとも現代の視点からすると当たり前のことだ。しかしそんなトランボらは、共産主義を排除しようとする者から、『私たちが築き上げた映画業界を、彼らが汚しているのよ』などと表現されてしまうのだ。

時代が悪かった、というしかない。そして、そういう時代の空気みたいなものは、どんな時代にも存在する。現代に生きる僕らには、共産主義を殊更に排除しようとする風潮はおかしく見えるが、しかし当時の人にとってそれは比較的自然な価値観だっただろう。映画館から出てきたトランボに、問答無用でジュースを引っ掛けるような奴がいるのだから。しかし、そういう時代が囚われてる価値観というのは、僕らが生きていることの時代にも間違いなく存在する。そしてそれらは、多数派に属していればいるほど見えにくくなる。トランボがいた時代の空気に加担した者たちを非難するのは簡単だ。しかし僕らも今、何らかの空気の醸造に加担しているということを忘れてはならないだろう。

本書は、闘い方を教えてくれる作品だ。この点が一番面白かったと僕は感じる。

共産主義者として映画業界から排除されようとしているトランボだが、彼は偽名で脚本を書きまくるという闘い方を決断する。三流映画会社のクソみたいな映画の脚本を、仲間と一緒に書きまくったのだ。一日18時間、週に7日働くという、とんでもないスケジュールを、トランボはこなしていた。

仲間の一人はトランボに、やってられない、と訴える。悪いのは相手なのだから、裁判で闘おう、と主張する。しかしトランボは、その意見に耳を傾けない。トランボは、負け戦はしない。裁判をすれば、金が掛かりまくった上に、確実に負けることが、トランボには分かっていた。仲間の一人は、それでも正義のために闘うのならばいい、と主張して出ていってしまうが、トランボはトランボなりの闘い方でハリウッドを見返そうとする。


正義を貫くために正面突破したくなる気持ちも分かる。僕の中にも、そういう部分はある。正しいことなのだから、この主張が通らないのがおかしい、と主張し続けるために疲弊することも厭わないような精神が、僕の中にも少しは存在している。

しかし、そういう闘い方は、良い結果を生まないことが多いだろう。正義が必ず勝つというのは、それこそ映画の中の話だ。それがたとえ正義であろうとも、時代の大きな流れに逆らってその正義を通すことは容易ではない。

トランボは、書くことで闘った。トランボが偽名で脚本を書きまくったのは、チャンスを窺うためだ。それがどんなクソみたいな脚本でも、もしかしたら大当たりするかもしれない。今書いている脚本が大当たりしなくても、書き続けていればいつか大作を引き当てるかもしれない。一つ大作を引き当てれば、依頼は次々に舞い込んでくるだろう。

そうなれば、トランボの勝ちだ。

結局、素晴らしい作品に人は勝つことが出来ない。どんな思想も、どんな価値観も、どんな対立も、素晴らしい作品の前では無価値だ。トランボは、そのことをよく理解していた。書きまくってチャンスを窺い、ついにトランボは、「ローマの休日」に続いて再度オスカー賞を受賞することになる。「私の闘い方なら、奴らを倒せる」と言ったトランボの言葉は、現実のものとなったのだ。

トランボが、脚本協会賞みたいなものを受賞した時のスピーチは、最初から最後までとても良かった。特に好きな箇所を挙げてみる。

『ここでは、あの時代の英雄や悪者を探し出すつもりはない。英雄も悪者もいなかった。いたのはただ被害者だけだ』

『今ここに立っているのは、誰かを傷つけるためではない。傷を癒やすためなのです』

理不尽な圧力を受け、ハリウッドから追放されながらも、自らの才覚で這い上がったトランボ。彼はそれを、「私たちは名前を取り戻しだ」と表現したが、そんなしんどい人生を歩まされながらも、彼は誰かを非難したり貶めたりしない。これも、まさに共産主義的な考え方と言えるのではないか。誰もが同じで、仲間であると。お互いに痛みを分け合った者として、これからきちんとやっていこう。彼のスピーチからは、彼のこれまでの人生を貫く考え方が滲み出ているような感じがした。

トランボと家族の関わりも、とても良い。
トランボは、刑務所に入る前は穏やかで家族想いだったが、刑務所から戻ってくると、四六時中仕事に追われ、家族を怒鳴り散らし、家族にも無理やり仕事を強要するようになった。彼は、失われたものを取り戻すための闘いに挑んでいたが、しかしそのために、家族というもっと大切なものを失うところだった。

先のスピーチの中でトランボは、妻が家族をつなぎとめてくれた、と妻の苦労をねぎらった。まさにその通りで、妻の献身がなければ、トランボはとっくに家族を失っていただろう。妻がトランボに対し優しく苦言を呈すシーンと、その後に続く娘を迎えに行ったシーンは、非常に良かった。

映画のエンドロールで、実際のトランボがインタビューを受けている映像が流れていた。そこで彼が語っていた話も、家族との関わり合いを示すとてもいいものだった。
「ローマの休日」のオスカー像をもし手にしたらどうするか?と聞かれて、トランボはこう答える。

『私には13歳の娘がいる。3歳の頃に私がブラックリストをした。彼女は私が書いたすべての脚本のタイトルを知っている。しかし、今まで一つも口外しなかった。戦士だ。お父さんは何をしてるの?彼女はそう聞かれる度に危機に陥っていた。3歳の頃からだ。もし私が「ローマの休日」のオスカー像を受け取ったなら、彼女にあげるだろう』

時代の空気に背き、自らの信念を貫き通した一人の男が、仲間や家族と共にいかに闘い、名誉を取り戻していったのか。ドラマチックな人生に隠された様々な悲喜こもごもを描き出す、実に良い映画である。

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