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【本】伊藤朱里「きみはだれかのどうでもいい人」感想・レビュー・解説

なるべくいつも、相手の土俵に立とうと思っている。

人間の価値観や考え方は様々にある。そしてそれらには、やはり、何らかの理屈がある。言動だけ見ているだけでは分からない、本人にしか分からない何らかの理屈があって、その価値観が生まれている。殺人を犯した者は、「殺人を犯した」という事実によって、一般的には断罪され忌避される。しかし、その殺人に至った理由を知れば、「なるほど、それなら仕方ないと思えるかもしれない」という状況もあるはずだ。極端な例を出したが、日常生活でも同じだ。目に見える具体的な何かだけを見て、相手の理屈まで即断してはいけない。一応、常にそう思いながら生きている。毎回必ずそう振る舞えているのか、というと、そうではないのだけど。

【こんなに長々と自分はがんばったんだぞって痕跡を残すより、その時間でもっとやるべきことがあったんじゃないの?こんな冗談みたいな約束をするのがプロとして尽くせる最善策だったの?結局あなたはこの人じゃなくて、こんなかわいそうな人に同情してしまう優しくて感受性の強い自分っていうスタンスを守りたかったんじゃないの?方っておけば問題はそのまま風化して、なにもかもいつのまにか解決するとでも思ったの?】

登場人物の一人が、こんな風に内心で怒る場面がある。確かに、具体的に目に見えるものから、そういう解釈も出来る。しかし、そうではない解釈も出来る。人間は、本来は複数あるはずの可能性の中から、意識的に、あるいは無意識的にどれか一つを選び取る。自分のことを「正しい」と思っている人ほど、無意識的に瞬時にそれを選び取る。それは、ある場面では非常に有用な結果をもたらすだろう。しかし、別の場面ではそうとは限らない。

僕は、強く見える人にも、実際は色々大変なこともしんどいこともある、ということは分かった上で、それでも、強く振る舞える人は羨ましいと思う。でも同時に、そうはなりたくないとも思う。「強く見られる」ということは、いつだって、無意識の内に誰かを傷つけうる。もちろん、「弱く見られる」ということは、無意識の内に誰かに負担を強いることでもある。どっちがいいのか、という比較の話だが、僕はそれなら、「弱く見られる」方がマシだと思える。

【イノセントだから、弱いから、病気だから、理由なんか、なんでもいい。みんなと同じことができなくても、人よりつらく思えても、しかたないんだという烙印を押してほしかった】

人それぞれ、見ているものは違う。自分と相手が同じ土俵に立っている、という前提に立ってしまえば、いつでも間違えうる。そういう自分にはなりたくない、といつも思っている。

内容に入ろうと思います。
舞台は、地方のとある県税事務所。基本的な業務は、市民から税金を徴収すること。それは、税金を払っていないのに自分の正当性を主張しようとする様々な人間との戦いの連続であり、【人のストレスを受け止めてお金をもらっている】という感じだ。県税事務所のカウンターでも、「お客様」からの怒号が飛び交うような職場であり、必然的に働く者同士の間でも険悪な雰囲気になりやすい。
そんな県税事務所を舞台に描かれる、女性たちの人間模様だ。

「キキララは二十歳まで」
初動担当に所属する中沢環は、県庁に首席で合格し、出世街道を進んでいたのだったが、本人とは関係ない事情があって、この辺鄙な県税事務所にやってきた。彼女はもちろん、県庁に戻るつもりで、だからどんなミスも許されない、と踏ん張っている。仕事ぶりは誰もが認めるところだが、仕事が出来るが故に、周囲に対して「何故それができないのか」「そんな些末なことはどうでもいい」という雰囲気を感じさせる。
同じ部署に、須藤深雪というアルバイトの女性がいる。恐らく、元々何か病気を患っていたようで、そういう事情で仕事が出来ないのだと理解しつつ、ミスが多く気遣いが出来ないことに、中沢は始終イライラさせられる。

「バナナココアにうってつけの日」
染川裕未は、県税事務所の総務として働いている。誰からも嫌われている堀主任が上司で、みな堀主任に何かを頼むのを嫌がって、細々した用件を染川に持ってくる。彼女は、仕事はちゃんとやっているのだが、とある事情から、この県税事務所で働くことに負い目みたいなものを感じている。また、堀主任がルールに厳しい人で、そのルールを黙認してもらおうとして染川にやってくる仕事を受けてしまうことで、堀主任から小言をもらうこともある。
染川は、須藤に関心を持つ。自分と近い存在であるからだ。理由をつけて、須藤と関わりを持つようになっていく。

「きみはだれかのどうでもいい人」
田邊は、今はアルバイトだが、かつてこの県税事務所に配属されていた県職員だった。妊娠を機に仕事を辞めたが、久しぶりに戻ってきた。仕事はきちんとやっていて、ある種の責任の無さみたいな部分もあって、ひらりひらりと問題をかわしていく。また昼休憩中は、女性職員たちと陰口を叩きあい、その儀式によって、午後の働く気力を得ている。
中沢と同じ部署であり、当然須藤とも関わるが、田邊もアルバイトなので、須藤のミスを被るようなことはそこまでない。しかし須藤との関わりから、彼女はかつての同期のことを思い出す。往年のアイドルに似た、あの美しい同期のことを。

「Forget, but never forgive.」
堀は、自分が職場で毛嫌いされていることを理解している。しかしそのことは、彼女を傷つけない。自分の想定を上回るような陰口など、ないからだ。自分のことも他人のこともそこまで愛せずに生きてきた堀は、献身せざるを得なかった長い期間を経て、ようやく生まれた隙間の時間で、英会話教室に通っている。
総務であるが故に様々な役職を割り振られる堀は、ハラスメント防止推進委員でもある。不可思議な時期に行われたハラスメントの研修には裏があり、様々な人間が話を聞かれることとなった。
結果的に、須藤とある意味で深く関わることになってしまった彼女は、人生を振り返る。

というような話です。

とにかく、「上手いなぁ」という感想が真っ先にくる小説でした。著者は、1986年生まれ。それにしては、自分より年上の女性の描写も上手いなと感じさせられました。また、「人間の些細な嘘、発言、悪意」みたいなものから、様々な人間関係をあぶり出していく感じは見事だなと思います。須藤という女性が、ある種の中心に据えられているということが、この作品の肝で、須藤に対する感情によって、その人の価値観が浮き彫りになっていく形になります。

さらに、登場人物たちそれぞれは、須藤以外にも人間関係の絡まりを抱えている。中沢は妹、染川は彼氏、田邊は娘、堀は妹と、家族やそれに近い存在とちょっとややこしさを抱えている。そして、そういう人たちとの関わりが、職場での問題と少しずつ連動していく。僅かな振動が増幅されて大きくなっていくように、須藤深雪という、職場におけるちょっとした振動が、結果的に大きくなって、家族との問題に響いていくのだ。

その描き方の繊細さは、読みながらずっと感じていたのだけど、僕がそれを最も強く感じた場面がある。その場面を詳述はしないが、そこに登場するあるセリフを引用しておこう。

【あなたも現在進行形で戦っていることを、本当には、わかっていなかった】

この場面は、正直、凄いなと思った。これによって、須藤深雪という人物の輪郭が、さらに一気に濃くなったと感じたし、その事実に気づいたとある人物の親和性みたいなものもより強調されたように思う。そしてこの描写は、「僕たちももしかしたら、誰かが発しているSOSを常に見逃しているのではないか」という気分にさせられる。

いや、もちろん、まったく違う感想を抱く人もいるだろう。「何だそりゃ」で終わる人もいると思う。もちろんそれはそれでいい。そもそも、伝わるはずのないことなのだから。ただ、そういう伝え方しか出来ない人がいることも確かだ。僕自身、あそこまで極端ではないとはいえ、須藤深雪寄りの人間だという自覚があるから、分かるなぁ、と思う。つまりこれは、「相手に負担を掛けたくない。はっきりと口に出してしまえば、相手に何らかの対処を迫ることになる。でも、気づかない程度のものであれば、仮に気づいたとしても、無視できる。対応するかどうかを、相手の選択にできる。気づかなかった、ということを正当なものにできる。その方が、自分にとっても負担がない」ということだと思う。少なくとも、僕なら、そういう理由で、同じような行動を取るかもしれないと思う。

また、少し触れたが、本書は、強い人間の奥底にも、様々な感情がある、ということが分かる物語でもある。自然ににじみ出てしまうような強さ、つまり、自然体としての強さというのももちろんあるだろうけど、「強く見える人」の多くはきっと、「強く見せるという意思」によって成り立っているのだろうと思う。その意思が、誰に、あるいはどういう状況に向けられているのか、ということは、人それぞれだとしても。

本書はそんな風に、様々な立場からの見え方を見事に切り取っていく。著者自身がどういう人なのか分からないが、両方の側の有り様を、これほど適確に切り取っていくことが出来るというのは、凄いなと思う。

拾おうと思えば、もっと色んな場面に言及したい作品ではあるのだけど、最後に一つだけ。これも、具体的には書かないけど、ある人物の「他人の悪意とどう関わることにしているか」という態度が、自らを刺す刃となって戻ってくる場面がある。あのシーンも、凄いなと感じた。他人のことなんか別にどうでもいい、自分と自分が大切だと思う人さえ穏やかにいられればそれで満足。そういう態度でずっと人生を乗り切ってきた人が、自らのその態度が原因で血だらけになる。僕は、自分で体感したことはないけど、こういう怖さをあらかじめ予想している部分があるから、そうならないように振る舞っているつもりだけど。

この場面も、特になんでもないと思っていた描写が急に密度を持ったような印象があって、その鮮やかさに驚かされた。




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