【映画】「パピチャ 未来へのランウェイ」感想・レビュー・解説

【服装は関係ない。その偏見が、女たちを殺すのよ】

その通りだな、と思う。怖いのは、「偏見」を押し付けている側はいつも、その「偏見」に気づかないことだ。

だからこれは、90年代のアルジェリアの物語ではない。どの時代、どの地域にも起こったことがあり、これからも起こりうる、そういう物語だ。


とはいえ、そこに宗教が絡んでくると、ややこしくなる。宗教は、「止める者」がいないからだ(一応書いておくと、ここで「宗教」と呼んでいるのは、一般的な宗教だけではなく、特定の主義主張の元に集っている人や状態を指す)。

宗教を唯一止めることが出来る存在がいるとすれば、それは創始者だけだ。創始者であれば、その宗教が進んでいく(あるいは停滞していく)歩みと、止めることが出来るだろう。しかし、創始者がいなくなってしまえば、もう無理だ。残された者たちは、創始者の教えを解釈する。そこからは当然、宗教を止めるような解釈が導き出されることはない。だから、一度始まってしまった宗教は、外圧でも内圧でも止まらない。自然発生的に消滅する、ぐらいしか終わりはないだろう。

長い長い年月を経て存続している宗教であればあるほど、そこにはもっともらしい理由が付随する。不合理にしか思えないような振る舞いやしきたりにも、それらしく納得させるような装飾がきちんと備わっている。僕は宗教というものが好きではないからこういう言い方をするが、宗教というのは、思考を停止できる装置だと思う。何も考えずに従っていれば、ある程度の安泰が保証される。思考を停止することそのものを非難するつもりはない。そういう人間を好きにはなれないが、特別軽蔑もしない。人には、向き不向きがある。考えることが不得意な人には、宗教と寄り添うという選択肢は、決して悪いものではないと思う。

しかしだからと言って、自ら思考出来る人間の歩みを止めてまで、宗教を強要することは許されないと思う。

日本では、欧米ほどには宗教色が強くない。その理由は、日本人の信仰の基本が八百万の神だから、という話を何かで読んだ記憶がある。日本人(アジア人がそうなのかもだけど)は、森羅万象、つまり、木や石ころなど色んなものに神様が宿っている、つまり、そこら中に神様はいる、という考えが基本にある。だから、欧米のような一神教と馴染まないのだ、と。一神教を信じるということは、唯一の神様の存在を信じることになり、つまりそれは、他の神様を否定すること繋がる。やはり僕は、ここに諸悪の根源があるなぁ、と思う。

八百万の神という感覚がある日本人の場合、「何かを信じていないこと」は特に何も問題を引き起こさない。しかし、一神教が浸透している場合、「何かを信じていないこと」は、「私が信じている神様のことも信じていない」と受け取られてしまうだろう。だからこそ、そこに容易に対立が生まれてしまう。

世界が今と比べて圧倒的に狭かった時代には、宗教というのは生活に欠かせないものとして上手く機能したのだと思う。そこがどんな場所であれ、生まれたその場所で生き続けなければならなかった時代には、様々な価値観や個性を持つ人間同士がそれなりに平和に暮らしていくために、宗教的なルールが良い役割を果たしただろう。そして、その機能を維持するために、時には、理不尽にも思える偏見を押し付ける必要があったかもしれない。

しかし、時代は変わった。僕は、世界が狭い人間を非難するつもりはないが(僕自身も、世界の狭い人間だ)、今の時代においては、世界の狭さはある意味で、自らの選択の結果だ。もちろん、あまりの理不尽により選択すら叶わないという境遇に生きている人も大勢いるだろうが、大体の人は、勇気や努力やちょっとした運があれば、どんどん広い世界に飛び出していける。そういう時代にあって、狭い世界に生きる人は、敢えて自らそういう決断をしている、と判断されて当然だと僕は思う。

世界の狭い人間には、今も宗教が果たす機能は有効だろう。その範囲内で生きていくことは何の問題もないし、宗教に寄り添うことで穏やかに生きていられるのならとても良いことだ。しかし、そのことと、他人に宗教を強要することは、やはりイコールではない。あり得ない。

【国を出る必要はない。
私はここで満足している。
闘う必要があるだけ。】

「ファッションショー」という彼女の“闘い方”は、それだけ聞くと、ちょっとミニマムなものに感じられてしまうかもしれない。しかしそれは、恐ろしく長い伝統を持つ宗教と真っ向から立ち向かうことになる、とんでもない闘いなのだ。メチャクチャかっこいい。

内容に入ろうと思います。
舞台は、1990年代のアルジェリア。国内の治安は、非常に悪化していた。テロが頻発し、街中のそこここで爆発がある。ニセの検問所で人が殺されたり、ヒジャブ(女性が顔を隠すために着用すべきとされている布)をつけていない女性が襲撃される事件も多発している。
そんなアルジェリアで生まれ育ったネジュマは、特技を活かしてオーダーメイドのドレス作りをしている。受付場所は、ナイトクラブのトイレ。親友のワシラと共に夜な夜な学生寮を抜け出してはクラブに通い、寮内でも大騒ぎして過ごしている。もちろん、ヒジャブなんかつけるはずもない。自らの主張をはっきりとする女性で、「女性の正しい服装」と書かれた、ヒジャブをつけることを促進するポスターを貼っている男性に噛み付いたり、バスの中でヒジャブをつけるよう要求されると、バス停ではないところでバスを停めさせて歩いて帰ったりする。アルジェリアでは宗教的に、「女は家から出ずに信心深く暮らせ」とか、「金曜日に女が集まるのは禁止されている」など、ネジュマからすれば理解不能なことを言ってくる大人たちがたくさんいて、苛立ちと共に日々やりあっている。姉のリンダはジャーナリストで、ネジュマは「危険だよ」というと、「安全な場所がある?」と返す。それぐらいアルジェリアの状況は悪化しているということだが、それでもネジュマは、家族や友人たちと楽しい日々を過ごし、ファッションデザイナーになるという夢も追うことが出来ていた。
しかし、ある出来事がきっかけで、ネジュマは決意する。ハイクという布だけを使ったファッションショーを行う、と。彼女たちはそのための準備に奔走することになるが…。
というような話です。

原作があるのかどうか分からないけど、この映画は、事実から生まれた物語、なんだそうです。恐らく、ネジュマにモデルがいる、ということでしょう。

とにかく、ネジュマが非常に力強いキャラクターで、観ていて爽快な気分になりました。もちろん、ネジュマたちが置かれた状況はなかなかにハードなのだけど、ネジュマはそのハードさを楽しんでしまうような、そんな強さがあるなと思いました。それもあってか、アルジェリアの治安は日増しに悪化しているのに、少なくともネジュマはアルジェリアの外に出たいとは考えていない。酷い環境だし、日々イライラさせられるけれども、それでも私はここで生きていく、というような決意と共に、日々の日常を歩んでいる女性だなと感じます。

ネジュマの闘いは、もしかしたら、「たかが服装」と思われてしまうものであるかもしれません。でも、「たかが」と思われてしまうことだからこそ、むしろ問題の本質を衝いているとも言えるかもしれません。より大きな問題、つまりテロや貧困や虐待などは、言い方は悪いけど、きっと時間が解決するでしょう。誰が見ても、解決しなければならない問題だと感じるだろうし、外の世界にそれが知られれば、外の世界から解決策がやってくる可能性があるものです。

でも、ヒジャブに関しては、恐らくそうはならないでしょう。何故なら、「たかが」だからです。命に関わるわけではないので、外から解決策がもたらされることはまずないでしょう。だからこそ、内側にいるネジュマたちの奮闘に価値が出てくる、と僕は感じました。

ファッションショーという闘い方は、闘いというよりは単なる抵抗かもしれません。でも、誰も声を上げない(上げられない)世界の中で、ささやかでも抵抗し続けるということでしか解決しない問題もあると思います。

しかし、ファッションショーを開く(しかも、市内のどこかでやるわけじゃなくて、寮内のカフェテリアで行う)という”だけ”なのに、ネジュマが立ち向かわなければならない現実の壁の分厚さたるや。1990年代と言えば、たかだか20数年前です。ほんの少し前の時代です。そんな時代でさえ、ただファッションショーを開くというだけのことに、これほど苦労させられなければならない現実が存在する、ということに驚かされました。

こういうレジスタンスは、今も世界のどこかで、名もなき誰かが、孤独と恐怖と共に繰り広げていることでしょう。僕は、こうやって映画を観たりして、そういう闘いを少しずつ知るぐらいのことはしていきたいと思います。

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