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【本】中脇初枝「わたしをみつけて」感想・レビュー・解説

僕も、全然いい子じゃなかった。


周りからはきっと、いい子に見えていたと思う。そう見えるように意識していたから。学校でも、家でも。どんな場所でも僕は、優等生だった。


でも、それは、嘘だった。

『自分がほんとはいい子なんかじゃないことを、わたしは知っていた。
いい子のふりをしていただけ』

何であの頃僕は怖がっていたんだろう。山本弥生は、自分が捨て子だったから、もう二度と捨てられたくないと思ったから、いい子のフリをしていた。

『そんなこと知っていた。一度だけ、ほんとの気持ちを言ってみただけだった。
その一度きりで、自分がいい子じゃなければ、受け入れてもらえないことを知った。
だからこわかった。
わたしがほんとはいい子じゃないとわかっても、おとうさんとおかあさんは、わたしを捨てないでいてくれるんだろうか。
いい子じゃなくても、わたしのことを捨てない?』

僕は、何を怖がっていたんだろう。


今の僕には、昔の僕が不思議に思える。今の僕は、周りからの評価を、ほとんど気にしなくなった。自分がどう見られようとも、特にどうとも思わなくなった。嫌われていようと、好かれていようと、別にそのままの自分でいられるようになった。


子どもの頃の僕は、何を恐れていたんだろう。


初めにちょっとだけ背伸びしたことが、すべての始まりだったのかもしれない。「いい子」と言われることが、誇らしく思えるような時期があったのかもしれない。

『准看だけど、しっかりしてる。
准看だけど、仕事ができる。
わたしを形容する言葉はいつも同じ。
弥生ちゃんは捨て子だけど、いい子ね。
弥生ちゃんは捨て子だけど、優しいね。
こどものころは、いつもそう言われていた。』

そこから外れることが怖かったのかもしれない。いつの間にか僕は、「いい子」という枠に押し込まれていた。そして、そこから出るのが怖くなった。

『ひとは慣れたことをすることに長けていく。
明日も明後日も同じことが続くと信じている。』

そうやって僕は徐々に、「いい子」の枠からはみ出せなくなっていった。

『結局、ひとなんてみんな同じ。
自分のことしか考えていない。』

僕は、誰かのことを考えるフリをして、自分のことを考えるのがうまかった。誰かのためと言いながら、自分のことに引き寄せるのがうまかった。もしかしたらそんなこと、あっさり見ぬかれていたかもしれないけど。
弥生も、同じだ。

『わたしは口にしなかっただけ。みんながささやく以上に、冷ややかに神田さんを見ていたのに。
わたしのどこを探したって、そんな優しい気持ちなんかない。』

自分のことしか見ていなかった。自分のことだけで、精一杯だった。自分のことを一番見ているのが自分だった。もう一人の自分の視線が、他のどの人の視線よりも怖かった。もう一人の自分に、うまく言い訳するので精一杯だった。もう一人の自分の視線をはねのけて、自分はちゃんとしていると思い込みたくて必死だった。誰かのことを考えている余裕なんて、どこにもなかった。それは、今でもあまり変わっていないかもしれない。

山本弥生。三月に生まれたから弥生なんじゃない。三月に捨てられたから弥生。本当の両親も、本当の名前も、本当の誕生日も、わたしにはない。それは、どんなに望んでも手に入らないものだった。


ずっと施設で育った。ずっといい子と言われて育った。それは嘘だったけど、でも、いい子でいるしかなかった。二度と捨てられないためには、いい子でいるしかなかった。


働きながら勉強し、准看の資格を取った。以来、ずっと同じ病院で働いている。権力を笠に来て改めようとしない医師、腰掛け程度の気持ちでしかない同僚の看護師、「看護師さんは泣かないのね」と言葉を突き刺してくる患者。


でもいい。わたしはここで生きていく。誰にも、捨て子だって知られたくない。誰にも、掛け算が出来ないって知られたくない。今は、ここにしか居場所がない。だからわたしは、ここで生きていく。


人と人はわかり合えない。生まれてきた背景も、生きてきた環境も、全然違う。違う生き物だと思った方がいいかもしれない。わかり合えなくて、当然だ。


でも、同じカタチをしているから、勘違いする。同じ言葉を話しているから、期待したくなる。わかってくれるかもしれないと思いたがる。
信じたくなる。


その“信じたい”という気持ちが鎖となって、自身を苦しめる。その鎖は、自分自身の希望の現れだ。信じたいという気持ちの強さが、鎖となる。その希望が、体に巻き付いていく。身動きが取れなくなっていく。そうやって、“信じたい”という気持ちが、心を縛り付けていく。

『愛されたい。
その思いが伝わらない。』

弥生にはそういう生き方しか出来なかった。それは仕方ない。誰だって生まれてくる境遇を選ぶことは出来ない。


弥生の不幸は、その生き方を肯定してくれる人に出会えなかったことかもしれない。まったくいなかったわけではない。施設には、弥生の気持ちをわかってくれる人もいた。でも、ほとんどそういう人に出会えなかった。みんな弥生のことを「いい子」というフィルターを通してしかみなかった。そういう生き方を選ばざるを得なかった弥生の境遇については、考えることはしなかった。


でも、それも仕方ないことなのかもしれない。弥生も、言っている。『結局、ひとなんてみんな同じ。自分のことしか考えていない』 みんな、自分のことで精一杯なのだ。「いい子」というレッテルが貼られている弥生について、思い巡らす余裕はなかったのかもしれない。それも、仕方ないことなのかもしれない。


本書には、菊池さんという初老の男性が登場する。物語は中盤以降、この菊池さんと弥生のやり取りを軸に進んでいくことになる。

『わたしはこの年まで、まだ病院の厄介になったことがないんだよ。きみたちの商売に貢献できなくて、わるいねぇ。』

初めて会った時弥生はそう言われた。菊池さんは、弥生とは正反対の人だった。自分の生きざまに自信が持てず、常に自分のことばかりしか見て来なかった弥生。対称的に菊池さんは、自分以外の誰かのことばかり考え続けて生きてきた人だった。


菊池さんに出会い、話をすることで、弥生は、それまでの人生で体中にびっしりとつっくけてきた氷が、少しずつ溶かされていくようだった。これまで誰にも、きちんと肯定してもらえなかった弥生。だからこそ、今日に至るまでずっと「いい子」という枠から出られないでいた弥生。その彼女が、菊池さんの人柄に触れ、言葉を聞き、「菊池さんに嘘はつきたくない」と思うことで、少しずつ変わっていく。「無償の愛」という言葉があるが、菊池さんは「無償の肯定」が出来る人だ。陳腐な表現だけど、まるで陽の光のように、燦々と降り注ぐ。誰の元にも、平等に。


そんな菊池さんは、もう一つ別の、誰の元にも平等に降り注ぐものに喩えて、弥生の不安を溶かしていく。

『きっと見なくていいものというものもあるんだよ。津軽の雪みたいにね。津軽の雪はすべての上に降る。平等にね。りんごの木にも、くずれかけた茅葺きの家にも、うちのとうちゃんとかあちゃんの眠る墓にも』

『みんな覆って隠したほうがいいことだってあるんだよ。見えないものは見なくていいんだよ。』

菊池さんのあり方は、素敵だ。とてもじゃないけど、こんな風には生きていけないと思う。僕は、弥生と同じだ。菊池さんに嘘をつきたくなくて、話題を用意してから病室に入る。そんな弥生と、僕は同じだ。


弥生の勤めている病院の看護師長が変わることになる。新しくやってきた藤堂師長も、弥生の生き様に影響を与えていくことになる。

『自覚してほしいの。看護師の仕事はなに?医師にしかできないことがあるとすれば、看護師にしかできないことがある。わたしたちはそれをするためにここにいる。わたしたちはここにいて、わたしたちにしかできない仕事をしなければいけないの。ここで、わたしたちにしかできないことを、一緒にやっていきましょう』

藤堂師長の印象は、なんて大きな人なんだろう、ということだった。それは、優しいとも、冷たいとも違う。怖いとも親切とも違う。とにかく「大きい」としか表現のしようのない存在感。


藤堂師長は、その小さな小さな体に、とんでもない大きさを秘めている。正しいものが何か、きちんと見失っていない。全力を尽くす場面がどこなのか、履き違えていない。そして、それを押し通すことで発生する周囲との軋轢に億しない強靭さがある。男女問わず誰もが、藤堂師長のようにありたいと願うのではないか。これほど嫌味なく、「正しいこと」が出来る人はいないかもしれない。「正しいこと」に飛び込む勇気を持つことが出来る人は、いないかもしれない。

『本当の自分はこうじゃないと思っていませんか?本当の自分はこうじゃないんです、と、よくひとは言います。じゃあ、どういう自分になりたいのか。本当の自分はどこかに転がっていたりはしません。なりたい自分の仮面をかぶらないと、永遠に本当の自分はこうじゃないと思いつづけるだけになります。』

藤堂師長が言うからこそ、この言葉はさらに重みを持つ。いつでも微笑み、正しさに向かって全力で走り続けるその姿は、仮面をかぶり続けたからこそ生み出されたものだ。弥生は、その事実に、救われたかもしれない。本当の自分を誰かに肯定してもらうことではなく、仮面を被った自分を誰かに肯定してもらえること。それだけで、凛とした生き方が出来る。そう、藤堂師長に教わったはずだから。


著者は、人間や情景をワンシーンで切り取るのが実にうまい。

『施設にはこういうものはない。花を飾ったり、絵を飾ったり、そういう実質的でないものは置かれていない。必要のあるものだけでまわりは埋められる。すべてのものには帰るところがあり、使っているとき以外は、すべてのものがしまわれている。
白い花瓶を見上げて、わたしはうれしくなった。この家で、この花瓶のように、大事にしてもらえると思った。冷たい水も入れられず、切られて腐って枯れていく花をおしこまれることもない』

『わたしは、これまで何万回言ったかわからない言葉を、上着を持って、診療室を出ていく患者さんの背中に投げかけた。
言った回数の分だけ、薄まった言葉。これまで、すべてのひとに、均等に、平等に分け与えてきたから』

鋭い一閃で、描写をブワンと切り取る。その切り取り方が素敵だと思う。武道の型や、将棋の定石にはないようなスタイルで、その一瞬を切り取っていく。それが、言葉を費やさずに、人物を、情景を、鮮やかに色付けていく。
カメラを切り替えるようにして短い断片・文章をつなぎ合わせていくスタイルも、作品の雰囲気をもり立てる。サスペンスのようなスリリングな物語なわけではないのだけど、カットバックのような切り替えの早い手法で物語を描くことで、作品に緊張感が生み出されていく。それはまるで、これまでずっと緊張感から解放されないまま生きてきた、弥生の生き様そのもののようだ。口から出ないたくさんの言葉が、口から出る直前で引き返し、一つところに降り積もっていく。


「きみはいい子」と同じ町で繰り広げられる日常。見えないどこかで、暴力が、悲鳴が、哀しみが折り重なっていく。誰かの目に留まるのは、ほんの一部でしかない。こちらの物語からは、「きみはいい子」で描かれた神田くんの姿がちらりと見えるだけだ。同じ町の出来事でも、ほんの欠片しか見ることが出来ない。考えすぎかもしれないけど、この二つの作品は、そんなことも訴えかけているようにも思う。


そんな風にしか生きることが出来なかった一人の女性の、心の奥底に降り積もり続けた言えない言葉。それが、偶然の出会いによって溶かされていく。じわりと染みこんでくる鋭い言葉と、緊張感を生み出す描写が、弥生という一人の女性の輪郭を鮮やかに立ち上げていく作品です。是非読んでみてください。


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