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自由創作五作品【12/25文章会レポート】

こんにちは。文学研究会です。今回は12月25日に駒場キャンパスにて行われた文章会(小説や詩を持ち寄り、評価・感想を交換する会)の様子をご報告いたします。東京大学文学研究会の雰囲気を知る一助となれば幸いです。
 今回の参加者は6名で、5つの作品を扱いました(うち3作品は全文公開です)。

参加者一覧
S.S. 中村 鯉登 Rm P ほりうち

小説『アフターライト』 中村

作品の全文はこちらから。

S.S.
作り込まれた世界
学校と社会制度の関わりが良い
どのくらい構成時間がかかったのか
 →駒文作っている時には世界観が出来上がって、熱を出した時に五日間で書いた(中村
※「駒文」とは東京大学文学研究会が発行している同人誌「駒場文学」の略称

この長さで設定を伝えて完結させたのが素晴らしい

何が書きたかったのか
 →祈りと名前の関係、青春っぽい届かない思い(中村

鯉登
 
コンセプト(お互いの名前を呼ばないことが許される男女の関係)はいいが、もっと変化や山場が欲しい。主人公の性格をもっと知りたいと思った。

ー場面を学校に限定しているのは、主人公を相対化したかったから。中学生は視野が狭く、別のところにコミュニティがない(中村
ー中二の頃の話とかいれてもいい(ほりうち
ー冒頭「彼女が僕の名前を知ったなら…」の部分、そこまで推測できるか?(ほりうち
ー特に決めずに考え出した(中村
ー冒頭が浮いている。とくに固有名詞がごつい(鯉登、ほりうち
ーSFぽい言葉は無理して使う必要がないかな(Rm
ー担任のキャラクター、悪役の型にハマりすぎている。手のひら返しにびっくり
ーそこは主人公のバイアスが掛かっている。見方を変えればそんなに極端な先生ではない(中村
ーレグルス好きだけど、後半迫ってくるのは急(鯉登
ー外部の視点導入、主人公を相対化させるイベントが欲しかった(中村

P
設定の説明が綺麗。さりげなく設定を吹き込んでいたところが良い。
特殊な空間で小説を書くとき、設定をどう読者に理解してもらうか。
 
三十年前の小説が規制されている設定の意図は?
→名前を決める前後で読むものが変化するだけなのか?

ディストピア感は必要だったのか?
→主体性の尊重が強制される不自由な社会。
→名前をつけることは一つの例か
 
他人に名前をつけられることが自由意志の侵害になるという新法の元で、自由意志に苦しむ人を描く点に強いテーマ性やアイデンティティの揺らぎを感じた。

もっと端役にも人間性があっていい。

ほりうち
 設定が面白い。名前だけでなくことばによって何かが決まってしまう感じに共感。あらというほどのあらはない。最後、僕と彼女の話や、「矛盾に満ちた祈り」のところが良い。他の人より「僕」は名前への意識が高く、それ故名前を付けられない。「僕」こそ一番名前に意味を見いだしている。
 僕と彼女の関係がことばで表されることで失われてしまう(友達、恋人)。
 最後に双方名前を付けてしまうところの是非までは読み込めていない。

Rm
内容が面白い。
①普段小説を書くときに、人物を描くプロセスと、「アフターライト」において主人公が名前を選択するという設定がリンクしている。
②名前を付ける現実を受け入れる主人公が儀礼を通過する様子が、青春ぽい描写と対比されていて良い。

その上で指摘するならば、
①作者の考えが文体に(時には不自然に)表出していること
②書きたいことにたどり着くために、主人公の周りの人物が一面的にしか描かれていない?
 →一人称小説で、主人公を相対化することの難しさを感じた。

中村(作者コメント)
現実世界の延長として書いた

環境、才能、親ガチャ
→どこまでが自分の主体性なのか?
→名前は与えられるのに自分の人生を左右する

インターネットの匿名性が背景にある大きな問題
→この世界に匿名はない
→顔も知らないのに名前は知っているという関係性が一般化
→名前は自分で決めるべきだという思想
→稀代の悪法、新法

 過度に自由意志を尊重することで不自由な人が出てくる
→「過去の芸術作品は自由意志が希薄である」という理屈で規制されている。

今のディストピアはもっと穏やか。支配、被支配がお互いになされる。

完全に主体的にはなれない(李

この世界から偶然が消えていく、全てが制御できる世界が来つつある。それは怖い。偶然性に頼ることも必要なのではないかと思っている。

問いに晒され続け、暫定的な解を出し続けることが大事だと思っている。
名前はつけるが世界には屈しない。

小説『眠る男』 S.S.

作品は非公開です。

鯉登
 図書館の地下=自分の心の奥?
 心の奥に眠ってるかつての純粋な自分を思い出す。(もしかしたら、旅先の図書館で幼い頃に読んだ本を見つけてしまったのでは)
 人称が混濁するのはいいと思う。ただ、文体が人称で変わらないので、最初は間違いかな?と思ってしまう。
 子供たちの声から幼い頃の話へ、という展開が少々強引。書くエピソードの順番に注意。
 シーツのしみを、アキラと眠る男を繋ぐ関係性の象徴にするのが最高(消えてしまうしみが白いシーツに残る感じ)。
 もっと男の特徴とか魅力を書いて欲しかった。

中村
 一人称と三人称が、アキラと男の境界が曖昧になり、飲み込まれる。
 眠る男は自分の一部、届かない存在として描かれている。
 そのままの自分を肯定して、現実へ戻る。対話をしないのが良い。
 部屋の明るさがわからなかった。

P
 文体が綺麗だった。
 空間の不思議さが良い「このしんとした空間ですべてを沈黙することに決めたようだった」
 旅先の図書館という設定が不思議。なぜそうしたのか。

Rm
 対比的な自分の存在に悲しみを覚えて去っていく構成が好き。
 人称を混ぜ、読者を混乱させることはいいが、雰囲気は変わっていない。人称を変えたなら、語り手の個性を出してほしい。
 「鴨川」固有名詞は限定する。ここで指定する必要はない。

ほりうち
 図書館という空間設定が面白い。図書館とはエモい感じになってしまう場所。図書館はずっとアキラにとって懐かしさの象徴的な場所で、それが旅先にやってくるのは面白い。
 幻想小説的な感じが面白い。冷蔵庫など、部屋の描写が好き。
 「子供の声〜」のところは気になった。アキラと彼以外の人物がこの空間にいるべきではないのではないか。子供という第三者が介入すると、幻想小説的な空間が壊されるのではないか。
 寝顔の描写は良かったが、「栗色」に引っかかった。「彼」の外見の描写は、むしろ入れない方が想像が膨らむのではないか。普通の小説の描写に近づいてしまうから。
 いい感じだと思いました。

S.S.(作者コメント)
 曖昧な人称について
 完全な一人称も三人称も難しい。結局混ざった。
 三人称を使うと、言説が正解になってしまう感じがする。
 読んでいて一人称だけだと不安になる。なぜだろう?
 主観的すぎるから?(中村
 一人称だけだと、広がりがなくなる。
 スポットライトが一個しかないけど、三人称は説明できるのがいいよね(中村
 部屋の明るさ、中の描写、外からの刺激を内部と対比させて描きたかった。
 シーツのしみは、まず眠る男は泣かせようと思ってた。でも、最後に書きすぎて全体の動きの少なさが崩れるのがいやだった
 見どころを作りたい。目の前に男はいるけど、何が起こっているんだろうと言う怖い場面を作りたい。わかんないけど誰かいると言うのは分かる。

 書き手と読み手の差を文章会で知ることができた。

シナリオ『兄たちの夕暮れ』『花咲け!』 鯉登氷瀑

作品の全文はこちら。

S.S.
 場面を書き、セリフ書く、というシナリオの形式がいい。小説もこうだったらな...…。最後「……嫌いです!」がいい。

中村
ダメなおじさん、いいね。

名は体を表す。なかなか小説ではできない。
 
名前どうやって決めてるの?
 →発音して音の響きで決める+漢字の意味。聞き分けやすいよう同じ音の響きをさせない(鯉登

P
兄たちの夕暮れー場面説明から台詞への流れが反復されていて面白い。家具などとディテールをどこまで書くか。自然な会話でいいなー。茂助の骨太さ、それを感じている孝太郎の関係が伝わってくる。
花咲け!ー家具などのディテール。時系列じゃない(水やり→顧問任命)ところが面白い。

ほりうち
日常ではあるけれど小説には記されないような、細かい動作の表現が面白い。そういう映像的な表現、場面描写の細かさがシナリオの面白さ。(「コーヒー冷めちゃうから」など)


ちゃんとできてるなぁ(茂助のダメだけど魅力的な描写)
花咲け←ベタではあるが、この短さでやるならしゃあないし、よくできてる。ディテールの描写で水瀬の性格を表せてる
ただ、夕暮れの「息子の勉強」って言い回しにちょっと違和感
息子って書かないと優助と孝太郎が親子だとわからない。地の文がないシナリオ故の難しさ(茂助が父と誤解される)(伊豫

鯉登(作者コメント)
 指定されたテーマがあり、与えられた字数の中で書く課題だった。
「兄たちの夕暮れ」は「魅力的な伯父」というテーマ。いかにして人物関係を台詞でわからせるか、魅力とは何か、がポイントだった。
「花咲け!」は「出会い」というテーマ。テレビドラマ第一話の冒頭をイメージして、水瀬となずな、それぞれに魅力が出るように頑張った。

小説『マルコ』 Rm

作品は非公開です。

S.S.
 自分だけ見える霊、ペットは感情が分からない→動物を霊にするのが斬新
 死に際の後悔・違和感から出てきたのかな、と考えるが、それを社会問題として捉えるか個人的な問題として捉えるかが分からない。そこを明確にして深堀りするべき。難しい問題ではある。
 単純に犬が可愛い。家庭内のことももう少し知りたい。すっと読めるのはすごい。

鯉登
 
話の質感がRmくんらしかった。墓から家までにゆったりと近づいてくる流れがお気に入り。ただ、そこから急に家庭の説明描写が入るところが惜しかった。流れが断ち切られてしまったように思う。

中村
 毎回文章・話の関係がうまい。35歳の大人の夫婦を書くのが斬新だが、違和感がないのが良い。犬に魅力がないと成り立たないが、ちゃんと可愛く描けている。マルコだと分かるところの演出。なぜこのタイミングで分かるのか。
 二十年間ずっと墓参りするのすごい。マルコの存在は記者になるために重要だったのにもかかわらず、記者を辞めたのが分からない。斎木の役割が分からない。
 細かいミス。重苦しい空気が唐突。有明月。陽子に臭いが分かることの意味。少し展開がテンプレかな。小っちゃくなってゆく下りが食べ物の比喩。手首の痛み=精神の苦痛の表現だが回収されない。

P
 
浩介が変わらずにくすぶったまま終わる。汚さを抱きしめる下りを読み落とすと違和感がある。最後はご都合だけど悪くはない。
 関西弁、思ってたより違和感ない。

ほりうち
 たかたか、つかたか、がすごい好き。犬が可愛くないと駄目だし、晩年の徘徊の記憶とも繋がっていく。中々出てこない。羽毛の着地の描写、子どもの下りなどの伏線。話し子組み立てが上手いし、文も読みやすい。
 疑問としては、斎木の下り。整理部で飼い殺しだったところと、そのあと否定されている気がする部分は接続が悪い。
 小っちゃくなってゆくのは面白いが、夢っぽくもあり、それがよい。獣臭さのところは都合良い。獣臭さ自体はチョイスとして悪くない。

*  *  *

 文章会の活動報告は以上です。東京大学文学研究会は、活動参加希望を常時受け付けております。諸連絡はTwitter(@toudai_bunken)のDMやメール(bunken_u_tokyo@yahoo.co.jp)までお願いいたします。

編集後記
 
文章会からの帰り道、商店街を歩いているとホームレスらしき身なりのおじさんが私を追い越していきました。彼は両肩から大きなゴミ袋を下げ、中には丁寧に潰された大量の空き缶が入っていました。靴底は半ば剥がれ落ちており、歩くたびに彼の赤い踵が覗いているのが印象深く、冬の寒さを際立たせていました。その時の私はそう感じました。
 しかし、家に帰ってから思い返してみると、彼の姿はサンタクロースそっくりであることに気がつきました。トナカイの代わりに青い台車を転がし、鈴の代わりに空き缶を鳴らしていたのです。
 プレゼントを配るサンタがいるのなら、ゴミを回収するサンタだっていてもいいじゃないか。

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