極限状態における食

1.はじめに

 小学生時代のことなので1970年代のことだと思う。テレビ番組で「本能」という言葉が紹介されていた。番組では、本能は動物の遺伝子に組み込まれたプログラムで、誰かに教わらなくて自然に生じる行動および衝動だと説明されたように記憶している。生まれたばかりの馬が誰かに教えられたわけではないのに立って走り出す、なわばりに敵が近づいてきたら逃走するなどの行動は本能的な行動とされていた。
 テレビ番組では「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」が、人間の本能の核となる三大欲求だとされていた。私が印象に残っているのは、「人間は本能の欲求から逃れることができない」ということである。「眠い」という本能は自然に生じることであり、我々はその本能による衝動にあらがうことができず、睡眠欲が生じれば眠ってしまう。思考が未熟だった私はこのような本能という考え方を実感として受け入れていたように思う。おそらく当時の多くの人も私と同じように本能という考え方を受け入れていた。「~欲によって~した」というような言い回しがテレビ番組を中心によく使われていたように記憶している。
 三大欲求を本能として受け入れた理由としては、個々人が実感していたというだけではなく、三大欲求が「種の生存」や「種の保存」といった「進化論」の主張と一致するということも理由としてあげられる。
 人間は自分の身体の内部で栄養分を自給することができないため、外部から食物を摂取する必要がある。食欲は食物摂取の重要なトリガーとなる。おそらく食欲がなければ人間は食物を摂取しない。睡眠についてはまだ不明なことが多いが、少なくとも脳と身体の休息を目的としていることはわかっている。脳を有するほぼすべての動物は睡眠する。睡眠しなければ動物は正常に生きていけない。睡眠欲は食欲と同様に動物が正常に生きていくために必要なトリガーになっている。このように食欲と睡眠欲は「種の生存」にかかわる本能である。
 性欲は周知の通り、生殖活動のトリガーとなっている。生殖活動を行って子孫を残さなければ種は保存されない。進化論を唱えたダーウィンにしたがえば、「種の保存」は動物にとっては最優先事項であり、性欲は動物にとって必要不可欠な本能ということになる。
 このように本能は、人間が動物である以上、人間にとって抗いがたい欲求ということになる。確かに人間以外の多くの動物は本能による欲求(プログラム)にしたがって行動しているように思われる。しかし人間はどうだろう。人間は他の動物のように本能に抗えないのだろうか。
 例えば性欲が人間にとって抗えない本能だとすれば、性欲が生じた人間は時間や場所、状況に関わりなく衝動にしたがって性行為を行うことになってしまう。また性欲が子孫を残す生殖行動と直接結びついているとすれば、いわゆる避妊は行わないはずである。しかし実際には、性欲にしたがって時間や場所、状況に関わりなく生殖行動を行うという事例はほとんどなく、時間や場所、状況を考慮して行われ、必要に応じて避妊も行われている。さらに性欲を利用した性産業が古代社会にも現代社会にも存在する。産業として成立するということは、性欲はコントロールされてきたということになる。性欲は抗いがたい本能による欲求ではなく、人間の力によってすなわち文化的にコントロールされた衝動になっているということである。
 性欲については21世紀になって新しい兆候が見られるようになった。性欲という衝動自体をもたない人間の増加である。特にいわゆる先進諸国では性欲を感じずにセックスレスになっているカップルが増加した。性欲は睡眠欲や食欲とは異なり、人間の生存そのものには直接関係がなく、性欲がなくてもその人間が死ぬことはない。しかし性欲のない人間が増加すると生殖行動が行われなくなり、人口が減少することになる。実際先進国では人口が減少している。
 睡眠はどうか。2022年上半期、ヤクルト社のY1000という商品が店舗で品切れになった。検索サイトのトレンドワードでもY1000が話題になり、2022年の年末になっても品薄状態が続いている。ヤクルト社がうたうヤクルトY1000の特徴は、「ストレス緩和」、「睡眠の質向上」、そして乳酸菌製品の特徴である「腸内環境改善」である。ヤクルト社は特徴を3つあげているが、SNSで特に話題になったのは「睡眠の質向上」であった。考えてみれば現代人の多くが睡眠に悩んでいる。1899年に発表された泉鏡花の『湯島詣』には「不眠性に罹って、三日も四日も、七日ばかり一目もお寝みなさらない事がある」という表現が見られる。不眠症はすでに明治時代に認知された睡眠障害であった。睡眠障害になると、睡眠のトリガーとなる睡眠欲があったとしても寝られなくなる。あるいは睡眠欲自体がなくなる場合もある。また現代人の生活では、睡眠欲があってもそれを抑えて睡眠しない人もいる。睡眠は人間にとっては本能というよりも、どこでどんな風に睡眠するのかという文化スタイルの問題になってきた。これをうけて、日本では睡眠ビジネスが一大マーケットになっている。
 食欲は性欲や睡眠欲以上に「文化」的な色彩が濃い。食欲はおそらくもっとも原初的な衝動であり、食物を摂取しなければ動物は生きられない。動物は食べられるものは何でも食べている。しかし人間はふぐのような毒のある魚でも、たとえ死に直面してでも食べてきた。このような普通は食べないようなものでも食べる状態を一般の人は「すごい食欲だ」と表現する。しかしその表現は間違っている。前述のように、食欲は生存に直結する本能であり、死の可能性がある食物は食べない。だから毒のあるものを食べようとするのは本能ではなく、死んででもおいしいものを食べたいという「文化的衝動」である。
 食欲は身体の維持に必要な本能であり、食べられるものが目の前にあれば、人間は食欲にしたがって食べたいと感じる。しかし人間は食べられるものをそのまま食べようとするのではなく、「よりおいしく食べられるように」手を加えてきた。さらに食物に対して選り好みをしたり、食欲があっても「食べない」という選択をする場合もある。食ほど文化的な行為はない。
 三大欲求と呼ばれてきた欲求のなかでもっとも文化的な衝動になったのは食欲であり、人間はこの文化的衝動にしたがって食べられるものはなんでも摂取してきた。もちろん文化的な背景によって、あるいは個人の好みによって食べるものと食べないものは存在する。しかし現代社会に生きる我々の多くが、「これだけは食べたくない」とタブー視する食べ物がある。人肉である。人肉食については誰もが強い抵抗感を感じる。
 本稿では誰もがタブー視する人肉食について検討し、将来的な「食」に関する問題ついて考えたいと思う。

2.人肉食の歴史

 同種の動物を食べることを「共食い」という。『百科事典マイペディア』(平凡社)には「共食い」について次のように記載されている。

動物が同種の個体を捕食すること。大別すると2種類あり、一つは何らかの理由で死んだ仲間を食べるものであり、もう一つは積極的に生きた仲間を殺して食べるもので、前者はごく普通に見られるが後者は比較的まれである。カマキリなどの昆虫では交尾後に雄が食べられることは珍しくない。一般的に個体密度が過大になった場合、弱小個体が捕食されることはしばしばで、アリ、グッピー、コロニーで繁殖する海鳥、ネズミなどに例が多い。近年、群れの乗っとりに際しての子殺しの例が多くの動物で報告されているが、これも広い意味での共食い

 百科事典に記載されているように、「何らかの理由で死んだ仲間を食べる」という意味での共食いは自然界においては「異常事態」ではない。多くの動物にとって死んだ動物の肉はたんなる食料と認識される。食料と認知されればそれを摂食するのは当然の反応である。また「積極的に生きた仲間を殺して食べる」という意味の共食いは「まれ」とされるが、一部の種では特定の条件のもとで「しばしば」見られる。特に雑食動物(人間も雑食動物)および肉食動物は、「なわばり」を確保するために積極的に共食いを行うことがある。
 アメリカの動物行動学者ジョン・B・カルフーンがネズミを使って行った実験によれば、一定の空間における個体密度と個体数の間に相関関係があることが検証された(Hall 1966=1970:16-18)。個体密度が高い状況になると、個体が受けるストレスが大きくなり共食いしたり、種によってはストレス過多によって自死したりする。結果として一定の空間では、個体間の空間距離の確保、つまり個体密度が一定に保たれるように繁殖は自然にコントロールされる。
 一定の空間における食料の量は多少の増減はあるにしても一定だと仮定すると、一定の空間における個体数が増加するとおのおのの個体が摂取できる食料は減少することになる。急速に食料が減少すると個体数は急速に減少し、時には絶滅してしまう。一定の空間における個体数のコントロールは、その種が生存するために役立っている。「なわばり」には様々な機能があるが、個体数コントロールは生存のために極めて重要な機能である。
 以上のように共食いは「種の生存」のために機能してきた。では人間はどうか。種の保存のために共食いを行ってきたのか?
 他の動物と人間との大きな相違は「記憶」と「感情」があるという点である。いわゆる原始人の時代から人類は葬送儀礼を行ってきた。亡くなった人間に対してのプラスあるいはマイナスの記憶、そして亡くなったことに対して弔いの感情や故人に対する苦しみなど、人類は何らかの感情をもってきた。その感情があるからこそ、人類は死体を葬ってきたのである。おそらく特別な状況にない限り、遺体を食料にすることはない。
 しかし一方で多くの国には「食べたいほど愛している」という表現がある。相手に対して「極めて強い感情」を持っている場合、相手を自分のなかに取り込んで一体化したいという欲望が生じ、実際に相手の身体を食べるということがあったのかもしれない。
 実際、カニバリズムと名付けられた人肉食は世界各地で見いだされてきた。生態人類学者マーヴィン・ハリスの著書『ヒトはなぜヒトを食べたか』、自らも犯罪者であり犯罪心理研究家のブライアン・マリナーの『カニバリズム』、文化人類学者ペギー・リーヴズ・サンディの『聖なる飢餓』などには、多くの地域で発見されたカニバリズムの記録が記載されている。
 カニバリズムと言ってもその内容は単一ではない。人肉(とくに亡くなった人間の肉)を、狩猟によって得られた獣肉、あるいは家畜化した動物の肉と同様に食糧として捉えて行われた人肉食もあれば、文化的あるいは象徴的な意味を伴い「儀礼」や「風習」あるいは「習慣」として行われた人肉食もある。

2.1.人肉食の風習(カニバリズム)

 スペイン人が南アメリカのアステカ族を発見したとき、アステカ族は人肉食の風習を残していた。

 アステカの宗教観の中核になるのは、太陽が毎日必ず天を運行し人間の繁栄や穀物の実りをもたらしてくれるように、定期的に人間の生け贄を捧げなければならないという考えだった。
 この儀式の大部分はマヤ族やトルテカ族と共通していたが、アステカは自分たちの王を太陽と同一化させることで、取り入れた太陽崇拝をさらに洗練した。トウモロコシの神、ウイツィロポチトリの健康と繁栄のためには、供物の人間の心臓を絶やしてはならなかった。そして、人の肉を食べることが儀式の重要な部分であった。
(マリナー 1993:24)

 いわゆる人身御供(人身供犠)の儀式である。人間が生物界で最も崇高だと考える人間自身を、人間界に「実り」や「平安」をもたらすために、超自然的な存在に捧げる儀式は世界各地で見られる。日本でも「人柱」として人身御供を行って洪水から村を守った、という伝承が残されている。最も有名な物語は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)神話であろう。大蛇の怒りを沈めるために村の若い女性を生け贄にするという話であるが、この物語が神話として残されていることは実際に人身供犠が行われていたことを示唆する。また聖書の『創世記』にも、イスラエルの始祖アブラハムが神から愛する子イサクを生け贄として捧げるように求められる物語が記述されている。これも当時、当該地方に子どもを神に捧げる人身供犠が行われていたことを示している。後述するがこれらの例はいずれも人身供犠を「否定」する物語であることが重要である。この2つの物語は人身供犠を「禁忌」とする物語になっている。実際、ユダヤ教に端を発するキリスト教やイスラム教が支配的な地域では人身供犠も人肉食も「禁忌」になっていることが多い。
 アステカでは人身供犠が日常的に行われており、周囲の部族と争いを行って人身供犠用の捕虜を確保した。それだけでなくアステカでは、人身供犠の際、自分たちも生け贄の人間の血肉を食べることによって、何らかの力を得ると信じていた。この地域では神へ人間を生け贄として捧げるだけでなく、戦争の中で勇猛な活躍をした人間を捉え、その血肉を食することによってその人間の力を取り込むことができると考えていた。そしてこのような思想は太平洋地域の島々にも見られる。

 太平洋地域の多くの報告では、人肉に食物としての価値があることに言及している。しかしこうした報告が、報告者の空想なのか、それとも実際の事実なのかは不明である。サーリンズは十九世紀の報告を引用しながら、前世紀のフィジー島の首長は、人間の生贄をそもそも<食物>とはみなさなかったことを指摘している。これはカニバリズムが、「彼らの社会の全体の組織と密接に結びついた慣習だった」からである。しかし一方ではヨーロッパ人に対し、「自分の国には豚肉しかなく、牛肉などの食肉に欠如しているため、<人肉を>食べるようになった」と語ったとも伝えられる。太平洋地域の報告では、一般に人肉が動物の肉と同等に取り扱われている。オロカイヴァ族は人間の肉を消費する理由として、「優れた食物に対する欲求」を挙げている。部族間の戦で獲得された生贄はすべて消費された。
(サンディ 1995:21-2)

 サンディがまとめた記録によれば、カニバリズムは北アメリカと太平洋島嶼(とうしょ)に多く見られ、次にサハラ砂漠以南のアフリカと南アメリカに見られ、そのほかの地域ではあまり見られない(サンディ 1995:20-1)。サンディと同様にカニバリズムについて研究したマリナーも、宗教的な儀式として行われたカニバリズムの例として、アステカ族、北米インディアン、アフリカ、アマゾン、太平洋の島々の事例をあげている。
 人肉食を飢饉との関係で研究する研究者が多いが、それ以外の要因も少なくないと考えている。これについては後述する。
 

2.2.経済的理由による人肉食


 世界各地で見いだされたカニバリズムは主に部族や民族という集団単位で行われる儀式であった。しかし世界で行われた人肉食はカニバリズムという儀式だけではない。北アメリカ、太平洋島嶼、アフリカ、南アメリカ以外の地域では、人肉を食肉として販売した事例がある。
 事件の詳しい内容や背景は事例によって異なるが、他人を殺害しその肉を食肉として販売したという事件は少なくない。1931年『Eine Stadt sucht einen Morder(邦題M)』というタイトルで公開された映画(フリッツ・ラング監督、ピーター・ノレ主演)は、いくつかの事件から着想を得たとされる。参考にされた事件のなかに、「ハノーファーの屠殺人」として知られるフリッツ・ハールマンの事件がある。ハールマンを扱った作品としてはこの後も、1973年にウリ・ロンメルが監督した映画(日本未公開)やキム・ニューマンが1995年に発表した小説がある。
 詳細は省くが、ハールマンは1918年から1921年までの間におおよそ50人の若い男性を殺害し、解体した肉を食肉として販売したとされる(マリナー 1993:110)。彼が犯罪を行ったのは第一次世界大戦直後で、社会は物資不足に悩まされていた。社会はハールマンが提供する食肉を必要としていたのである。
 ハールマンが何をきっかけに犯罪を犯したのかは明確ではない。また何人殺害したのかも明らかにはできていないが、結果として彼は若い男性を殺し続け、社会に人肉を食肉として提供し続けた。
 ハールマンのように、社会に不足する食肉を、人肉によって補うことで利益を得るという犯罪は表面化された件数は少ないが、確実に存在する。

2.3.快楽としての人肉食

 1991年に公開されたジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』はアカデミー賞五部門受賞を達成したホラー映画である。原作はトマス・ハリスによる小説『羊たちの沈黙』(1988年発行)で、この作品を通して、人肉を美食の対象にするキャラクター(ハンニバル・レクター)が全世界に知られる。
 ハンニバル・レクターは、貴族出身で、まずい料理を食べず、高級食材にこだわるだけでなく、食器にもこだわる。そして究極の美食として、自分が殺した相手の肉を自分で料理して食べる。もちろんハンニバル・レクターは作者トマス・ハリスによる想像上のキャラクターであるが、実在の人物がモデルになっている。
 ハンニバル・レクターは、ジャーナリストであったトマス・ハリスが記者として活動していた時期に取材した複数の実在するシリアルキラーをもとに創造された。そして『羊たちの沈黙』以降、多くの実在するシリアルキラーの物語がマスメディアに登場することになる。
 ハンニバル・レクターが行った人肉食は、先にあげた儀式としてのカニバリズムでもなく、生計をたてるための人肉食でもない。美食という個人的な「快楽の追求」という欲望の結果として行われた。もちろん「食べる」という行為だけでなく、殺人して解体するプロセスに対しても快楽を感じているのかもしれない。しかしいずれにしても、この快楽としての人肉食は理性のもとで行われる、極めて文化的な行為だと考えることができる。
 <経済的理由による人肉食>および<快楽としての人肉食>はいずれも、人肉食が禁忌とされる地域で行われている。もちろんこれらの地域で「犯罪」として認知されているのは、すべての犯罪者が「殺人」を行っているからである。ただ他の殺人と異なりこれらの殺人は「人肉食」を目的としている。そこに「異常性」がある。禁忌とされる人肉食を目的とした殺人という二重の異常さが、犯罪の異常性を際立たせている。

3.必要に迫られた人肉食ーアンデスの聖餐

 1972年12月23日の朝日新聞(東京版)朝刊に次のような記事が掲載された。

タイトル:二ヶ月以上も雪の山中で生存、墜落機のラグビーチーム16人
【サンフェルナンド(チリ)二十二日=AP、AFP】
チリのアンデス山中に乗っていた飛行機が墜落、絶望視されていたウルグアイのラグビー・チームのうち十六人が二ヶ月以上、雪の中で奇跡的に生き延びていたことが二十二日、サンフェルナンドの警察によって確認され、まず二人が救助された。
 墜落した飛行機はウルグアイの軍用双発プロペラ機で、さる十月十三日、ラグビー選手ら四十人と乗員計四十五人を乗せたままアンデス山脈付近で行方不明となり、その後の捜索でも手がかりが得られず、全員絶望とみられていた。ところが二十一日、生存者のうちの二人が救助を求めに山を降りて来たところを地元民が見つけた。
 事故現場はサンチアゴから約百四十キロ離れた山中で、二人は救援を求めて十日間歩き続け、発見された時は髪はボウボウ惨たんたる姿だったという。事故当時パイロットは飛行機を山に囲まれた雪の台地にうまく不時着させ、生存者たちは飛行機の胴体の中で携行食糧を食べて救助を待っていたという。

 積雪、吹雪による雪と氷に覆われたアンデス山中に不時着した飛行機事故によって、生存が絶望視されていた乗客乗員が、70日間たって発見されたという記事で、当時、世界中に報道された。雪や氷を溶かせば水は入手できるとしても、70日もの間、食糧はどのように確保していたのか多くの人が疑問を持った。そして同年12月30日の朝日新聞(東京版)朝刊に次のような追加記事が掲載される。

タイトル:「仲間は、肉体でわれわれの命を救った」アンデス遭難の生存者語る
【モンテビデオ(ウルグアイ)二十八日=ロイター、AP】
アンデス山中に墜落し、七十日ぶりに奇跡的に救出されたウルグアイ空軍チャーター機の生存者たちは二十八日夜、モンテビデオで記者会見し、生き延びるため死亡した乗客の遺体を食べた事実を認めた。
 学生のアルフレド・デルガド・サラベリー君(二五)が全員を代表して「キリストが人類の救済のためにその肉体と血を与えられたように、われわれの仲間は彼らの肉体と血でわれわれの生命を助けてくれた」と述べた。同君のこの説明に対して詰めかけた記者団から拍手が起り、長い間鳴りやまなかった。
 この会見には生存者十六人のうち十人が家族、友人とともに出席した。

 彼らのこの告白は世界の多くの人を驚かせた。そして生存者たちのルポルタージュが出版された。本稿で参考にしたのはP.P.リードの『生存者ーアンデス山中の70日』(平凡社)とクレイ・ブレアJrの『アンデスの聖餐ー人肉で生き残った16人の若者』(早川文庫)である。またリードの著作を原作にしてフランク・マーシャル監督、イーサン・ホーク主演で1993年に映画『生きてこそ(ALIVE)』が公開された。この作品をみた生存者は「ディテールが抜けていたり、実際のフィーリングと違うところはあるが、リアルに私たちの経験を描いている」(朝日新聞1993年5月19日夕刊2面)と発言している。そして生存者全員がこの映画の普及のために全世界で舞台挨拶に立っていた。
 2009年には生存者たちへのインタビューをもとにゴンサロ・アリホン監督、マルク・シルヴェラ製作によるドキュメンタリー映画『アライブー生還者』が公開された。30年たってもその衝撃は失われていないということである。
 

3.1.事件の経緯


 ウルグアイは南アメリカのブラジルとアルゼンチンに囲まれた小国で、激しい独立戦争をへて、1828年にブラジルから独立した。国民の大半はヨーロッパ(スペイン)系のカトリック教徒である。首都モンテビデオにあるステジャ・マリス学園はカトリック系の親が中心になってアイルランド管区の修道会に要望してつくられた男子校で、人格教育のためにラグビーが取り入れられた。
 アイルランド管区の修道会が学園でラグビーを始めた頃、ウルグアイのスポーツと言えばサッカーであり、ほとんどの人がラグビーを知らなかった。しかし学園に入学した生徒たちはラグビーに熱中し、卒業後、オールド・クリスチャンズ・クラブというアマチュアチームを結成した。このクラブチームは周辺国のラグビーチームと積極的に試合を行うようになる。
 1972年、クラブチームはチリに遠征することになった。しかしチームとして潤沢な資金があるわけではなく、経費を抑えるために遠征での移動には空軍機をチャーターすることになる。当時、ウルグアイでは、40名の座席をすべて埋めることができれば、民間航空機で移動するよりも、乗客1人分の料金が安くなった。チームのメンバーは自分たちの家族や友人たちにチケットを売っただけでなく、安価にチリに行くことを希望する一般の人にもチケットを売った。こうして40の座席にはチームのメンバー以外の乗客も座ることになる。ただし乗客の大部分はチームの近所に居住する、比較的上流家庭のカトリック信徒たちであった。
 こうして1972年10月12日に、チームにチャーターされたウルグアイ空軍機はモンテビデオからチリのサンチアゴに向けて離陸した。しかしアンデス山脈が悪天候であったため、いったんアルゼンチン側のメンドーサに着陸し、天候の回復を待つことになる。翌13日に天候が回復し、チャーター機は再びサンチアゴに向けて出発した。順調に飛行していたが、天候の変化および雲の影響で航路を間違ってしまい、山に翼をぶつけ機体はバラバラになって、山中に不時着してしまった。
 墜落直前まで、乗客の若者たちは乗員が制止するほど大騒ぎしていた。しかし墜落直前には大騒ぎが嘘のように、全員が緊張して席についておびえることになった。墜落時の衝撃で3名が即死した。その後、医学生2名が中心となって軽傷だったメンバーとともに生存者の救出作業が行ったが、酸素の薄い標高3千メートルを超える高地での作業は困難を極めた。こうしてアンデス山中での生存のための戦いが始まった。
 一方、行方不明になったチャーター機の捜索だが、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの三国が共同で飛行機の捜索を行っている。実際、生存者たちは捜索を行っていると思われる飛行機を目撃していた。実際には捜索範囲とは異なる場所に墜落していたのだが、この年は例年になく降雪も多く、白い機体を上空から発見するのは困難であった。また気温が低く、食糧確保も困難な状況では生存の可能性は低いと判断され、8日間で捜索は打ち切られた。
 生存者たちのうち数名は怪我のために数日で死亡してしまう。生存者たちは死体を機体の外に出し、機体の中の座席を外してスペースを確保し、座席カバーを外して即席の毛布を確保した。生存者たちは救助隊が救助に来ると信じて、機内に残っていた食糧を分け合い、雪を溶かして水を確保し、生き延びた。墜落後10日目、いよいよ食糧の残りが少なくなり、生存者たちは「生き延びる」ために食糧をどうするべきか、本格的に議論を始める。そして翌日、かろうじて修理されたラジオを通して、捜索が打ち切られたことを知る。
 詳細は後述するが、生存者たち(10日目で27名)は全員で議論し、一部の反対はあったが死体の肉を食べることを決意し、彼らは生き残った。雪崩や嵐に遭遇しながらも最終的に16名は生存し、うち2名が自力で下山して生存者たちは救助された。

3.2.人肉食を巡る生存者たちの議論

 ウルグアイの生存者たちにとって人肉食は禁忌であり、生理的に嫌悪する行為である。それでも彼らは人肉を食べて生き残った。彼らはどのように考えてこの結論にいたったのか。そのプロセスは極めて理性的でかつ論理的であった。
 前述のように人間は栄養分を自分の体内で作り出すことはできない。栄養を外部から取り入れる必要がある。そして栄養分を摂取しなければ活動が困難になり、最終的に死にいたる。ウルグアイの生存者たちは10日間、ほとんど食べることができず、歩くこともおぼつかなくなっていた。生きるためには食べなければならない。そして食べられる肉は機体の外に、奇しくも冷蔵保存されていた。先に触れたとおり、南アメリカには古くからカニバリズムの風習があり、生存者たちはそのことをおそらく知っていた。
 墜落後食糧の残りが少ないことを意識していた一部の生存者たちは「人肉食」を意識し始めていたが、冗談として発言する以外は人肉食について話すことを避けていた。しかし10日目、食糧がほぼ底をつき、救助が来るかどうかもわからなくなったとき、リーダー的な存在であった医学生カネッサが人肉食について提案する。

彼はまず、救出される見込みがないこと、自力で脱出をはからねばならないが食糧なしでは手も足も出ないこと、唯一の食糧は人肉だけであることを強調した。持てる医学知識を利用して、よく通る甲高い声で、自分たちの肉体がいかにその貯えを消費しつつあるかを説明した。「一歩動くたびに」と、彼は説いた。「われわれは自分の肉体の一部を消費しているんだ。もうすぐ極端に体が弱って、目の前の肉を切り刻む力さえなくなってしまうだろう」
 カネッサは単なる便宜主義でそのことをいいだしたのではなかった。われわれには可能なかぎりの手段を利用して生き続ける道徳的義務があると主張した。カネッサは熱心なカトリック信者だったので、生存者中の比較的信仰心の強い者たちによって、彼の発言にいっそうの重みが加えられた。「これは肉なんだ」と、彼はいった。「ただそれだけのものなんだ。彼らの魂は肉体をはなれて、いまは神とともに天国にいる。あとに残されたものは単なる死骸で、われわれが家で食べている牛の肉と同じものだ、もう人間じゃないんだ」
(リード 1974:87)

 カネッサが主張したことは、生存者全員が理性的な判断としては「理解」していることであった。しかし何人かの者が、生理的な嫌悪感と同時に、もし生きて帰ったとき自分の周囲の人間が人肉食について知った場合にどのような反応をするのか、その時にその「罪悪感」に耐えられるのか、不安になった。もし亡くなった友人の家族が、自分の家族の肉を食べてあの若者は生き残ったのだ、という事実を知ったなら、どう感じるだろうか。この議論をしている段階ではまだ救助が来るかもしれない、という希望が残っていた。だからこそ多くの者が悩んでいた。このとき、カネッサの意見を支持するセルビーノが言った。

もし僕の死体がきみを生かす役に立つとしたら、ぼくは喜んでそれを利用してもらうよ。もしぼくが死んで、きみが死体を食わなかったら、どこにいようとそこから戻ってきて、きみの尻を思いっきり蹴とばしてやる
(リード 1974:888)

生存者全員がこのセリビーノの意見を受け入れ、今後誰かが死んだ場合、その死体を食糧として利用するという「協定」を結んだ。
 協定を結んだ後、カノッサは機体の外にある死体からガラス片を使って肉を切り取り、機体の上に干した。そして機体の中に戻り、日に干してあるから食べる者は外へ出て食べるように言った。しかし誰も動こうとしない。しかたなくカネッサは再び外に出て、「自分が正しいと信じておこなうことへの助けを神に祈り、それから一片の肉を手にとった。さすがにそこで一瞬ためらった。・・・<中略>・・・生理的な嫌悪感と強固な意志が激しい葛藤を演じていた。ついに意思の力が勝った。手は上にあがって口に肉を押し込んだ。彼はそのまま飲みくだした」(リード 1974:90)。彼は禁忌を乗り越え、意思の力で人肉を食べた。その夜、数名がカネッサを見習って肉を食べることにした。
 人間に本能があり、食欲が本能に基づいて発動しているとすれば、「肉」と認識したものを食べるのに葛藤を感じることはない。しかし食欲は抗いがたい本能ではなく、理性によってコントロールするものである。彼らは禁忌を乗り越え、「意思の力」で人肉を食べた。もちろん先にあげた犯罪者たちのように「食べたくて食べた」わけではない。食べなければ死んでしまう、と理性的に判断して食べることにしたのである。
 彼らが最初に死体の肉を食べた翌日、生存者たちはラジオ放送を通して捜索が打ち切られたことを知る。救助されることに望みをつないでいた生存者たちも、人肉を食べて自分たちの力で生き残ることを決心する。しかしそうした状況になっても4名だけはどうしても食べられなかった。
 人肉を食べることを決意したペレスは「これは聖体拝領のようなもんだな。キリストが死んだとき、われわれに精神的な生活をさせるためにその肉体を与えた。ぼくの友だちはわれわれに肉体の生活をせるためにその肉体を与えたんだ」(リード 1974:97)と言って残りの4人を人肉を食べるように説得した。こうして4人のうち2人は食べ、最年長の夫妻2人だけが食べられなかった。そしてこの後、夫はついに人肉を食べて生き残り、妻は食べずに死亡した。

3.3.人肉食の正統化

 人肉を食べなければ生き残れない、ということを理性的に理解していたとしても、禁忌や生理的嫌悪感を乗り越えて人肉を食べるためには、強力な「正統性」が必要であった。人肉食に正統性という根拠がなければ、おそらく人肉食を行った生存者たちは正常な精神状態を維持することはできなかったに違いない。ウルグアイの生存者の場合、その正統性の根拠となったのはキリスト教である。
 生存者たちの大部分はカトリック教徒であり、事故後も彼らは度々、神に祈りを捧げ、神との対話を試みている。そして彼らの信じるキリスト教には聖餐(Holy Communion、聖体拝領)と呼ばれるサクラメント(sacrament、秘蹟)がある。
 サクラメントとはイエス・キリストを通して神が人間に与えた「恵みの業」であり、カトリック教会には洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚という7つのサクラメントがある。プロテスタント諸教会は、聖書の正典性を重要視し、7つのサクラメントのうち洗礼と聖餐だけを残し、残りの5つをサクラメントから除いた。聖餐はサクラメントとして残されているが、教派によっては形骸化していて年に数回しか行われていない。
 カトリック教会では7つのサクラメントを同等に重視し、特に聖餐については毎日曜日だけでなく、教会によっては毎日のように行っている。カトリック教徒は聖餐の儀式に日常的に参加し、神による聖化の恵みに日常的に触れているのである。
 聖餐はイエス・キリストが十字架にかけられて亡くなる前に行われた、いわゆる最後の晩餐に起源をもつサクラメントである。聖書の『マタイによる福音書』には「主の晩餐」の出来事として次のように記載されている。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
(聖書協会共同訳『マタイによる福音書』26章26節ー29節)

このイエスの言動をもとにして初代キリスト教会(イエスの死から100年程度までのキリスト教会)では聖餐式という儀式が確立されるのだが、初代キリスト教会で聖餐式が行われたことは『コリントの信徒への手紙1』に記載されている。

 私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれ裂き、言われました。「これはあなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」
 食事の後、杯も同じようにして言われました。「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。」だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
(聖書協会共同訳『コリントの信徒への手紙1』11章23節ー26節)

この初代キリスト教会で行われた儀式が、聖餐というサクラメントとしてキリスト教会内に定着していく。
 ここで「記念」と表現されているのは、この後に起こる十字架上での「死」の出来事を示している。キリスト教信仰の根幹をなすイエスの十字架上での死は、初代キリスト教会において「人類の贖罪」と意味づけられていく。パンを食べ、1つの杯からぶどう酒を飲む行為によって、我々はイエスが我々の罪を贖って死んだということを想起し、イエスの肉と血を身体に取り込むことによってイエスの犠牲の業が完成し、我々の身体と精神の罪は聖化されるのである。
 さてここで聖餐で摂取するパンとぶどう酒は何かということが問題になる。聖餐として摂取するパンとぶどう酒はパンとぶどう酒なのか、あるいはイエスの言葉通りにイエスの肉と血なのか、ということである。イエスの言葉をそのままの意味で受け取れば、パン=イエスの肉、杯の飲み物=イエスの血ということになる。この問題は繰り返し神学的なテーマとして議論されてきた。
 イエスが実際に生きて活動していたことを直接知っている信徒がいた初代キリスト教会では、聖餐によって現実にイエスの肉を食べ、血を飲んでいると捉えていた。しかし実際に摂食しているのはパンはパンであり、ぶどう酒はぶどう酒である。人間の肉や血に変わることはない。そのため教会内外において「主の晩餐」でのイエスの言葉の意味について議論されるようになる。
 結局、1215年に開かれた第4回ラテラノ公会議および1551年に行われたトリエント公会議において、聖餐におけるパンとぶどう酒はイエスの肉と血に「実体変化」(聖変化)すると宣言された。これによりカトリック教会においては、パンとぶどう酒は、司祭の「聖別」によって外見上あるいは化学組成においてはパンとぶどう酒ではあるが、その実体(本質)においてはイエスの肉と血になると信じられるようになる。いわば聖餐の出来事は物理学的な視点というよりも信仰上の視点ということである。
 一般のカトリック信徒の感覚で言えば、聖餐とは現実に存在するイエスの肉と血を取り入れて自分自身の身体および精神が神の力で聖別(聖なるものとなる)される儀式だ、ということになる。
 キリスト教徒にとってイエスは「神」であり、神がこの世に臨在し、遍在するようにイエスもこの世に臨在・遍在していると認識している。だから生存者たちは、死んだ人間の肉は神が生存者たちに与えたものであり、その肉はこの世に臨在・遍在するイエスの肉であると考えた。実際、記者会見で学生のサラベリーが「キリストが人類の救済のためにその肉体と血を与えられたように、われわれの仲間は彼らの肉体と血でわれわれの生命を助けてくれた」と述べている。
 このように生存者たちは、人肉食をキリスト教の教理によって正統化したのである。自分たちの行為を権威あるキリスト教の教理で正統化することによって、生存者たちは精神的ショックの緩衝材とした。

3.4.法王庁による正統化

 ウルグアイの生存者たちはキリスト教の聖餐に正統性を得て人肉食を行った。そして救助される直前には、人肉を通常の肉のように食べるようになっていた。しかし救助されることがわかったとたんに、人肉を食べていたことに対して、人々に非難されることを想像して不安を感じるようになった。そして救助されたあと、彼らはそのことについてますます精神的に不安定になっていた。

 八人の患者のだれもが肉体的には危険な状態にないことが明らかになったところで、医師たちの関心は彼らの精神的健康の問題に向けられた。彼らはそもそもの初めから生存者たちの二つの兆候に気づいていたーーそれは人に話しかけずにはいられない衝動と、独りにされることへの恐れであった。・・・<中略>・・・
 この行動は、アンデス山中に閉じ込められて十週間すごした青年たちの場合、ほんらい異常なものではなかったが、医師たちが知ったばかりの事実、患者たちが人肉を食べて生きのびたという事実と考えあわせれば、もっと極端な精神異常行動の最初のあらわれであるかもしれなかった。医師たちは患者たちをだれとも会わせてはならないという指示をくだした。
(リード 1974:348)

生存者たちはカトリック教会の司祭以外の面接を禁止された。彼らは面会者が司祭だとわかると堰を切ったかのように告白を始めた。

「それはおそらくだれにも想像できないようなことでした。ぼくは毎日曜ミサを欠かさなかったので、聖体拝領はいわば機械的なものになっていました。ところが山の上で、多くの奇蹟をこの目で見、神にほとんど手を触れられるほど近くにいたおかげで、ぼくはそれが間違っていたことを知ったのです。いまぼくは、ぼくに力を授け、かつてのぼくに戻るのを引きとめてくださるよう、神に祈っています。ぼくは人生とは愛であり、愛とは隣人に与えることだと知りました。人間の魂は彼の持つ最良のものです。同胞に与えることは最もすぐれた行為です・・・」
(リード 1974:349-50)

司祭はこれを「告解」として受け止め、その後、聖体拝領を行った。つまり司祭は彼らに「神の赦し」を行ったのである。多くの人は彼らの行動を肯定的に捉えようとしていたが、一部の人たちは受け入れられなかった。とくに生存できなかった人間の家族には複雑な思いがあった。たとえこうした人たちの中で、たとえ死んだ人間の肉であったとしても、人肉を食べて生き残るよりは「死を選ぶべき」であったという主張がなされるようになる。しかしこうした主張に対してカトリック教会は反対の主張を行った。モンテビデオの助祭は次のように語る。

「それが唯一の生きのびる可能性だったのだから・・・。生きのびるために死んだ人間を食うことは、両者の肉体を一体化することであり、これは接木に比較されえよう。肉は、死んだ人間の眼球や心臓が生きた人間に移植されたときと同じように、極度にそれを必要とする人間のなかに同化されたときに生きのびるのである・・・。われわれは同じ状況に置かれたならばどうしていたであろうか?・・・。だれかが告解のなかでそのような秘密を打ち明けた場合、あなたはどう答えるか? 答えはただひとつ、そのことで自分を苦しめるな・・・他人が同じことをした場合にそれを非難する気もなく、また現に誰からも非難されていない行為のために、自分を非難するのはやめなさい、というのみである」
(リード 1974:387)

この主張をモンテビデオの大司教も支持する。そしてローマ法王庁の機関誌『オッセルヴァルトーレ・ロマーノ』の神学者ジーノ・コンツェッティも彼らの行為を肯定する主張を公開した。

「われわれは倫理的な基盤に立って、ウルグアイ機墜落の生存者が確実に迫りくる死を避けるために、唯一の入手可能な食糧を食べた事実を正当化するものである。生きのびるために生命のない人体を利用するのは合法である」
(リード 1974:387)

このようにカトリック教会の公式見解として、死を間際にそれを食べなければ生きのびることができない場合の人肉食は承認されている。「アンデスの聖餐」と呼ばれるこの事故以外にも、飛行機事故や海難事故などで、人肉食によって生きのびた事例は少なくない。そして多くの国はその行為を肯定している。

4.まとめ

 周知の通り、日本では長い間食品ロスが問題となっている。消費者庁が発表した2020年度の推計値は年間522万トンで、世界で飢餓に苦しんでいる人に向けた食料支援量は年間420万トンである。少し古い資料になるが、SDGsの前身であるミレニアム開発目標のパンフレット『MDGs2015』(2011年公開)によれば、日本の廃棄食料は年間約2000万トン、途上国の人間5000万人を1年間養える食料になる。集計の基準が異なるため数値に大きな相違が見られるが、日本では途上国の人間を多くの食料を捨てている。日本ではもはや食欲を満たすために必要な量の食料を摂取するという本来の摂食が忘れられていると言ってもよい。飽食や暴食という表現をこえた、もはや爆食である。世界の多くの地域に餓死する人間が存在する一方で、食べられない食料が消費されずに捨てられる。
 世界では食糧不足のため多くの人が亡くなっているが、一方で世界の人口は増加し続けている。国際連合は、2022年11月には80億人、2030年には約85億人、2050年には97億人に達すると推測する。人口が増えればそれだけ食料が必要になるが、人口増加に比例して食料生産量が増加するのは難しい。
 国際連合は人口の増加を予測しているが、実際には食料不足のために多くの子どもが死亡することになり、一定量以上は増えないという推測もできる。
 周知の通り、人間は身体を維持するためにタンパク質を摂取しなければならない。古代社会では狩猟によって得た動物の肉によってタンパク質をおぎなっていた。しかし集団の規模が大きくなると狩猟によって得た肉だけでは必要なタンパク質を確保できなくなる。そこで始められたのが野生動物の家畜化である。自分たちに必要な肉を自分たちで育てられれば、狩猟だけに依存しなくてもすむ。もちろん動物の肉だけでなく、採集だけでは不足する植物を自分たちで育てることによって、穀類からもタンパク質を確保するようになる。こうして人類は必要なものを自分たちで生産するようになる。
 ただ集団の規模が大きくなりすぎると、狩猟や採集、家畜や穀類の生産だけでは十分な食料が確保できなくなる。こういう「危機的状況」のなかで行われたのがカニバリズムである。自分たちの集団の「外」の集団から食糧となる人間を捕獲し、神に捧げる儀式に便乗して自分たちも「生きる」ために人肉を摂食した。日本の民間伝承には、鬼や妖怪が人間を食べる、という表現が見られるが、これは人肉食が行われていたことを示唆する。おそらく干ばつや飢饉においては人肉食が行われていたのだろう。
 本稿では様々な人肉食を紹介してきた。<経済的理由による人肉食>および<快楽としての人肉食>は殺人を伴う犯罪であり、<カニバリズム>と<必要に迫られた人肉食>とは異なり「生きるために」行われたわけではない。しかし<カニバリズム>や<必要に迫られた人肉食>は「生きるために必要なこと」として行われてきた。人肉を食べなければ死ぬという状況になった場合、人間は生きるために人肉を食べる、という選択を行ってきたのである。
 さて先にも述べたように2023年現在、すでに人類の視点から見て地球では食料不足に陥っている。将来的には人類の食料不足はさらに悪化する。こうした「危機的状況」にあって、地球の生物がとってきた選択肢は3つ。「種として絶滅すること」、「数を減らすこと」、そして「共食い」である。人類が「数を減らすこと」として行ってきた典型的な手段は、「戦争」と「高齢種の殺害」であろう。
 周知の通り、戦争は大量殺戮行為であり、一挙に人口を減らし、その結果生き残った人間が摂取できる食料は増えることになる。「高齢種の殺害」は、日本では「姥捨て」と呼ばれる慣習である。高齢者が集落から減ることで若者が摂食できる食料は増える。「共食い」は本稿で議論してきた。
 人類はすでに本能による欲求から自由である。「食べなければ死ぬ」ということがわかっていて、食欲があったとしても、「食べない」という選択ができる。ましてや戦争によって人類の数を減らすというのは何の欲求でもなく、人間が判断して決定したことである。我々は「人類存亡の危機」に直面しても、理性的に判断し、対応することができる。
 それでは、人類は将来的に生じる本格的な食料不足時代をどのように乗り越えていくのか?

<参考文献>

文屋 敬、2011、「個室とテレコミュニケーション(4)ーなわばりと個人空間からみる個室」(『福岡女学院大学紀要 人間関係学部編』12:9-20)。
ブレア、クレイJr、高田正純訳、1978、『アンデスの聖餐ー人肉で生き残った16人の若者』(早川文庫)早川書房。
Hall, Edward, T., 1966, The Hdden Dimension, New York : Doubleday & Company, Inc. (=1970、日高敏隆、佐藤信行、『かくれた次元』みすず書房)。
ハリス、マーヴィン著、鈴木洋一訳、1990、『ヒトはなぜヒトを食べたかー生態人類学から見た文化の起源』平川書房。
石川栄吉他編、1994、『文化人類学事典【縮刷版】』弘文堂。
JICA、2011、『MDGs2015』(https://www.jica.go.jp/tsukuba/topics/2010/docs/110202_01.pdf、アクセス日:2023年1月10日)。
岸本羊一・北村宗次編、1977、『キリスト教礼拝辞典』日本基督教団出版局。
マリナー、ブライアン著、平石律子訳、1993、『カニバリズムー最後のタブー』青弓社。
日本キリスト教協議会信仰と職制委員会・日本カトリック教会エキュメニズム委員会編訳、1985、『洗礼・聖餐・職務~教会の見える一致をめざして』日本基督教団出版局。
リード、P.P.、永井淳訳、1974、『生存者ーアンデス山中の70日』平凡社。
サンディ、ペギー・リーヴス著、中山元訳、1995、『聖なる飢餓ーカニバリズムの文化人類学』青弓社。
消費者庁『食品ロスについて知る・学ぶ』(アクセス日:2023年1月17日)。
ワールド・ビジョン『食糧問題とは?』(https://www.worldvision.jp/children/poverty_14.html#d0e9d87eb78fa54e47cd213ca7606442、アクセス日:2023年1月10日)。

『生きてこそ ALIVE』(DVD、パラマウントホームエンタテインメントジャパン)。
『アライブー生還者』(DVD、熱帯美術館)。

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