「選択的夫婦別姓は中途半端だ論考」へのつっこみ

選択的夫婦別姓は極めて中途半端ではないか、という論考。|たこねずみ
これに対する感想

内容とは別だが、「論考」にしたいならレポートの書き方をまず学んだほうがいい。本は大学の図書館にある。

最初の用語の定義について1/n


リベラルを、「合理的な思考の下、実利的な方向に世の中を変えていこうとするスタンス」と定義するのはなかなか独特である。

辞書的な意味ではリベラルは「自由」を重視する思想で、実利や合理性基準ではない。
著者はリベラルと保守という用語を使用しているが、上の定義と中身を読むと自由主義(リベラリズム)と保守の話ではない。
なぜ一般的な定義を使用しないのか説明が聞きたい。
辞書的な意味のリベラルだと、選択的夫婦別姓は各自の自由に任せる制度なので中途半端ではないと思う。

保守が敬意を払うもの 2/n


そもそも保守とはなにか、ここでの定義は「伝統に対して、あるいは長く続いてきたことに対して敬意を持つこと」とします。

私は保守についてよく知らなかったのだが、上の定義だと、夫婦同姓に敬意を持つのは、長い歴史がある制度であり、かつ今まで続いているかららしい。(人によりも制度に敬意を持つということか?という指摘は性格が悪いからしない)
上のnoteの他にも、「夫婦別姓は(過去にあったが)もうなくなったから今の制度である夫婦同姓の方を守るべきだ」というような主張を読んだことがある。
となると、仮に選択的夫婦別姓になって一律夫婦同姓じゃなくなった場合、制度としての継続性は失うから敬意も持たなくなるということなのだろうか。
保守はその伝統の中身に対しては敬意を持っていないのだろうか。
そもそも、選択的夫婦別姓になっても夫婦同姓はなくならないのだが、それでも夫婦同姓の伝統は絶えてしまうと見なすのか。
選択肢は増えるが、夫婦同姓の伝統は続いていくとみなすことはできないのだろうか。

各名字と同姓制度の比較3/n

大半の人にとって、自分の持つ名字の歴史は150年程度しかありません。
一方で、夫婦同姓にはより長い歴史があります。

著者は名字よりも同姓の方が歴史が長いとしている(同姓が何年かは書いていない)。
詳しく言うと我々平民が持っている個々の名字の歴史よりも、夫婦同姓制度のほうが歴史があるという主張である。
自分が持つ名字の歴史と比較するなら、自分たち平民が結婚で同姓を選ぶようになった歴史と比較したほうが良い気はする(その場合、名字の方が歴史が長いことになってしまうけど)。
各名字の歴史と制度の歴史を比べるのが妥当なのかという疑問はある。
(私は夫婦別姓を選べないのは自由の侵害だと思っているので、歴史には興味はない。同姓別姓どちらの歴史が長いかは選択的夫婦別姓には特に関係ないという立場)
一方著者は同姓よりも長い名字があることも否定はしていないようだ。伝統ある名字同士の場合は、別姓も認めるのだろうか。

機会平等なら人権侵害ではない?4/n


仮に、婚姻時には夫婦どちらかは必ず仕事をやめなければならない法律があったとする。この場合でもどちらがやめるかは選択できるから人権侵害ではないのか。
あるいは婚姻時に夫婦どちらかが丸坊主にしないといけない、あるいはどちらか指を詰めなければいけない、あるいはタバコ酒をやめなければいけない。
これらの場合でも問題はないということか?
人権侵害か否かを機会平等で判断するのではなく、その行為自体で判断する必要があるのではないだろうか。
また、著者は同性婚には賛成とあるが、その論理をなぜ別姓婚に適用しないのか理解できない。両者を入れ替えても成り立つ文章である。言語化できていないがなにかしら区別している理由があるはずだ。

イデオロギーとして中途半端?5/n

結局イデオロギーのぶつかり合いみたいになることが多いです。ですから、一度主張を離れ、様々な視点から夫婦別姓について考える

著者は選択的夫婦別姓の話はイデオロギーのぶつかり合いになるから多様な論点から考えようといいつつ、「選択的夫婦別姓ではイデオロギーとして中途半端だ。よりイデオロギーとして筋の通った主張は姓廃止だ」と提案している。イデオロギーじゃない論点にするのかと思ったが、イデオロギーを強化するような視点に立っているのは予想を裏切られた。

名字は家族を「同定」できるか6/n

名字は原則的には家族であることを同定する機能を持つ

これ、そう言われればそうかなと思うが、疑わしい。
「同定」(言葉のチョイス独特)は、ここでは家族だと「判定する」「見極める」くらいの意味でいいのかな。
これ、著者もわかっていると思うが名字だけでは家族と同定することはできない。
日常会話や仕事の会話で家族か判断する際は、「〇〇の娘です」「〇〇の父です」といった情報や、この人は誰かの家族であると推測できるような状況でないといけない。
著者がイメージしているような、同じ名字だから家族だ!というのは同定ではなく、推定と言ったほうが良い。
「同定」だと科学用語のイメージなので、わりと強い意味に感じる。「DNAで種を同定する」とか。
あと、他の人にも散々指摘されているが、結婚した娘の9割以上は父母と別姓である。この場合、家族だと分からないわけだが、これは例外なのだろうか?
あるいは結婚した娘で改姓した人はその父母とは家族ではないというのだろうか。
著者は塾講師ということだが、その環境なら上のような例を思いつかないのも仕方ないかもしれない。

マイノリティに配慮するのはいやだ7/n

本題に戻りますが、マイノリティが持つ要求を、マジョリティに「お前らは配慮して当然だ、お前らが面倒臭くても知らん」という態度でぶつけるのは如何なものでしょうか。少なくとも合理的ではないでしょう。

態度の話なら合理的かはあまり関係ない気がする。
まず、こういうこと書くとブチギレられることはわかった上で書いているならいいのだが、わかっていなさそうなので心配である。
マイノリティとマジョリティはただの少数派と多数派ではないということを知らないんだろう。本を読んでほしい。
自分がマジョリティ側だと思っている様だが、今まで配慮する必要がなかった(配慮しなくていいという特権があった)ということは、別の人になにか我慢させていた可能性があることを肝に銘じてほしい。

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