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どこまで行っても”n=1”

一瞬にして継続が途切れました!
が、今回のわたくしは違う。凹まない!何事もなかったようにしれっと続ける。

近い将来きちんと文化人類学を学ぶはず。と想定(妄想)して、いま関連書籍を読むたびに心にぽつらぽつらと浮かぶいろいろな疑問を、ちょこちょこ書き出していこうと思います。

まず今回のひとつめは、「文化人類学って何で学問として成立してるの?」っていうこと。いきなりなんかデカい問いだけど・・・。

概論・各論いろいろと読む中で毎回疑問に思うのが、文化人類学のひとつのベースである「民族誌(エスノグラフィ)」って、めっちゃ個人的な体験過ぎない?ってことなんだよね。あるコミュニティにひとりで入ってみて、見聞きしたことを詳細に記録する。これ、どこまで行っても n=1 じゃん。学問ってなんとなく普遍性や再現性を追求する営みなんじゃないかって思っていて、ひとつの事例を掘り下げてひたすら記録する。っていうのがなんか違和感がある(いまのところは、だけど)。

たとえばこれ、海外からの留学生の友達の実家に遊びに行って、半年くらい泊めてもらって毎日日記書いて、それを異文化を日本人の視点から観察したエスノグラフィですつって提出したら、それも文化人類学として認められるのだろうか? 

どこからどこまでが文化人類学なんでしょうね。文化人類学ってなんなんでしょうね。

っていうのをボンヤリ思いつつ、一方でこの「どこまで行っても n=1」っていう世界観が、自分を惹きつける理由な気もする。わたくし比較的最近転職したんですが、そのひとつの理由として、顔の見えない・特に自分と関係のない大勢の人を相手にするのが、なんかツラくなってしまったっていうのがあると思ってるんです。この年になると、好きな人たちと好きなことだけやってたい、興味のないことに貴重な時間を使いたくない、っていう思いが日に日に増してきて。そうなったときに、ひたすら最大公約数を追い求めるようなマスマーケティングの世界ってのが、心に重くなっちゃった。(これは自分の芸風のせいというのもある。前職にはもちろんそんなスタンスではなく1to1で心を動かせる素晴らしい仕事をしている人もたくさんいる。が、そういう人たちと比較してしまって凹んでた自分もいた)

もし、普遍性や再現性、つまりは一般化を追求する学問ワールドの中で、逆張りの異分子も必要なんじゃね?ってことで存在を許されているのが n=1 をゴリゴリ掘りまくる文化人類学だとしたら、それは非常にアツい。カウンターカルチャー感あるし、おれの敬愛するほむほむ(穂村弘氏)の「生き延びるためではなく、生きるための言葉」理論にも通じるものがあるな。

おわりだよ。

次回予告:また新しい本買っちゃったからそれについて書きたいよ。


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