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Dear, deer

 「フィーヨー、フィーヨー、フィーヨー」秋が深まる頃、山野に深く響く声。人によって聞こえ方が違いますが、気高くも怪しくも聞こえます。たいてい3回続けて聞こえる、長く太い声、それはニホンジカの秋の鳴き声です。年によって変動はありますが、ニホンジカが交尾期を迎えるのは毎シーズン9~11月ごろ。10月の中頃に多く見られます。その時期によく聞こえてくるのが、この声です。

金華山島に住むオスジカたち

2013年10月、私はその声の飛び交うなかにいました。宮城県石巻市、金華山島。牡鹿半島から目と鼻の先に浮かぶこの島は東北で有名な霊山でもあり、島内の黄金山神社には、多くの参拝客が訪れます。住民は数人の住人と数百頭のニホンジカ、それと数グループのニホンザル。

当時、大学の3年生であり、研究室に配属されて半年の私は、ここでニホンジカの社会を研究している院生の先輩と南正人准教授(麻布大学・当時)と共にニホンジカの繁殖行動を観察していました。現在は定期便で誰でも島に渡ることができますが、当時は東日本大震災の被災によって桟橋が流されてしまっており、小型のモーターボートで渡っていました。
島に入って2週間、やることはといえば、通称クジラ尾根と呼ばれる見晴らしのいい丘に座って、オスジカの行動を朝から日暮れまでひたすら見ること 。ここからはシバ草原が一望でき、オスの縄張りが見渡せます。

発情期、ニホンジカのオスには順位があります。相撲の番付みたいなものだと思ってください。なわばりを張れる個体はわずかであり、この丘から見える範囲で最強の1頭のオスが、なわばりを張っていました。いわば「横綱」です。次いで「大関」クラスの強いオスが何頭かおり、互いににらみをきかせます。さらに「関脇」や「小結」に相当するオスも何頭かいることになりますが、こいつらはあまり闘争せず、一緒に過ごしたりします。繁殖行動に参加しない1~2歳の若いオスもいますが、彼らは幕下ということになるのかもしれません。
シカのこうした繁殖形態は、生息環境や個体数密度を反映して地域によって異なります。 なわばりを張ってメスを防衛するような形態は、金華山島のこの場所のような、シカがかなり多く、開けた草原のような場合に見られます。

ライバル同士のオスジカたち、一触即発の雰囲気

シカにはいくつかの種類の鳴き声が知られています。冒頭の「フィーヨー」は、オオカミの遠吠えのように遠くまで通る太い声で、秋の時期には、山林でよく耳にすることがあります。私が観察していた金華山島のシバ草原では、「横綱」だけがこの声を発していました。どうやら力のあるオスにのみ許された「特権」のようです。実はこの声は、優位なオスのみが鳴くことが知られています。しかし、現在のところ、その機能については科学的に解明されていません。発情期にのみ優位なオスだけが鳴く声であることから、交尾相手のメスへのアピールなのでしょうか。それとも、ライバルのオスへのけん制なのでしょうか。いずれにせよ「オスがメスを獲得すること」に何かしらの関係があると考えられていますが、真実は未解明です。何だか、探求心をくすぐられるような思いです。いつか、画期的なアイデアで誰かが解明してくれないかなあなどと、ひそかに期待しています。

鳴くオスジカ

金華山島での観察では、1頭1頭シカを個体識別し、順位や行動を観察しています。私が参加したのはたったの10日間でしたが、それでも毎日シカと顔を突き合わせていると、顔見知りになってくるものでした。識別するときに一番わかりやすいのは角の形。シカの角はオスにだけ生えているので、オスとメスはすぐに見分けがつきます。さらに、この角は毎年生え変わります。今生えてる角も、春先にすとんと抜け落ち、新たな角が生えてきます。

最初に生えてくるのは、袋角と呼ばれるベルベットに包まれたこぶのようなもの。これが徐々に伸び、枝分かれしていきます。そして、秋になる頃には袋角が破けて、硬く洗練された角が現れるのです。角の形は、毎年の栄養状態などによって大きさや形も違ってきます。成熟したオスでは、4本の枝分かれをした形は共通していますが、それぞれの枝の長さや太さ、バランスや開き具合などが個体によって細かく違っていて、見分けがつきます。

秋、交尾期のオスジカは、この半年かけて鍛え上げた得物をライバルとなるオスやメスに見せつけてアピールしたり、力の拮抗しているライバル同士では突き合わせて相撲のように押し合って勝敗を決めたりします。

角を突き合わせて力比べをするオスジカたち

こうしてみると、シカという動物は、鳴き声や角の有無、体格(オスのほうが大きい)が雄雌で著しく違います。一方で、日本に生息するほかの偶蹄目動物(蹄があって草食)であるカモシカやイノシシは、ぱっと見ではオスなのかメスなのか見分けることは困難です。
このように、オスとメスの違いが著しいことを専門的には「性的二形」といったりしますが、性的二形が大きいことはニホンジカの特徴と言えるかもしれません。

ニホンジカのオス
ニホンジカのメス

 生物学の視線で生きものを観るとき、角や鳴き声のような著しい特徴は問いかけを与えてくれます。すなわち「その性質がいかにして進化してきたのか?」
雄雌で差が生まれるということは、ひとつには、片方の性が他方による選別を繰り返すことでおきた進化を示しています。すなわち、シカの角や鳴き声といったオスの特徴はメスがオスを選別する基準であり、オスはライバルと競い合います。より優れた特徴をもっている個体がメスに選ばれ、未来に遺伝子を残してきました。その繰り返しによって強化された特徴が角であり、鳴き声ということであり、つまり、オスにとってこれらの特徴は、選別されるために頑張っている証というわけです。

 この時期には、山林で「フィーヨー」という声を聴いたりします。近年では、生態系のかく乱や農林業被害と何かと厄介者扱いのシカ。もちろん、これらの対策は急務であり、うまく付き合っていくためにも個体数管理などの積極的な対策は必要です。一方で、私は秋の山でその声を聴くときは、目の前のひとつの生命として、同じ(ホモ・サピエンスの)オスとして、応援せずにはいられない想いです。がんばれ、親愛なるニホンジカよ。

Author Profile
須藤哲平
麻布大学大学院卒業(修士)。(一財)自然環境研究センター研究員、(公財)日本自然保護協会広報を経て、現在フリーランスで野生動物調査などに携わる。修士研究では、フィールドでホンドギツネとホンドテンの生態を研究。以降はおもに哺乳類を中心に、野生動物管理や自然保護の事業に携わってきた。専門は動物生態学、野生動物管理学。科学コミュニケーター見習い。

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