見出し画像

あの日のグラスに乾杯を

人間、やれた事よりもやれなかった事のほうが後悔が残る。

それが、子供の頃の時の記憶で、
それが、子供には許されない事で、
それが、『いつか大人になったらな』と約束されたことであれば、なおさらだ。

私の両親には、飲酒の習慣が無かった。
父はお酒を飲むとすぐに顔が赤くなるのが嫌で、母は下戸だった。

ただ、母の兄二人はお酒を呑む人だった。
二十年以上前のお盆時期、二人は飛行機や高速道路を利用して、祖母の住む小さな家に帰省した。
遠方から兄が訪ねてくるとなると、人をもてなすのが大の苦手な母も、いそいそとビールを買い込む。
幼い私も、浮き足立った祖母と母のまわりにまとわり付いて、二人の到着を待った。

気心の知れた来客は、帰省して昼のうちに墓参りを済ませると、宴に入る。
伯父とともに祖母宅にやってきた従兄弟と遊んだり、夏休みの子供向けアニメを見たりと過ごしたが、小さな祖母の家の中にゲームは無く、そして蛍や虫取りをしに行くほどの自然豊かな場所でもなかった。

退屈をもてあました私は、すぐに大人の会話に首を突っ込みたがる。

今食べているつまみは美味しいのか、だとか、
都会での暮らしはどんな感じなのか、だとか、
そんなに美味しそうに飲んでいるビールとは、どんな味なのか、だとか。

素面の母は、久しぶりに会えた兄達との会話に、娘が首を突っ込むのを嫌がったが、対照的に赤ら顔の伯父たちは、にこにこと嬉しそうに色々な話をした。

お酒を飲んでいても、幼い姪に優しい二人だった。

年下のいとこ達も、めいめい伯父の膝に乗って、大人の会話を邪魔する。

そうこうしているうちに、とうとう、ビールが無くなってしまった。

近所には、コンビニなど無く、もう開いているお店も無かった。
しかし対照的に、当時近所の酒屋には、ビールの自動販売機があった。

「それじゃあ、ビールを買って来てくれ」

真っ赤な顔の伯父二人は、財布から夏目漱石の札を出しながら言った。

夜に外出! それも、お酒の自動販売機で買い物!
特別と特別が累乗されて、子供たちのテンションはうなぎのぼりになった。
当初は子供たちだけだったが、徒歩二分の自動販売機でもさすがに夜は危険だろうと、私の母と、いとこの母も付いてきた。

恐る恐る、暗い玄関のサンダルに足を通し、いとこ達と笑いながら外に出る。
騒いではいけないとか、ビールを振ってはいけないとか、沢山の注意をもらっていたけど、子供の耳にはあまり届かなかった。

子供が三人と、大人が二人、だったような気がする。
笑いながら、怒られながら、徒歩二分の冒険に繰り出した。

自販機のビールの値段を見ながら、母は、空気を壊すような発言をしていた気がする。
いとこ達と競い合うように、取り出し口のビールを手に持って、そしていとこ達の中で一番年上の私が、気をきかせて言った。

「早く飲みたいだろうから、走って帰ろう」

いとこも、私も、徒歩二分の距離を三倍の速度で走った。
よく冷やされて冷たすぎるビールを、夏のシャツのすそでくるんで、笑いながら、保護者に怒られながら。

帰宅した私たちは、サンダルを蹴り捨ててビールを差し出した。
「振ってないよ! 早く飲みたいだろうから、走ってきたよ!」
真っ赤な顔の伯父二人は、そうかそうか、と言いながら、グラスにビールを注いだ。
「あ!」
子供たち三人が硬直した。
走って持って帰ったビールはよく振られ、ほとんどが泡になってしまったのだ。グラスの八割、九割を埋める、泡、泡、泡。

言いだしっぺで、一番年上で、無駄に気をきかせた私は血の気が引いた。

遠方から帰省して疲れている伯父たちのビールを、
割高だと母が文句を言うほど高い値段で購入したビールを、
振ってはいけない、とあれほど言われていたビールを、
私は、すべて、泡に変えてしまったのだ。

冷や水を浴びせられたような気持ちになった私とは対照的に、伯父二人は笑って許してくれた。可愛い孫(いとこ達)が買ってきたということや、酔いが回っていたのもあるのだろう。
遅れて帰ってきた母は、高いビールが泡だらけになったことにも文句を言いかけたが、伯父二人は決して怒らなかった。
真っ赤な顔で、私も、いとこも、誰の事も責めなかった。

未成年で子供の私は、「泡だらけになっちゃったから、私が飲むよ、買い直すよ」とも言えなかった。ただただ申し訳なさで胸がつぶれそうで、年下のいとこ達が居なければ泣いていただろう。

伯父二人は、真っ赤な顔で、

「いいよいいよ、これを飲むよ」

と言ってくれた。

泡だらけの、雲をジョッキに閉じ込めたみたいなビールだった。


伯父たちは、とても楽しそうにお酒を飲んでいた。
その時の私もいとこ達も、あんまり美味しそうに飲むものだから、
『一口だけ味見を』とせがんだが、決して飲ませてはくれなかった。


『大人になったら一緒に飲もうな』

そう言ってくれたけれど、その年を最後に、夏に皆が帰省する事は無くなった。
何百キロも離れた土地の子供との口約束は果たされること無く、一人の伯父は亡くなってしまったし、もう一人の伯父も、ほとんど連絡を取れていない。

両親が飲酒の習慣が無かった私だけれど、あの日の優しい伯父達の赤い顔があるから、お酒に対しての印象はすこぶる良い。
すっかりお酒の飲める年齢になった私だが、あの泡だらけのビールの記憶と、飲めるようになったビールの味は、どちらもほろ苦い。
どのお店でビールを頼んでも、どんな状況でビールを口にしたとしても、私の乾杯の向こう側には、あの泡だらけのビールが見えるのだ。

私は、居酒屋で、宅飲みで、一人酒で。
グラスやジョッキを掲げている時、あの夏の泡だらけのジョッキとも乾杯をしている気がする。あの夏の、子供の頃の私に代わって。


なにがしかの理由があってサポートをしていただけた暁には主な記事のサポートは生活費に、アイドルマスターのことを書いた記事がサポートされればアイマス費に、魚は水に、星は空に。