井上筑後守政重という男「歴史通」2013年11月号より

井上筑後守について唯一公開したのは、WACから出ている雑誌「歴史通」に書いた、この原稿だけである。まずはスタートということで、こちらをお読みください。

神妙にいたせ!切支丹宗門改、井上筑後である!
ヴァチカンが最も恐れた男、初代切支丹宗門改、井上筑後守
日本では無名、西欧では悪名高き大目付、初代切支丹宗門改、井上筑後守      

 その人の墓所は、巣鴨の北、染井(そめい)霊園(れいえん)にある。私がそこを初めて訪れたのは、二〇一〇年の秋。ネット上の記事などを参考に、広い霊園の中を歩き回ったものの、目指す墓所がなかなか見つからない。洗いざらしの作業服の清掃員に聞きながら、なんとかその墓前にたどり着いた。
 名のある武家に多い宝篋印塔(ほうきよういんとう)の立派な墓石で、正面には玄高院殿、側面には幽山日性大居士とある。また万(まん)治(じ)四年、二月二十七日と刻まれているのは没した日付であろう。

 しばし墓前にたたずんで、線香を点(とも)し、うろ覚えの般若心経(はんにやしんぎよう)などを誦(しよう)しながら、その人の生涯を思う。
 その人が生きたのは、応仁の乱から始まる下剋上(げこくじよう)の、戦乱に明け暮れる修羅(しゆら)戦国の世。そんな日本が、なんとか秀吉のもとにまとまりかけ、家康によってひとまずの平和が訪れた時代。さらにそれが徳川幕府へと引き継がれ、それが世襲の権威として徐々に確立していったあたりである。
 いまだ確立せざる幕藩体制の動揺のなかで、幕府の陰の有力者として、家康、秀忠、家光、家綱の四代に仕えた男がその人である。
 その名は、井上(いのうえ)筑後(ちくごの)守(もり)政(まさ)重(しげ)という。
井上筑後守政重は、遠藤周作の小説『沈黙』(昭和四十一年・一九六六年新潮社)に登場する。

「日本には今、基督教徒にとって困った人物が出現している。彼の名はイノウエと言う」
  イノウエという名を、我々が耳にしたのはこの時が始めてです。ヴァリニャーノ師はこのイノウエにくらべれば、さきに長崎奉行として多くの切支丹を虐殺したタケナカなどはたんに凶暴で無知な人間にすぎないと言われました。

 インドのゴアでこう聞かされた宣教師ロドリゴは、ひそかに日本に上陸し、潜伏しながら布教を続けたものの、やがて捕えられて、井上筑後守政重本人とじかに対面することになる。

 
「パードレ。その井上筑後守様は、そこもとの目の前におられる」
  茫然として、彼は老人を見つめた。老人は子供のように無邪気にこちらを眺めて手をもんでいる。これほど、自分の想像を裏切った相手を知らなかった。ヴァリニャーノ師が悪魔とよび次々と宣教師たちを転ばせた男を彼は今日まで青白い陰険な顔をした男のように考えてきた。しかし眼の前には、ものわかり良さそうな温和な人物が腰かけていた。


 この時の政重は五十八歳。時は寛永二十年(一六四三)である。
日本のキリシタン殉教史(じゆんきようし)を一読すれば、どこかに必ず井上筑後守政重の名がある。政重は日本よりも外国で、キリスト教国やキリスト教会で悪名をとどろかせているのだ。
イエズス会やヴァチカン教皇庁に残された記録からすると、その行跡はまさに恐るべきものだ。
国中に張り巡らせた密告者たちによって潜伏していた宣教師やキリシタン信徒を根こそぎ狩り出した。
神の教えを説く宣教師や、教えを奉ずる信徒たちを残虐(ざんぎやく)な拷問にかけ、殉教させた。踏み絵をさせ、あるいは女をあてがい、堕落させ、棄教(ききよう)させた。
さらに棄教した元宣教師をキリシタン目明しとして、キリシタンの取締りに従事させた。反キリスト教の書物を執筆させ、出版し、いかにキリスト教が危険な宗教であるか、プロパガンダとして流した。
極東の島国を支配する将軍様の陰に隠れた、恐怖の大魔王のような描かれ方をしているのが、キリスト教国側から見た井上筑後守政重の姿である。
 小説「沈黙」の中でも、政重はこのように描かれている。

通辞が無表情のまま、この返事を伝えると筑後守の表情がくずれ、声をたてて笑った。笑い声は老人にしては高かったが、こちらを見おろしている眼には感情がなかった。眼は笑っていなかった

片眼の男の死体が光の白く照りつける地面にうつぶせに倒れ、番人が片足を無造作に穴まで引きずっていった。その穴まで血潮が、まるで一刷毛、線を描いたように地面に長く続いていた。あの処刑を命じたのがこの柔和な顔をした男だとは司祭にはどうしても思われない。

「子細に見て参れとの奉行所からの御指図じゃ。万事、筑後守様の御考え通りに運んでおるな」
役人は格子窓から顔を離すと、病人の経過をじっと観察している医師のように満足そうなうす笑いを浮かべた。

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