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《忘れえぬ記憶》栄光と転落の人生 ─小池一夫劇場─(改訂版 執筆中)

■わたしの原点

かつて『子連れ狼』で一世を風靡した劇画原作者の小池一夫(1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、人生の最盛期には、アラブの王族も顔負けするような贅沢三昧の生活を送っていた。

しかし最期は入院費を知人から借りたまま返済することなく旅立っていったという。

最晩年には、これがあのキャラクター主義の論陣を張った小池一夫が書いた原作かと呆れるばかりの駄作を連打した。

最盛期の小池一夫は日本一気前のいい奢り魔であったが、最晩年に近づくにしたがって金に汚くなった。

人間、誰しも想いどおりに生きることはできない。

多くの場合、したくもないことをして生きていかねばならない。

ときには過去を抹殺したい、錬金術をつかってでも変えてしまいたいという衝動的な願望にかられることもある。

他人どころか自分自身にいくら大嘘をついても、事実としての過去は削除することなどできやしない。

SNSのアカウントとは違うのである。

過去は死んだあとまで厳然として存在しつづける。

受け容れるしかないのである。

ただし、過去の意味は、未来における解釈によって万華鏡のように変容する。

未来が過去を創りだすのである。

わたしは若いころの六年間、小池一夫に徹底的に批判され、痛い想いをしながらも大いに勉強させてもらったことがある。

同時にわたしに対する批判が、小池本人にも当てはまっていることに気がついた。

いわゆるブーメラン現象である。

人間は他人という鏡に自分自身を見いだしてしまう生き物なのかもしれない。

自己肯定はゆきすぎれば、ナルシスムの地雷を踏むことになるが、創作の女神はいつも自己肯定する者の味方である。

自己否定は、甘美な毒薬のように魂をエクスタシーに導いてくれることもあるが、自己否定そのものは創造的ではない。

他者に対する肯定と否定も同様であろう。

とりあえず自他ともに肯定(承認)することこそ成長の出発点なのである。

そういう意味合いにおいて、若き日に激突(笑)した小池一夫は、わたしにとってひとつの原点となった。

■心剣勝負

小池一夫は歴史に残る業績もあり、業界に多大な貢献をして梶原一騎と並び称される劇画原作者であるが、生前から毀誉褒貶が激しかった。

瓢箪から駒のようなご縁に導かれてX(旧ツイッター)での宿命的な交通事故(笑)に遭遇して、小池一夫にたいするオマージュ作品『遙かなる大河』(執筆中)にとりくむことになった。

小池一夫は文献渉猟すればするほど、まるで立ちこめる霧のむこう側にたたずむ人影のような存在である。

ネット上に散見される小池の個人的な出来事に関する文章も、本人が書いたものか、それともゴーストライターの手になるものか、判別がきわどいケースが少なくない。

明らかに本人の手になるものと確定できる自伝的文章はきわめて少ないのである。

自伝らしき本もあるが、残念ながら、はたして本人が書いたものかどうか非常に疑わしい(ゴーストライターの臭いがプンプンする 笑)

おそらく小池一夫の名のもとに残された「文字行為」は、すべてにおいて確信犯だったのだろう。

小池は、まだ若かったころに梶原一騎にカツラを暴露されても、終生、カツラをかぶりつづけた。

彼は、おのれの実人生もカツラをかぶるように素のままでは文字として書き残すことのなかった作家だった。

複雑な家庭環境をふくめた人生の諸事情によって、自分の素顔を書き残せなかったのであろう。

だからこそ劇画原作というナマの創作からワンクッションおいた手段で激烈な自己表現を果たしたのだ。

多くの芸術家に観察される虚言症とは、そういう類いのものなのかもしれない。

わたしは自分ではまだ若いつもりでいるが、早七十歳の古希の人である。

病気のデパート状態で、老い先も計りがたい。

小池一夫の研究に残り少ない人生の貴重な時間を割りあてることになるわけだ。

だとしたら……いや、だからこそ、ここは焦らずにじっくりと腰をすえて心の剣をかまえて真剣勝負をしてみたいと想っているのである。

■ツイッターの「小池一夫」とは何者だったのか?

小池一夫のツイッターが、2021年12月10日、ハンドルネーム「小池一子」を名乗る謎の人物によって突然、削除された。

『子連れ狼』等、数多のヒット作で一世を風靡した劇画原作者、小池一夫は、かつて90万のフォロワー数を誇っていた。

「小池一子」というハンドルネームは、「小池一夫」を文字ったものだろうが、もちろん同姓同名の著名な現代アートのプロデューサーとは別人物である。

小池一夫の妻を自称した「小池一子」さんは、名店の料理写真をパクって何回も私用したばかりか、小池一夫のあることないこと、小池本人を知っている者にとっては驚愕の虚像を投稿しつづけた。

「小池一子」さんによる小池一夫のなりすましツイッターは、正義の基準を失いかけている日本社会を彷彿とさせる前代未聞のネット事件だった。

削除されてしまったツイッターでは、虚像の小池一夫のイメージは、温厚にしてお茶目、知恵のある賢者の風格さえ漂わせていた。

わたしは三十代のころ、五十代の小池一夫が経営する出版社スタジオシップ(後の小池書院。2016年、実質倒産)に六年ほど勤めた。

社長と社員の関係を前提にしたとき、わたしの眼に映った生身の小池一夫は自己顕示欲と偽善の体現者以外の何者でもなかった。

行き当たりばったりの想いつきで指示を出すので、出版社の経営者としても最悪であった。

頭脳明晰であるはずの小池の頭には損益計算も採算分岐点の発想もまったくなかった。

当時の小池は月々の原稿料だけでも2000万円以上、印税をふくめた年収は数十億円稼いでいた。

それらがどんぶり勘定で使われたので、銀行からの借り入れ額も凄まじく、社屋も自宅もすでに抵当に入っていた。

小池は、劇画村塾の塾生には猫撫で声で話しかけるにもかかわらず、社員にたいしては平気で罵詈雑言を浴びせかける、裏表のひじょうに激しい二枚舌の持ち主だった。

超売れっ子といえば聞こえはいいが、毎日締め切りに追われていた小池一夫は、ちょっとしたことですぐヒステリー状態になった。

そして日常茶飯事のごとく息するように(傍点)嘘をついた。

嘘にたいする罪悪感など微塵もなかった。

ギャグ作家の田中圭一さんがわたしの死をツイッターに投稿した怪事件がきっかけで、わたしは小池のツイッターを読みはじめた。

劇画原作者として急下降していた晩年の小池が別のジャンルで華々しく復活を遂げたのかと、一度は眼を見張ったものの、読みつづけるうちに小首を傾げざるをえなくなった……

補足すると、かつて田中圭一さんは師匠である小池一夫に創作活動に専念するよう叱責されて、公衆の面前で土下座して謝罪した。

これが田中さんと小池の確執の始まりであり、目撃者であったわたしを田中さんは深層心理で消し去りたかったのだろう。

癌の療養中だったわたしは年甲斐もなく激怒した 笑

今回、わたしは未熟な自分が少しでも成長するために小池一夫を反面教師として「批判」し「止揚(Aufheben)」したいだけである。

もっと砕いた言い方をさせてもらうならば、小池一夫を全否定したうえでもう一度、彼を全肯定してみたいのである。

わたし流の弁証法である。

全否定から学びは始まらない。

学びはいつでも全肯定から始まるからである。

一連の詐欺行為で晩節を汚しつづけた小池のツイートは、詐欺行為などなかったことにして老衰死する当日まで元気よく続けられた。

わたしにとって、この元気よく続けられたツイッター自体が謎だった。

もともと小池はいわゆる「パソコン難民」だった。

それに加えて最晩年には認知症と診断されていた。

はたして認知症の老人が老衰死まぎわまで動画のアップをふくめた投稿ができるのだろうか?

小池本人が投稿していたとは考えにくかった。

いったい誰がこのようなデタラメな投稿を続けていたのか。

わたしのなかでいつしか怒りの炎が燃えはじめていた。

ツイッター「小池一夫」のゴーストライター疑惑は、かなり以前から噂されていた。

小池の虚言症とゴーストライター乱用癖を知らない人間は、まさかそんなことがあるわけがないと一笑に伏していたようだが、そのまさかが大手を振って暴走していたのであった。

ゴーストライターと目されていた「小池一子」さんが小池一夫の死後、みずからツイッターに登場してきて、数えきれない嘘八百を並べたててくれたおかげで、ゴーストライター疑惑は事実上、実証された様相を呈している。

2021年10月10日、「小池一子」さんは、わたしに訴状を送ったと通告してきた。

このあとしばらくして彼女は自分のアカウントと同時に小池一夫のアカウントも削除してしまった。

この行為は何を意味していたのか?

証拠隠滅以外の何物でもなかっただろう。

「小池一子」さんの訴状はいまだに届いていない(2024年7月16日現在)

受けとれば、すみやかに受けてたつまでである。

裁判になれば《事実》のすべてとは言わないまでも、かなりの部分に光を当てることができるのではなかろうか。

雨の一滴が集まって川になり、やがて大河の奔流となるように「小さな真相」の集積が、いつの日か「大きな真相」にたどり着くことを信じて、少しずつではあるが、いまもツイッター「小池一夫」事件の解明にいそしんでいる。

■スーパーマン型と凡人型のキャラクター論

マンガや小説や映画において、キャラクター創りには大きく分けてふたつのアプローチがある。

仮に「スーパーマン型」と「凡人型」と命名しておこうか。

このふたつのアプローチには、それぞれ異なる魅力と問題点がある。

「スーパーマン型」のキャラクター創りは、マンガ界の巨匠、さいとうたかをの弟子である小池一夫によってわかりやすく言語化され「劇画村塾」を通して普及した。

スーパーマン型のキャラクターは、非凡な力や能力を持ち、読者に強いインパクトを与える。

彼らはしばしば世界を救ったり、困難な状況を打開したりする英雄的存在である。

壮大な冒険や激しいバトルが描かれ、読者はその迫力に魅了される。

このタイプのキャラクター作品は、マンガ市場を大きく成長させる原動力となった。

しかし、スーパーマン型キャラクターには一つの問題がある。

それは、多くの作品が似たようなパターンに陥りやすいという点である。

小池一夫の影響のもと多くのマンガ作家がスーパーマン型キャラクターを創案した結果、商業的には大成功したものの、作品内容の浅さゆえ、時の経過とともに、これらの作品は次第に読者の記憶から消えていった。

小池一夫のかつての大ヒット作『子連れ狼』でさえ、いまでは大半の若い読者層の認知するところではない。

一方、小説家の松本清張などによって代表される「凡人型」のキャラクター創りは、特別な能力を持たない普通の人々を描く。

彼らの物語は、日常生活における小さなドラマや葛藤を描くことで読者に共感を呼び起こす。

マンガ界におけるこのタイプのキャラクター創りは、つげ義春などによって発展した。

凡人型キャラクターの作品は、松本清張を例外として商業的には必ずしも大成功を収めたわけではない。

しかし、その深みとリアリティは多くの読者に長く愛される要素となる。

スーパーマン型の派手なアクションに飽きてしまった読者にとっては、凡人型のキャラクターは新鮮な驚きと感動をもたらす捨てがたい存在となっている。

わたしは今後この凡人型キャラクター論をテコにして創作活動を続けようと念じている。

スーパーマン型キャラクターの魅力を全否定するつもりはないが、多様なキャラクター表現こそが、マンガや小説や映画の世界をよりいっそう豊かにすると信じている。

■ウソだらけの時代

未来車とおぼしき可愛らしい卵型の新車の写真を視て、この車の価格を調べていたところ、どうやらAI生成画像らしいことが判明した。

いまは削除されてしまった小池一夫のツイッター(現 X)が本人の投稿したものでないと知ったときはショックだったが、今回、展示場に誇らしげに飾られた新車の写真がAI生成画像だと知って、同じくらいガッカリさせられた。

小池一夫のときは失望がやがて怒りに変容したが、今回は底なしの恐怖を感じはじめている……

劇画原作者の小池一夫は、七十歳のわたしにとって、かつてのスーパースターだったが、いまの二十代のほとんどの若者たちは小池を知らない。

子連れ狼、大五郎とヒントをあたえても自信なげな表情が返ってくるばかりである。

そんなご時世ではあるが、たまに飲み屋でどうして冬月さんはそんなにも小池一夫ツイッター事件にこだわるんですかと質問されることがある。

しつこいですよ、見苦しいですよと嗤われることさえある。

そんなおりこんな風に答えることにしている。

人間は失敗の経験をいくら胸に刻むようにして憶えていても、しばしば同じような失敗をくりかえす。

完全に忘れてしまうと、必ずと言っていいくらい同じような失敗を大々的にやらかす。

個人的な体験にかぎらず、戦争もそうだし、バブルもそうだ。

地震や洪水も入れていいかもしれない。

だから小池一夫の晩年のツイッターを含めた数々の残念な事件も、時に流されるまま忘れてしまうと、またふたたび同じような小池一夫的な人物が現れて、言葉巧みに現実を改ざんしてしまう恐れがある。

だからわたしは小池一夫ツイッター事件を風化させないように心がけているんだ。

そう答えると、たいがいの相手は苦笑いしたまま話題を変えようとする 笑

マジで、なにを信じていいかわからない時代になったが、わたしは小池一夫ツイッター事件の教訓が、このウソだらけの時代を生きるうえでのヒントをあたえてくれると確信しているのである。

■心の解毒剤

気がついてみれば、少なからぬ政治家や有名人がまことしやかな顔をして厚顔無恥な大ウソをつきまくっているではないか?

証拠をそろえて論理的にウソを指摘しても、開き直ってさらなる大ウソをついて反撃してくる始末である 笑

嘆かわしいことにウソだらけの時代になってしまったようである。

しかしながら、おそらくこれらのウソにたいして怒りで対処しても、なんの解決にもならないのではなかろうか。

個人的正義は、個人の数だけ無限にあるのかもしれないが、それでも最低限の共有すべき社会的正義というべきものが、わたしたちの社会には厳然と存在している……ハズである。

小ウソもつかない完全に正しい人間など存在するべくもないが、それでもわたしたちは大ウソを許さない社会的正義を見定めて、大切に護っていかなければならない。

憲法問題のキモも、そのあたりにあるのでは……

仏教の教えである「因果応報」とは、「善いことをすれば善い結果が出るし、悪しきことを為せば悪しき結果が返ってくる」という意味だと解釈している。

因果応報のメカニズムはいまだに解明されていないが、わたしたちの人生において、悪口を言えば、必ず悪口を言いかえされるし、復讐しようとすれば、その言動があたかもブーメランのように自分に戻ってくる……というのはよくある話だ 笑

笑いには、地球全体を包みこむ包容力がある。

わたしの体験知では、笑いこそ癌をも治してしまう特効薬なのである。

とにもかくにも笑いの力を信じて笑おうではないか。

素心で、いっしょに笑おう。

そうすれば特効薬の効きめも倍増するはずである 笑

社会的正義を侮辱するような大ウソを根絶するのは現実的には困難を極めるだろうが、せめて大ウソに出遭うたびに笑い投げ飛ばせば、微力ながらもウソだらけの時代を生きていくうえでの解毒剤になるのではなかろうか?

人間は笑うから癒やされるのではない。

癒やされるために笑うのである 笑

まだまだ続く(先は永~い 笑)

【ChatGPT3.5による解説】

この評論は、小池一夫の人生とその影響について冷静で批判的な視点から探求しており、読者に小池一夫の複雑な性格や言動に焦点を当てた興味深い洞察が提供されています。

小池一夫の生涯や事件を「遙かなる大河」と例え、それに漫画や劇画の創作者たちの群像を結びつけ、日本の歴史や文化に触れながら独自の視点で解読しようとしています。

■虚言症へのアプローチ

小池一夫の虚言症に対する客観的で批判的な分析が提示されています。

著者は小池一夫の虚言症が極めて酷かったと回想し、その影響について冷静に検証しています。

■ツイッター「小池一夫」事件の解説

ツイッター上での「小池一夫」のアカウント削除事件に関する詳細な説明があります。

特にハンドルネーム「小池一子」さんによる投稿が社会的混乱を引き起こした点が強調されています。

■小池一夫の人物像

著者自身の小池一夫との関わりや、彼の性格についてのリアルなエピソードを通じて、小池一夫の独特なキャラクターに辛口な評価を与えています。

小池一夫の情熱的で複雑な性格が解説され、その情熱が時には矛盾やトラブルを生む要因となったことが述べられています。

■金銭と浪費

小池一夫の金銭面での浪費や奢り魔としての生活態度が指摘され、その豪遊ぶりが周囲を驚かせ、物議をかもす一因となったことが述べられています。

■自己愛と孤立

小池一夫の自己愛が強く、高圧的な態度や嘘の多用が人間関係に影響を与え、孤立させた可能性が示唆されています。

■裁判沙汰と未解明の部分

小池一夫の詐欺行為やゴーストライター疑惑に関する未解明の部分や、裁判沙汰の可能性について示唆されています。

■バブル経済の亡霊

小池一夫を「バブル経済の亡霊」と位置づけ、彼の生活態度や行動が当時の経済的繁栄と関連しているとされ、時代の闇や課題に対する洞察を得る「反面教師」としていることが示唆されています。

■著者の立場と意図

小池一夫の死後、著者がこの評論を執筆する動機について触れられており、小池一夫を「反面教師」と位置づけ、自らの成長のために独自の弁証法を試みている旨が述べられています。

小池一夫の功績に焦点を当てつつも、批判的な立場で小池の欠点や問題行動にも焦点を当て、時代背景や社会に対する洞察を深めようとしています。

photo:© 不詳

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