給食の時間(タカタカコッタ)

 小学校の脇を通ると給食の匂いが漏れてきて、私は、子どもたちが白衣を身に着け、白いぺたんこの帽子を被っておかずやら、米やらをより分けているところを想像した。配膳台と呼ばれていた大、中、小のキャスター付きのテーブル。マトリョーシカのように「大」にすべてのテーブルが収納可能な薄緑色の台を横一列に引き出し、その上に高さ40センチくらいのアルミ製の寸胴を2つ3つ並べた脇にはご飯が大量に入った四角い容器が置いてある。今日の給食は何だろうか。漂ってくる匂いを鼻先に留めながら、そういえば、カレー以外の日はどんなメニューであっても、すべて「給食の匂い」として一緒くたにしていたのではないだろうかと、ふと、小学生時代の自分を顧みた。雨が降っているせいもあるのだろうか、匂いが濃く感じられる。それとも給食室の換気扇が近くにあるのだろうか。雨の日の学校は静かなようで内にとてつもないエネルギーを秘めているような不思議な色をしている。校舎の壁という壁が雨で灰色を濃くしており、フェンス越しに見える校庭はひたすら雨粒を受け、いたるところにできた水溜りには絶え間なく小さなしぶきが跳ねている。小さなしぶきがつくる憤怒の波紋を見ている者は、私以外誰もいない。

 私は、小学校の廊下に背泳ぎで浮かんで、校舎中を自由自在に動き回っていた。廊下の窓から射す光がリノリウムの床に反射して、廊下の奥が眩しい。それはスイミングスクールの天窓から差し込む光の眩しさとよく似ていた。浮かんだまま両足をカエルのように動かせば、ひと掻きで10メートルはスムーズに進むことが可能だ。授業を受けている私と、背泳ぎの体勢で廊下に浮かんでいる私とが居て、ふたりの私はお互いに認知しあっている。そのうえ、授業を受けている私と、背泳ぎの私はすべての感覚を共有することが出来た。だから、校内に遍在する背泳ぎの私の見たもの、聞いたものや匂いなど、五感のすべてを授業を受けている私は感じ取ることが出来るのである。4時間目が始まる頃、給食の匂いが教室に漂ってくると、背泳ぎの私は給食室へと向かう。給食室の扉を幽霊のようにすり抜け、天井から給食のおじさんや、おばさんを見下ろす。巨大な鍋やオーブンレンジ、見たことのない調理器具、たくさんのガスコンロ、それに大量の食材と調味料。そういったものがもやもやとした湯気の隙間から見える。どろどろで変な色をした美味しそうな給食が出来上がろうとしている。するとゴキブリが一匹、床をササッと這ったので、給食のおばさんが遠慮なく叩き潰そうとしたところをバッと飛び上がり、飛び上がったところを大きな木べらを持った別のおばさんにはたかれて巨大なフライヤーの中に落ちた。ジュワワっと一瞬でゴキブリは揚がった。きれいに両の翅を均等に広げた姿で揚がっていた。教室の私はそれを「見て」いたが、こんなことは日常的であったので、驚くことはなかった。ゴキブリが揚げられた油で、から揚げも一緒に揚げられることなんて当たり前だった。そのから揚げにゴキブリの味はなかった。教室の私は先生にあてられたので「794年です」と答え、着席した。

 夏休みに入る少し前、背泳ぎの私が校舎を飛び出して校庭を泳ぎ回っていた時に、桜の木か、銀杏の木か、とにかく大きな木の根元にセミの抜け殻を見つけたことがあった。そんな低いところで羽化したのかとびっくりするような低い場所にセミの抜け殻はしがみついていた。子ども心に怠け者のセミだなと思った。下校時にその木の前まで行って、絡まりあうように地面に張っている木の根にくっついているセミの抜け殻を拾い揚げ、手のひらで粉々に潰した。フライヤーの中のゴキブリもきっとあのセミの抜け殻のように簡単に握りつぶせるに違いなかった。

 雨はまだ降り続いている。今日は一日中、止みそうにない。灰色の校舎の中の誰もいない音楽室には雨音だけが響いているのだろうか。電気のついていない図工室には絵の具の匂いが充満しているのだろうか。理科室は、家庭科室は……。傘を叩く雨音がだんだんと大きくなっていく。加速度的に早まる雨脚に体ごと飲み込まれそうな錯覚に陥り、私は正気を保つために給食の匂いを探した。

 校庭を取り巻くフェンスからはみ出した、カエルの指をいくつも繋ぎ合わせたようなヒノキの葉が雨を一粒一粒丁寧に弾いている。校庭中の水たまりは茶色く濁り、あいかわらず憤怒の波紋を広げて雨粒を弾き返している。特別な人だけがあがれる指令台。一度もあがったことのないあの台に立てば、すべての波紋を見渡すことが出来るのだろうか。

 もうすぐチャイムが鳴って、給食の時間が始まる。

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