なんだ、夢か(紀野珍)

 ▼夢リセット後①

 ——目が覚めた。
 カーテンに漉された陽光のゆらめく室内。ベッドに横たわる自分。枕もとのスマホが鳴らすアラーム音。喉の渇き。この状況を俺は知っている。いや、知っているだけじゃない。体験した。それほどまでにリアルな既視感があった。
 寝たままでスマホを探り当て、アラームを止める。日付を確認する。二十三日。土曜日。いまの動作にも覚えがある。さっき見ていた夢、そのなかで同じことをした。
 ——呪文を唱えてみないか。
 夢で、泉は言った。言われて、自分はそうした。そうして——そこで目覚めたのではなかったか。
 うなじのあたりがすっと冷え、身震いする。まさか、やつの言ったことは本当なのか。夢だと自分が思っているものは、じつは夢ではなく——。
 まさか。
 ベッドに腰掛ける。このあと自分がどうするか知っている。出かける準備をして、駅近くの喫茶店へ向かうのだ。泉と会うために。夢ではそうだったし、実際にそうなる。泉と約束しているから。この現実で。だから行く。夢は関係ない。
 家を出て、待ち合わせ場所へ急ぐ。すべての行動に付きまとう明瞭な既視感。何かに操られているような、決められた順路を辿っているような道中だった。不快だが、意識せずにはいられない。
 約束の五分前に喫茶店に到着し、迷わず奧のテーブル席を目指す。そこに泉はいた。
「待たせたか」と向かいの椅子に座る。泉は俺を見て微笑む。そして口を開く。
「どうだ、夢と同じことがくり返されて驚いてるだろう」


 ▼夢リセット前

 泉は手帳を開き、ボールペンで何かを書き付ける。そのページを破り取る。コーヒーカップを脇に寄せて言う。
「いまからある言葉、というか呪文を見せるが、ぜったいに、口に出して読むなよ」
「呪文?」
「そう。おそろしい呪文だ。分かったな?」
 頷く。
 泉は紙片を広げる。そこには〈なんだ、夢か〉と書かれていた。
「……それが呪文?」
「この言葉、口にしたことないだろ?」
 聞かれて、考える。なんだ、夢か。ドラマや漫画なんかでは見聞きしていると思うが、たしかに、自分で言ったことはなさそうだ。
「フィクションでしか使わないだろ、そんなの」
「だよな。だから誰も知らないんだ」
「知らない?」
 泉は紙片を畳み、手の中にしまう。
「この呪文を口にすると、それまでのことが本当に夢になる」
「……はあ?」反応が遅れた。「本当に夢になる? どういうことだ」
 泉は少し考える素振りを見せて言う。「今日は何時に起きた?」
「なんだよ突然。……ここに来るちょっと前だから、十時くらいか」
「おまえが呪文を唱えると、十時に目が覚めた瞬間まで時間が巻き戻される。で、時間が戻るだけでなく、おまえが今日起きてからこれまでにしたことが、寝ているあいだに見た夢として記憶される。——これで分かるか?」
 今度もすぐには言葉が出なかった。「何を言ってるんだ」
「待て」と手のひらを向ける。「信じる信じないはおいといて、いまので仕組みは理解できたか?」
「……つまり、いま俺らがこうしていることが、じつは夢でした、ということになる?」
「さすが」泉は目を見張る。「SF読みは飲み込みが早い」
「そんな夢オチみたいな現象が、さっきの呪文を口にすると起こると?」
「起こるんだ。〈夢リセット〉と俺は呼んでいる」
 嘆息する。休みに呼び出されて何事かと思えば、現実と虚構の区別がつかなくなった男に〈夢リセット〉とやらの解説を受けている。これこそ悪夢だ。こんな与太話に付き合うほど暇だと思われているのか。予定のなかった自分を呪う。
 腹が立ってきたので、詰めてやることにした。
「おまえはもちろんそれをしたんだな?」
「ああ。だからこうして説明できる」
「夢になる、ってどんな感じなんだ」
「寝て、夢を見て、そこから目覚めるのに近い。それまで体験していた世界がぶつっと途切れて覚醒する、ああいう感じだ」
「たとえば、いまおまえが呪文を口にしたらどうなる。手品みたいに消えるのか?」
「過去に跳ぶのは呪文を唱えた当人の意識だけだ。肉体はどうにもならない」
「目の前のおまえは意識の抜け殻になる」
「意識はそんな、抜けてなくなってしまうというものじゃない。呪文で跳ぶのは意識のコピーと考えろ。いま世界を認識している俺は、コピーのほうに乗って時間を遡る。この肉体には原本の意識が残るから、このままおまえとお喋りを続けられる」
 これで得心できてしまうのが悔しい。この方向では切り崩せない。攻め手を変える。
「リセットしても記憶は消えないんだな?」
「消えない。巻き戻されたぶんの記憶は夢になる。ただ、それが夢でなくリセット前の記憶だというのはすぐ分かる。経験済みの時間がリピートされるからな」
「なら、それで金儲けできるんじゃないか?」
「ギャンブルとか投資とか? 不可能じゃないが難しい。リセット後の世界はリセット前のそれとは微妙に、だが確実にずれるから。ぴったり同じ内容にはならないんだ。リセットした当人の行動がバタフライエフェクト的に作用するんだろう」
 なるほど、と素直に思う自分に驚く。
「ただ、リセットをくり返して知識を蓄えることは可能だ。記憶は消えないから、実質無限に時間を使って学習できる」
「それは魅力的な活用法じゃないか」
「分厚い専門書を一日に何十冊も読破するようなこともできるが、残念ながら、そういうお勉強は長続きしない。同じ日の反復は……飽きるんだ」自嘲的に笑う。「それと、知識を詰め込めば賢くなれるってわけでもない。応用力やインスピレーションを欠いては真の天才にはなり得ん」
「なんだよ、いいことないじゃないか」
「錬金術みたいな用途は期待すんなって忠告だ」コーヒーの残りを啜る。「どうだ、適当な思い付きを言ってるんじゃないのは分かったろ?」
「……だからって本気の話とは思えん」
「だろう。いくら口で説明されてもな。けっきょくは——」泉は椅子に座り直す。「実践でたしかめてもらうしかない」
「実践?」
「呪文を唱えてみないか。そうすれば一発で答えが出る」
「いま、ここで? あの漫画の台詞みたいなのを? 勘弁してくれよ」
「信じてないなら、呪文を言うくらいなんでもないだろ。大声で叫ぶ必要はない。俺に聞こえなくてもいい」
「いやいいって。やらない」
「リセットで身体や脳に負荷がかかることもない。何度もやってる俺が保証する。怖がらなくていい」
 びびっているかのように言われてカチンとくる。なぜ俺が、夢リセットなんて世迷い言を聞いてやっている俺が、こんな不愉快な思いをせねばならんのか。調子に乗りやがって。膝の上の両拳を固く握る。分かった、やってやるよ。その糞呪文を唱えて全部妄想だと証明してやる。「冗談冗談」なんて笑ってみろ。横っ面張り飛ばすからな。
 顔を上げ、泉の視線をしかと捉え、相手に届く声量で言った。
「なんだ、夢か」


 ▼夢リセット後②

「俺がリセットしたことを知ってるのはなぜだ」最初の夢リセットのあと、喫茶店で再会した泉に尋ねた。「俺には二周目の今日だが、おまえは違うだろ」
 やつは答えた。「俺は今日、おまえに夢リセットを伝えると決めていた。だから、おまえは今日リセットをする。そしてかならずここに確認に来る。俺はおまえが来たら、夢と同じことが起きているだろうと切り出す。それで驚かせられる」
 その後、泉の前でもう一度呪文を唱えてベッドの上に戻され、いよいよ認めざるを得なくなった。みたび喫茶店で俺を迎えた泉は「夢と同じことがくり返されて驚いてるだろう」と言った。
 俺が夢リセットを受け入れたと分かると、「うまく使ってくれ」と言い残して泉は店を出て行った。
 当然使った。すごい力を手に入れたと思った。電車に乗り遅れて遅刻したのを夢にした。仕事でミスしたのを夢にした。スマホを落として画面を割ったのを、買って間もないシャツに油染みを作ったのを夢にした。心ない軽口で同僚を怒らせたことも、友人の紹介で知り合った女の子に告白して玉砕したことも夢にした。
 だが、それで生活の質が向上したか、幸せになれたかといえば、そんなことはなかった。ミスを取り消してもプラスにはならない。せいぜいが現状維持。リセットのあと似た失敗が異なるタイミングで生じることもままあり、そんなときはよりましな失敗を求めてリセットをくり返した。
 問題を先送りしているだけなのでは。そう思うことが増えた。しかしリセットはやめられない。
 すっかり逃げ癖がついてしまった。

 ある日、横断歩道で向こうから来る人の群れに知った顔を見つけた。 泉だ。気付いて振り返ったときには見失っていた。引き返して探したが無駄だった。
 そのときまで、泉のことをすっかり忘れていた。泉とはあの日、例の喫茶店で別れて以来顔を合わせていない。連絡してみるかとスマホを取り出し、そこで不意に、ある事実に思い至って慄然とする。
 俺は、泉の連絡先を知らない。連絡したことがない。いや、そんなことより、
 ——泉って、何者だ。
 名前は分かる。顔も浮かぶ。ただ、自分との繋がりを示す記憶が出てこない。いつどこで出会ったのか。どういう関係なのか。どんな付き合いをしているのか。——あの日の待ち合わせはどう決めたのだったか。
 歩道に立ち尽くす。自分の存在がひどく頼りないものになった気がする。
 ——捕まえなければ。
 泉は今日、この場所に現れる。さっきは見失ったが、俺には夢リセットがある。何度でもここに戻って、かならず捕まえる。そして聞き出すのだ。
 ——おまえは誰だ。なぜ俺を選んだ。
 つぶやく。「なんだ、夢か——」

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