「波松」(ベランダ)
勇作の朝は早い。板前見習いだからだ。眠い目を擦りつつ、4年目ともなると仕込みの作業は身体に染み込み、てきぱきと準備に取り掛かる。お通しのごぼうの皮を削り、吸い物に添えるカイワレを切り、冷凍してある鯛のうろこをゴリゴリ削った。
「大将、今日は何してくれるんだろう」
今頃大将の野上は豊洲や築地で鋭い眼光で鮮魚を吟味し、魚市場の店主たちと喧々諤々している。ということはまず皆無で、最近購入した120万円の高級ラブドール2体を抱きよせながら三角帽子を被って寝ているだろう。もうあらかたの女を抱きつくした末に辿り着いたラブドール。タワーマンションの38階。羨ましい。
「羨ましい。ぜってぇ俺も早く一人前になって店出してタワマンに住む。この角刈りじゃタワマン住んでる金持ちじゃないと、それぐらいデカいオプションがないと女子は振り向いてくれない。角刈りのマイナス分をタワマン備え付けの北欧家具や間接照明で補わないと。早く大将みたいにならないと」
勇作は何も乗っていないまな板に包丁をトントンさせながら長い長い独り言を天井に吹きかけた。角刈りはモテない大きな要因の一つではあるが、普段チャックの所がサメの口になっているリュックを背負って、中日ドラゴンズの野球帽をかぶっているファッションセンスに問題があるんじゃないか。変えていくべきはそこからじゃないのか勇作。角刈りのせいばかりにするんじゃないよ。あたしゃ情けないよ!あぁん!
すべての仕込みを終えた勇作は時計を見るともう11時。「鮨屋 波松」の暖簾を出すために店の玄関を出た。猛暑日の太陽を吸収したアスファルトの熱は薄い草履を履いている勇作の足裏に夏を刻印した。早朝よりも蝉の鳴き声に元気がない。暖簾を取り付け振り返ると、台車に巨大な四方体を乗せた汗だくの野上がいた。
「重ぇ、重えよ。熱いしよ」
「それなんすか」
「スピーカー。いいだろ。でっけえから」
野上は、はやく中に入れろと言わんばかりに顎で合図し勇作に扉を開けさせた。スピーカーを床に下ろし、台車を奥に持って行った野上はカウンターの後ろにあるコンセントの前で設置し始めた。スピーカーからは沢山の配線が垂れていて、なにやら大事になりそうだと思った勇作だったが、赤色黄色白のプレステとテレビを繋げるときに時に使うやつもあって、なんだかちょっと安心した。
「一人いけますか」
暖簾からひょこっと顔を出したのは、髭を蓄えロマンスグレーの長髪をなびかせた老紳士だった。スーツの胸ポケットから少しハンカチがのぞいている。医大で免疫学を教えている常連の山城だ。
「まだ準備してんの見てわかんねぇのか!病気の馬みたいな顔して外で待っとけ!」
野上に一喝された山城は、ふぇぇぇと怯えて扉を閉めた。常連を容赦なく罵る野上を勇作は羨望の眼差しで見つめた。かっけえ、でっけえ、すっげえ。スピーカーの設置が終わった野上はノースリーブのTシャツにボンタンを履いてハンチングを被った。これが彼の仕事着なのだ。今はカウンターの中の丸椅子に座ってドデカミンを飲みながらスマホを弄っている。
「山城さん、もう大丈夫ですよ」
勇作は店の扉を開け、往来する自動車を体育座りでじっと見つめている山城に声をかけた。
「すまないね」
山城は勇作に話す時だけ、バリトンボイスで劇画調の彫深めになる。そして尻に着いた砂埃を払いながら店内に入りカウンターに座るが早いが「おすすめで」と注文した。野上は一瞥して、店の外に出て行った。勇作はカウンターにお通しのごぼうの煮つけと熱々のポカリを置いた。波松のアガリはホットポカリなのだ。
「大将の許可が出るまで、食べたり、飲んだりしないでくださいね」
山城はニコリと頷いた。肘をついて両掌を頬にあて、うっとりしている。貧乏ゆすりもしている。すると、店の扉が開き自転車を抱えた野上が入ってきた。そしてスピーカーと自転車を巨大なアタッチメントのような器具で繋いだ。
「漕げ」
野上は山城に自転車を指さし、カウンターの中に入っていった。山城は飛びつくようにスタンドが立てられたままの自転車に座り、勢いよくペダルと踏み始めた。
まな板にでんと、鯛を置いた野上は丁寧に捌いていく。続いてカンパチやヒラメも丹精込めて刃を入れていく。目は魚から離さぬまま野上は「もっと力こめて漕げよ!」とか「ペース落ちてるぞ!」とか烈火のごとく山城に檄を飛ばした。老体に鞭を打ち必死にペダル踏み込む山城はグレーのスーツが斑模様になるほどすでに汗をかいていた。
15分ほど経過して、シャリの温度を確認し握りの段階になった野上は山城を見て叫んだ。
「あと少しだ!根性見せろ!ゴラァ!」
山城は姿勢を前傾させサドルから尻を上げた。立ち漕ぎだ!ジジイの立ち漕ぎだ!
めったに見られない光景に勇作はスマホでムービーを撮りだした。いろんな角度から老人の立ち漕ぎを撮影していると、微かだがスピーカーから陽気なテンポのメロディーが流れだした。山城は完全にランナーズハイの状態になっていたので、どんどん車輪のスピードが上がっていく。それと比例して小さなメロディーが明瞭な音楽となって店内に響き渡った。
「クマムシのあったかいんだからぁ、だ!」
勇作は人差し指を立てて軽くジャンプした。
「しかもこれ盆踊りバージョンだ!CD買わないと聞けないやつだ!大将買ったんだ!」
野上は一人前の握りを完成させた。そしてカウンターを出て、皿に盛った握りを片手に山城の前に立った。完全にランハイ状態の山城の顔色はもう汗が噴き出す赤を通り越して青白くなっている。野上は山城のじっと目を見つめながら、自分の口に寿司を放り込んだ。どんどん放り込んだ。くちゃくちゃいわせながら、時には咀嚼したものを舌の上に乗せて山城に見せびらかした。あったかいんだからぁ盆踊りVerは店の外にも聞こえているであろう音量になっていた。食べ終わりぼそっと「我ながら不味い」と言った野上はスピーカーの電源を切り、山城を自転車から引きずり降ろした。勇作はもう温くなったホットポカリを山城の口に含ませた。よろめきながらカウンターに座った山城は恍惚の表情を浮かべている。
「食べていいよ」
と野上はお通しのごぼうを指さした。ほぼ握力がなくなった手で箸を持ちぼそぼそと食べる山城。野上は丸椅子に座りどこか一点を見つめるように缶コーヒーを一気に飲み干した。
「あと、これもよかったらどうぞ」
勇作は小袋のなかでバキバキになっている雪の宿をカウンターに置いた。
「リュックの奥に入れっぱなしだったやつですけど」
山城は蚊の鳴くような声でお礼をいって受け取った。小鉢お通しのごぼうを30分かけて食べた山城は、お会計8万4000円を払い満足そうな顔をして店を後にした。
ジジイの立ち漕ぎはバズるぞ、と思いながら自転車やスピーカーを勇作が片付けていると、野上がスマホに視線を落としたまま呟いた。
「もう食変態の相手も飽きたな」
「そうですか?僕からは大将、まだまだ楽しんでるように見えるんですけどね」
「言うようになったじゃねえか」
勇作は笑った。
「あのよう」
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。
「今度この寿司屋ぶち抜いて、ファミリーマートⅡって肛門科やろうぜ」
勇作は釣りキチ三平ぐらいジャンプして拳を突き上げた。
「そうこなくっちゃ!」
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