ピに至る装置(紀野珍)

 赤いゴムボールに添えた指を離すと、ボールは木製のレールの上を転がりだす。
 すぐにレールが途切れてゴムボールはテーブルに落ち、高くバウンドしてつぎのレールに載る。これを三度くり返し、4本目のレールの終点でゴムボールは進路を塞ぐように立てて置かれた消しゴムに当たる。
 消しゴムは倒れ、隣の消しゴムを倒す。緩くカーブを描いて並ぶ消しゴムがドミノ倒しの要領でつぎつぎと倒れ、消しゴムのサイズは次第に大きくなっていく。
 しんがりの消しゴムは傾斜したソロバンの上に倒れ、そろそろと下方へ滑る。
 そろばんを滑りきった消しゴムはトランプのケースにぶつかる。ケースは奥に倒れ、中に詰められた無数のBB弾が転がり出る。
 BB弾の一群は拡散しながらなだらかなスロープを下り、テーブルの縁に取り付けられた雨樋状のレールに落ちる。BB弾はレールを流れ、滑車から吊り下がる紙コップに余さず集められる。
 紙コップが重量を増し、滑車が動く。紙コップはゆっくり沈み、滑車の反対側に下がる小箱が持ち上がる。ある高さまで上昇すると小箱はひっくり返り、中からビー玉が飛び出して木製のレール上に落ちる。
 ビー玉はレールを軽快に転がり、勢いよく漏斗に飛び込む。ビー玉は漏斗の内側をぐるぐると周回したのち、底の穴に吸い込まれる。ビー玉は漏斗の管を通り、シーソーの端に接着された小さな紙コップの中に落ちる。
 ビー玉の重さを受け、シーソーの傾きが変わる。その動きによりストッパーが外れ、輪ゴムで引き絞られた木槌が縦方向に回転してサイコロを打つ。
 弾き飛ばされたサイコロはアクリルパイプの中を滑走し、パイプから射出されて毛糸玉に命中する。サイコロに衝突され、編み棒の貫通した毛糸玉が坂を転がり始める。
 毛糸玉にぶつかったあとサイコロはテーブルに落ちて転がり、テーブルからもこぼれ落ちてさらに転がる。
 ようやく停止したサイコロを、ダークレッドのパンプスがこつんと蹴る。サイコロはまた転がる。
 パンプスの女がサイコロを追い、しゃがんでつまみ上げる。女はサイコロを顔の前に掲げ、自分の拾ったものがなんなのか検めたあと、肩に提げたバッグの中に落とす。
 女は建物を出、タクシー乗り場でタクシーに乗り込む。女が行き先を告げ、タクシーが発車する。
 運転手は黙したままときおりルームミラーに目をやり、タクシーは夜の街を走る。女はスマホを操作し続け、マスクを着けた顔が液晶の灯りに照らされる。
 女がこのあたりでと言い、タクシーは路肩に停まる。女は料金を払って領収書を受け取り、車を降りる。
 女はマンションのエントランスで郵便受けを確認し、オートロックを開錠する。エレベーターで3階へ上がり、305号室に入る。
 女はマスクと上着をベッドの上に放り、それらを踏まないよう膝を立てて仰向けに寝転がる。パンツのポケットからスマホを抜き、メッセージのやり取りを再開する。
 メッセージを受信し、女は眉間に皺を寄せる。
 女はスマホを腹に載せて目をつむり、そのまま数分が経過する。
 女はふと思い立って身体を起こし、テーブルの上に置いたバッグからサイコロを取り出す。女がサイコロを床に落とすと、サイコロは少し転がり3の目を上にして止まる。
 女はしばらくサイコロを見詰め、スマホを持ち直して3文字だけのメッセージを入力する。メッセージを送信すると、女はバッグの横にスマホを伏せて置き、浴室へ向かう。
 女はシャワーで軽く浴槽を流し、給湯器のボタンを押す。お湯張りが始まり、女は浴室を出る。
 浴室内の湿度が徐々に上がり、浴室鏡が曇りだす。曇りが濃さを増し、鏡の隅に文字が浮かび上がる。
 その文字は片仮名で、〈ピ〉と読める。

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