週末は森へ行く(puzzzle)

 四〇も過ぎれば手をつないで街を歩くこともなくなる。それなのに、この頃、手をつなぎたくてしかたがない。街を歩けば手をつないでいる男女が目につく。若い男女が手を握っている。俺だっておまえらくらいの時はニギニギしながら歩いたもんさ。老いた男女が手を握っている。俺もいつしかニギニギ支えあって歩くようになるのかしら。嗚呼、街中いたるところで男女は手をつないでいる。それなのに俺たち夫婦ときたら。
 お出かけとなれば大抵チャリンコだ。街から少し外れたところに家を構えている。家のローンを抱えて車を維持できるほど裕福ではない。チャリンコで街へ出るという中途半端な立地により、手をつなぐ機会を逸しているのではないか。
 そもそも何故俺たちは毎週末のように街へ出て、スターバックスでコーヒーを啜ってから買い物をしなければならないのか。街に背を向ければ豊かな森がある。狩猟、採集で食料を求めよとは言わない。歩いて森を抜けた先にはJAがあるよ。相互扶助の精神のもとに農家の営農と生活を守り高め、よりよい社会を築くことを目的に組織された協同組合だ。地元で採れた野菜も豊富。良さ気ではないか。森の入り口にスターバックスコーヒーはないが、一〇〇円で缶コーヒーの買える自販機だってある。
 一〇年ぶりに手をつなぐのだ。街中でニギニギするのは少々ハードルが高い。ヒト気のない森でリハビリするのもいいだろう。
「週末は森へ行こう」
「丁度それを考えていたところ」
 俺は目を丸める。にわかに信じがたいが、長年連れ添ってきた故の勘もはたらく。ひょっとしたら妻も俺と手をつなぎたいと考えはいたものの、街中でニギニギするにはハードルが高いと感じていたのではないか。
「ひょっとして、おまえも俺と手をつなぎたいと考えはいたものの、街中でニギニギするにはハードルが高いと感じていたのか?」とは、さすがに聞きにくい。
 週末は森へ行く。俺はその約束へ漕ぎ着けたことにいたく満足し、仕事で粗相を犯しても随分と前向きに土下座することができた。仕事帰りには夜の森を散策して、物の怪とハイタッチ。入念にルートを下見した。
 そして、週末を迎える。森といってもたいしたものではない。宅地開発に不向きな小高い山が残され、そこに散策路が設けられた程度のもの。市民の森と呼ばれるが、大半の市民は見向きもしない。半分は竹林で「許可なきタケノコ掘りは犯罪行為です」と立て看板がされていた。
「とくに竹やぶがいい」
 竹やぶを見ると口にしたくなる世代。妻が苦笑いしたところでニギニギを決行しようと試みるが、正面から手をつないでいない男女が現れた。一見して手を取っていないと分かったのは、脇を閉めて肘の高さで拳を振っていたから。短パンにスパッツだ。キャップにナイキのスニーカーだ。全身スポーティーに決め込んだ健康体。見るからにウォーキングに精通している男女だ。
「こんにちは」
 思いがけず声をかけられた。
「こんにちは」
 妻は淑女然とした笑みとともに頭を垂れる。俺は一歩踏み出す反動で小さく頭を下げた。ふと親父と両崖山ハイキングコースを歩いた餓鬼の頃を思い出した。見ず知らずの人間がすれ違うたびに挨拶を交わす。「山のマナーだ」と親父は知った風なことを口にした。市民の森も小高い山、俺はマナーを守れなかった自分を恥じた。
 溜め息をついている間に小さな森を抜けた。そこには陽の当たる田園風景が広がる。バス停の先にはJA。ニギニギは帰り道までお預けか。夕飯の買い出しをして帰るのか。夕飯になれば、地元の野菜はいつもと違う、ニンジン甘い、甘い甘い、などという会話が展開されるのか。そうと思っていたが、となりにいるべき妻がいない。俺は振り返る。彼女は森の出口で立ち止まったまま、見たことのない表情を浮かべ、まっすぐ俺を見つめていた。
 困惑した俺は、思い付く限りの言葉を口にした。
「ひょっとして、おまえも俺と手をつなぎたいと考えはいたものの、街中でニギニギするにはハードルが高いと感じていたのか?」
 妻は背を向けて竹やぶの中に消えていく。
「許可なきタケノコ掘りは犯罪行為です」
 俺がなにを言おうと、彼女は意に介すこともない。
「とくに竹やぶがいい」
 渾身のものまねにも、苦笑いすらいただけない。
 途端、妻は前足を着いて、全身を震わせると、樹々を縫ってはしゃぎだした。俺は唖然としてその姿を見守るほかない。不規則な跳躍、滑らかな体躯、耳を劈く咆哮、艶やかな演舞。俺はすっかりその姿に魅了され、硬直した身体は次第に溶けだした。吸い寄せられる俺は、彼女の前足を掴んで一緒に踊りたい。しかし、二人で踊ろうにも、オクラホマミキサーしか学んでいない。マイムマイムは二人でうまく踊れない。

文芸ヌーは無料で読めるよ!でもお賽銭感覚でサポートしてくださると、地下ではたらくヌーたちが恩返しにあなたのしあわせを50秒間祈るよ。