別世界(タカタカコッタ)

 落雷があった。ズバンとあった。ヨーコは僕の左隣にいて、落雷があったのは僕の右隣だったので、ヨーコにも僕にも問題はなかった。スターバックスのコーヒーも溢さなかった。雷の落ちたあとに雷は落ちておらず、ただ直径5メートルほどの焦げ跡があるだけだった。

「雷の落ちたあとの匂いって好き」

「僕も」

「鳥カゴの中の匂いとホットケーキの匂いが混ざったあの匂いとよく似てる」

ヨーコはそう言ってコーヒーを啜る。

「そうだね」

僕もコーヒーを啜る。

 ヨーコが池の真ん中にある休憩するところへ行きたいというので僕たちは朝早くからT公園までやってきた。いざ公園となると僕はスニーカーの靴紐を何色にするか迷ったが、何度か着け外しをして、緑地に濃い緑色のストライプの靴紐にした。T公園はこの市の中でも比較的大きな公園で、災害時の避難指定公園になっており、その広い敷地内には図書館や市民会館があって、戦前からある、今は文化遺産になっている噴水や以前は有名人の演説に使用されたという石造りの舞台の周りには、朝から大勢の人が集まってくる。集まってそれぞれがそれぞれのことをしている。

 池の真ん中に休憩するところのある池はその公園のはずれにあった。小学校のプール2面分ほどの広さがあり、池の淵から桟橋のようなものが出ていてその先の回廊めいた廊下を行くと、途中で四本の木材で四方を囲んだだけの簡素な櫓にたどり着く。そこには木目調のギミックが施された切り株型の丸椅子が二つ置いてあって、以前は真ん中に灰皿も置いてあったが今は撤去されている。池の真ん中で休憩できるので市民からは人気があるが、今日は落雷が続いているので人がいない。

「池の水が汚いわね。弁護士みたい」

「おっとせいみたいな背中とか」

「山羊の乳でも流せばいいのに」

「献血の後にね」

「えっ?温州みかん?」

池からは雨季の郵便局員のあの匂いが立ちのぼっていて少し鼻についたが、雨あがりなので仕方ないと納得できた。池が汚いと言いながらもここに来れたのが嬉しいようで、ヨーコは僕にスターバックスのコーヒーを持たせたまま池の上の回廊めいた廊下をすたすたと先に歩いていく。前を行くヨーコの髪の毛がもそっと風に揺れていて、風が吹いていることに気付いた。

「風が吹いて来たね」

僕がヨーコに言うと、ヨーコは素早く振り返って真顔になり、それからその場で腹を抱えて大笑いし始めた。なにがそんなに面白いのかわからないが、なぜ笑っているのかも聞けなくて、両手のコーヒーをかわるがわる啜っていると、

「風が吹くって、なによ!笑わせないで!」

と、ふで箱を開くように笑う。ヨーコの大笑いが大脳に響く。そう言われると「風が吹く」なんておかしい言い回しだなとも思った。風はそのまま動詞で使うべきだったと反省した。膝をついて笑い続けるヨーコに追いつくと、ヨーコの長い髪の毛が口の中に入っていて、これはキスを誘っているのかと思ったが、いつもならヨーコはキスの前には必ず煙草を吸うので、キスを誘ってはいないのだろう。笑いこけるヨーコを引きずって池の真ん中の休憩するところまで連れていくと、ヨーコは切り株のような決して切り株ではない茶色の丸椅子に腰をおろし息を整え、煙草を吸いたいと言った。ズバン。そして雷が池に落ちた。

 池に雷が落ちたといっても、やはり池の中に雷は落ちていない。落雷の衝撃で池の水が幾分か外に溢れ出たのであろう、水位の低くなった水面に数百匹の魚が白い腹を水面に浮かせて気絶しており、その中には裏返った亀の姿もあった。その裏返った亀にどこからかカワセミが飛んできて縁起よくスッととまった。僕もヨーコも水しぶきを浴びたけれどスターバックスのコーヒーは溢さなかった。ヨーコは切り株のような丸椅子に座って足を組み、左手で煙草を挟むポーズをしている。ポケットから煙草を取り出してみると池の水を被って濡れていたので、僕はそれをそのまま池に放り投げた。これでヨーコとキスはできないと思った。投げた煙草のケースが気絶していた一匹の魚の腹に当たったが魚は起きなかった。死んでいるのだとしたらかわいそうだなと思った。

 公園に朝6時を知らせるチャイムが響き、ヨーコはそろそろ帰りたいと言い出した。僕はもう少し亀の腹の上にとまったままのカワセミを見ていたかったけど、ヨーコは一度言い出すと聞かないので、従うことにした。東の空に太陽が昇り始め、目を遣ると眩しくてくしゃみが出た。ヨーコも隣でくしゃみをした。スターバックスのコーヒーはカップの蓋の飲み口に池の水が付いていたけれどヨーコの分も僕が飲み干した。池の水の味が混ざったコーヒーは発作的に丸かじりしたグレープフルーツが思いのほかすっぱくて唾液腺から酸性の分泌物が過剰に出てきてpHが極端に下がった時に飲む麦茶のあの味と似ていた。

 帰り際に見える公園に集まった人々は、来たときよりも数が増えて人々々になっていた。そして、それぞれぞれがそれぞれぞれのことをしていた。昼を迎える頃には人々々々になっているだろう。


文芸ヌーは無料で読めるよ!でもお賽銭感覚でサポートしてくださると、地下ではたらくヌーたちが恩返しにあなたのしあわせを50秒間祈るよ。