探さないでください(puzzzle)

 俺は確かにそう書き残し、スマホを置いて家を出た。それにしてもこんなにも見つからないものなのか。まさか本当に探していないということはないだろう。家族と離れてからも、俺は働き続け、あいつが通帳を握る口座には月々の給与が振り込まれた。
 あいつも給料日になれば俺の個人口座にお小遣いを振り込み続けた。給与口座を変えなかったのは、会社での手続きが面倒だっただけではない。昭和の夫婦のように暮らしていた俺たち。妻と一人息子を路頭に迷わせるわけにはいかない。給料日になると毎月振り込まれるお小遣いの喜び。おまえの心遣いには思わず涙した。
 そんな暮らしが何ヶ月も続くとやはり一つの疑念が浮かぶ。あいつら本当に俺を探していないのではないか。給料さえ毎月振り込まれていれば満足なのか。「亭主元気で留守が良い」とはかつてよく聞いた。一九八六年には流行語にもなった大日本除虫菊株式会社のCMコピー。
 俺は僅かなお小遣いで酒を呷って涙する。探さないでくださいと言ったのは確かに俺で、探さないことこそが思いやりなのか。一時は給与口座の変更も考えた。しかし、それは余りに身勝手な話であろう。家計を担っていた俺が勝手に家を出て、金も送らない。そんなことがまかり通るとは考えていない。
 ちょっとした気まぐれだったのだ。昨年から続く日々の在宅勤務。どことなく居心地の悪さを感じていた。やはり亭主は元気で留守がいいのだ。亭主だって留守だから元気なのだ。無駄に会社へ行くわけにもいかない。コーヒー一杯、電源マックで粘ってみる。カラオケボックスからWeb会議に出てみる。なにやら新鮮だった。挙げ句、ネカフェで寝泊まりしてみた。金を使い過ぎた月には一部を会社精算にまわした。顧客とのWeb会議でカラオケボックスに入った場合は精算していいとも聞いたから。宿泊はせめてビジネスホテルにしておくべきだった。
 春はいい。土手に寝転んで空を眺める日が増えた。家族の顔は覚えている。
 ひょんなことからあいつらが俺を目にするなんてことがあればいい。ATMの前で電話しながら慌てふためくお婆ちゃんを見つけて、俺は振り込め詐欺から彼女を救う。県警から感謝状を受け取る勇姿がテレビ神奈川かなんかに映ってさ。
 ひょんなことから聖火ランナーに抜擢されて、テレビ東京かなんかに映った勇姿をあいつらが目にするなんてのもいい。今の流行りに乗るならば、ひょんなことから聖火ランナーに選ばれたんだけど、スケジュールの都合とか言いながら辞退したい。ヤフーニュースかなんかで取り上げられた俺の反骨心があいつらの目に止まったりしてさ。
 馬鹿な妄想をしながらなんとか生きている。ちょっとした気まぐれで家を出てさ、仕事もクビになってさ、放浪、流浪、漂泊、流離。食品なんて三分の一は廃棄されている。見た目は汚くても拾い食いで腹は満たせる。臭いは酷くても悪いところはない。
 ひょんなことから息子に出くわすの。あいつは怒り狂って血反吐するほど殴られる。こんなに腕力があったとはな。肉食えてんだな。地面に転がりながら頼もしく感じた。俺は情けない笑みで一つだけ聞きたかった。
 ちょっとくらい探してくれたよな。
 顎を砕かれたお陰で惨めな台詞は吐けなかった。あいつは唾を吐いて背を向ける。春は短い。間もなく訪れる未曽有の猛暑をどう過ごすか。今後の課題だ。

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